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2007/12/30
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カテゴリ:水のメモ
2006年知花くららがミスユニバース2位。2007年ついに森理世がミスユニバース優勝。

人種差別の壁を超え、世界を席巻しはじめたアジアンビューティたちの先駈けとなった明治女性がいる。

 

末広ヒロ子

「日本のミスコン優勝第一号」末広ヒロ子




【少女期】

1893年、福岡小倉市長・末広直方の七人兄弟の四女として生まれた末広ヒロ子は透き通るような白肌に奥二重の大きな瞳と長い睫毛が美しく、近所では評判の美少女であった。

幼い頃から舞踊、茶道、華道に励み、音楽も琴とピアノをたしなみ、聡明な上に、いかにも良家の子女らしく温厚誠実な人柄で明るく人当たりがよい。小倉では評判の美少女だった。


【日本初のミスコン開催】

明治40(1907)年9月、アメリカの新聞社(シカゴ・トリビューン紙)が「ミスワールドコンテスト」を企画。

アメリカ、イギリス、カナダ、スエーデン、スペイン、日本の六カ国から代表を募り世界一の美女を決定するという壮大なものであった。

日本では時事新報社が打診を受け日本予選として明治41年3月5日、「日本美人写真募集」と銘打って、全国22新聞社の協力のもと大々的なキャンペーンを展開した。

自薦他薦は問わないが、芸妓・女優など芸能人は参加不可。
これが日本初の本格全国的ミスコンであり、のちに3月5日は「ミス・コンテストの日」とされ、さまざまなミスコンが開催されている。

スポンサーも現れ、優勝者はダイヤモンド指輪など総額3000円相当(現在の2~3千万円に相当)の景品という、まさに日本初にして最大の写真コンクールとなり、なんと7,000名もの応募があった。

100年後の2006年に行われたモー娘の第8期オーディションの応募総数が6,883名である。

当時、人口は現在の半分以下(約5千万人)、メディアといえば新聞しかない時代にあって驚異的な注目度といえる。

審査は写真選考で、まず明治40年に全国各地の審査員による一次審査が行われ各地域ブロックから5名ずつ、計215名を選抜。
ついで翌明治41年に時事新報社にて第二次選考が行われ、洋画家の岡田三郎助、彫刻家の高村光雲、女形俳優の河井武雄、歌舞伎俳優の中村芝翫、医学博士の三島通良など名だたる著名人13名が審査に当たった。


【知らぬ間に優勝】

この時、ヒロ子は16歳。

学習院女学部3年に在籍し、通学のため義兄・江崎清の家に下宿していた。

江崎はこの当時珍しい職業カメラマンで、ヒロ子もよく義兄に写真を撮られた。
もっとも写真を撮られることより、モデルとして化粧や髪結いをしたり、綺麗な着物を着るのが好きだったらしい。

江崎は写真を公開したがったが、ヒロ子がひどく嫌がるので、日ごろから残念に思っていた。

そんなとき新聞の「日本美人写真大募集」の広告に出会った。

ヒロ子の美しさもあったが、なにより己の写真家としての技量を世に試したいという気持ちが強まるあまり、ついにヒロ子との約束を破り、無断で自信作数点を応募してしまった。

実際、応募された写真の質にかなりのばらつきがある中で、江崎の撮影技術やセンスはヒロ子の美しさを一層引き立たせた。

ヒロ子は一次、二次審査をすんなり通過、審査員13人満場一致で堂々優勝となった。

このコンクールの最終目的が「ミスワールド」で、国際的に認められる美人というのが条件であったから、瞳が大きく、どこか西欧風の顔立ちのヒロ子が最適だったのだろう。

ヒロ子の写真は海を渡ってアメリカの総主催シカゴ・トリビューン紙に送られたが、こちらでは順位は付けられなかったようである。
俗説の6位入賞というのは、紙面の並びで6番目に写真が掲載されたことの誤解らしい。


時事新報社から優勝の報せを受けて、江崎は想像以上の結果に驚いたが「優勝ならば妹も喜ぶだろう」とようやくヒロ子に一切をうち明けた。

しかし、ヒロ子は激しく泣き「そんなことをされては嫌です。必ず兄様が新聞社から写真を取り戻して下さい」と訴えた。

そう言われても、時事新報社としてはこの日本初の巨大イベントの優勝者に下りられては困る。
ヒロ子の写真がこのイベントの成功そのものだった。

社主自らヒロ子を拝みこむように説得し、その熱意と新聞社の面子を思い、ついにヒロ子は折れて写真掲載を容認した。

ヒロ子の写真が全国の新聞に大きく掲載されるや否や、一躍時の人となった。
すぐに父・直方のもとには数百もの縁談の申込みが殺到した。

だが、ヒロ子だけは「一等にあたったなんぞって、私は困ります。兄様の写真は一等か存じませんが、私は一等ではありません」と困惑していた。

さらに新聞に載ってからと言うもの、学習院中が大騒ぎになり、中にはヒロ子の美貌を妬む者もおり、平穏な学生生活が台無しになったのが辛かった。


【退学処分】

それどころか、ついには学生生活を送れなくなった。

学習院の首脳部がヒロ子の優勝を問題視したのである。

この時、学習院院長は前年に就いたばかりの陸軍大将・乃木希典。女学部長は松本源三郎であった。

学習院側はヒロ子がこのコンクールに参加したことを知ると、直ちに協議会を開き

「女は虚栄心の盛んなるもの、いわんや女学部生徒のごとき上流の家庭に育ちしものにありては、本人が虚栄心に駆られて自ら応募せしならば、他の生徒等の取り締まりの上、停学もしくは論旨退学の処分をなさんと目下しきりに協議」した。

現代の価値観では偏見まみれの論旨退学は主に松本が主張した。
乃木はこれに同意も反対もしなかったらしい。

学習院がヒロ子を退学処分にしようとしていることを知り、コンクールを主催した時事新報社や全国の新聞社は紙上で一斉に反発。
ヒロ子の退学問題は世論を巻き込む大論争に発展した。

たとえば時事新報社が「学習院女子部には末広ヒロ子以外にも写真を応募したものが多数いる。優勝したからヒロ子だけが退学になるのは不条理だ」と責めると
松本が「応募者は全員処分する。順位の如何にかかわらず学園の風紀を乱すものである」と応戦するといった具合だった。

優勝賞品を受け取らなければ停学までという折衷案も出たが、結局、松本の強固な主張を乃木が承認した形で、末広ヒロ子の論旨退学処分が決定した。

ヒロ子はひどく悲しんだが、それでもなお一切の弁解をしなかった。


【乃木大将、奔走】

乃木がヒロ子が知らぬ間に写真を応募されたという顛末を知ったのは、既に論旨退学処分が決定した後であった。

乃木は驚愕し、まず松本に問いただしたが、松本だけでなく学習院の誰も知らない。

なにしろヒロ子の退学問題を巡って事があまり大きくなってしまい、義兄が責めを受けることを案じたヒロ子が、固く口を閉ざしてしまったので、学習院首脳部はおろか当の新聞社すらほんの一部の者しか事情を知らない。

乃木にこの事実を知らせたのは、義憤に駆られた新聞社の抗議によるものらしい。
(江崎が学園に赴いて陳情したという説もある)

乃木は激しく後悔した。

虚栄心などかけらもなく、逆に義兄をかばった立派な娘を退学処分にしてしまった。

しかも、ヒロ子を巡って論争になったため、同情論が多かったとはいえ、晒し者のような格好である。
このままでは、ヒロ子はなんの責もないのに、16歳の若さでこれから日陰道を歩まなくてはならないかもしれない。

考え抜いた末、乃木はヒロ子のために、よい縁談を探すのが一番いい方法だと思った。

この時代の女性は、良家に嫁ぐことが女子としての栄誉、親孝行という考え方が根強かったから、この思いつき自体は決して間違っていない。

ただ、陸軍大将自らが他家の子女の縁談のために腐心するというのは例がない。

しかし、乃木は大まじめであった。

乃木は自分の顔が効く陸軍の左官クラスで将来有望かつ出自の良い者を探した。

が、既に結婚しているもの、未婚でも遊びをおぼえすぎてしまっている者、素行振るまいに(乃木の基準で)問題がある者、適材はなかなか見つからず、乃木は奔走した。


【侯爵夫人へ】

そんな折、乃木の苦労を人づてに聞いた日露戦争の戦友、陸軍大将・野津道貫が乃木のもとを訪れた。

先輩格である野津がユーモア混じりに切り出したのは、望外の助け船であった。

たいそうな美人の縁談があるそうだが、息子(野津鎮之助)ではどうか?

野津道貫の長男・鎮之助は、その前年侯爵となったばかりで、次は貴族院議員となるのも確実視されている。
この時代、未婚の爵男というだけでも珍しい。早くから「良家子女」との縁談が殺到するのだ。

乃木はさっそく小倉市の末広家を訪問し、処分の間違いを深く詫びるとともに、侯爵との縁談という破格の手みやげを披露した。

末広家も地方有力者とはいえ平民といっていい。爵家との結婚など夢のような話だった。

ヒロ子もこれからの人生を不安に思っていた矢先、いきなり侯爵とのお見合い話で、喜ぶより先に大いに恐縮した。

野津鎮之助は陸軍軍人であったが教養人で、武人然としたところは少なく、実直な人柄をヒロ子は気に入った。

初めてヒロ子と対面したとき、鎮之助はその美しさにまともに話せず、後に「あのように美しい娘が自分の妻になるなど何かの間違いであるまいか」と漏らした。

ヒロ子は自分よりずっと年上の鎮之助のそういった純朴さも気に入り、初対面の時の鎮之助の緊張した様子を後年まで面白おかしく語った。

鎮之助の方も「日本一の美女」末広ヒロ子が、美しいだけでなく礼儀・作法・教養を具備している女性であることを知り、なにより義兄をかばって不条理な処罰に甘んじた心の美しさと強さを大いに気に入った。

退学処分の不始末と、陸軍大将が女生徒のために婿探しをしたと言われないよう、野津鎮之助とヒロ子は以前から婚約者だったということにされた。

二人は最初から許嫁だったという意見があるが、全ては乃木と野津の策である。

当時の陸軍大将(しかも野津と乃木)はいまの大臣などよりずっと権威があり、野津などが「息子とヒロ子は旧知で許嫁」と言えばもはや絶対だった。


縁談はトントン拍子にすすみ、翌年に式を執り行った。

媒酌人はもちろん乃木が買って出た。

しかめ面の多い乃木も、この日は相好を崩して上機嫌だったという。






美貌が災いして、一度は不遇を味わった末広ヒロ子であったが、内面の美しさが彼女を救い、ついには侯爵夫人として東京赤坂の野津邸(鹿鳴館などで有名な建築家ジョナサン・コンドル設計の豪邸)に迎えられ、一躍明治のシンデレラとなった。


大手のミスコンテストでは、美貌だけでなく、内面すなわち知性・教養も審査するとして、いわゆる高学歴候補者が(おそらく話題作りの目的で)必ず上位進出するということが起こっている。

さらに、そのように「内面」を評価されて上位進出したはずの候補者が、むしろ内面の卑小を露呈することもある

末広ヒロ子のシンデレラストーリーは、女性として、人としての内面の素晴しさは、学歴や職業といった軽薄安直なモノサシでは決して計れないことを、100年前に証明している。






最終更新日  2009/09/02 06:22:23 AM
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