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不思議なことだが、いや当然なのかも知れぬが、人間は不条理を信ぜず、あくまで応報思想を信じたがる。
その点ではすべての人はまことに宗教的で、新興宗教の隆盛は当然であろう。 そのため常にどこかで「善因は善果を生み、悪因は悪果を生む」と信じたがり、そうならないのは、この世のどこかに「悪」があるからだと信じている。 「社会が悪い」「世の中が悪い」「政治が悪い」「環境が悪い」「友人が悪い」等々、この「悪い」には際限がなく、世の中には「悪」が満ち満ちているらしい。 そしてこの言葉の背後にあるのは「しかし私は正しい」であろう。 この「正しい私」が、悪の誘惑によって転落した者を見たとき、「悪の誘惑に負けたのだから当然だ」と思う。 そして何かの災難が「正しい私」にふりかかって来たときは、「社会の悪」の犠牲者だと思えばよい。 これも一つの逃げ道、「前世の因果」も「親の因果」もなくなったとき、人は「社会が悪い」に逃れる。 では「社会が悪い」も封じられた場合どうなるか。 それこそ逃げ場はなくなる。 そこで、「社会の悪」という「悪」を生存させねばならず、そうなると、その犠牲者にならぬためには、ひたすらその悪を避けて善行を積めとなる。 そしてその善因の善果を得られぬ者は「社会の悪」というサタンの誘惑に陥ったことになる。 (山本七平 論評家・作家) 〔余計な解説〕 山本七平のいわんとするところは、因果応報(原因があって結果がある・仏教の考え方)という思想に固執する危険さだろう。 リアルな日常に生きていれば明白なように、多くのことは偶然や個人の力の及ばぬ外圧に左右される不条理の世界である。 タモリがTVで「不条理も理のうち」と言っていたのはまさに真理だ。 ほとんどの人は、人知人力では如何ともしがたい不条理があること知り、それを呑み込んでそれでも生きてゆく勇気を身につけ、はじめて一人前の社会人となる。 ところが、(因果)応報原理主義者は、自分の不幸について、常に原因(自分を苦しめる原因となっている悪)はなにか?と考える。 その「なにか」が自省に向かう分にはまだ社会に害悪をなすことも少ないだろうが、彼らは常に「自分は正しい」と信じがちだ。 (これが、仏教の因果応報思想と大きく異なる点) それは大きな人間的欠陥で、他人が不条理によって苛まれている時には冷酷になり、自分が苛まれる版になると「社会や環境が悪い」と責任を常に外に求める。 つまり、彼らは不幸だが、不幸は自分の内心が造ることに気が付かない。 だから、どこかに必ず原因=悪があると信じる。 いや、悪がどこかにあってくれないと、彼らは自己破綻してしまう。 ゆえに彼らは常に悪を・・・悪事を、陰謀を、犯人を必要とする。 彼らの言動がリアリティを失いがちなのは、不条理も理というリアルを拒否しているためだ。 自分の脳内にだけ存在する悪を憎み、常人には度し難い程、他者や社会に攻撃的なのはそういう理由なのだろう。 思うに、反日・貶日といわれる人々の根本にあるのも、意外にこういった「自分は悪くない」という願望と自己暗示(×確信や信念ではない)のかもしれない。 例えば、政治が悪いとき、常人は「私を含め有権者が間違った。反省して次は正しい行動をしよう」と考える。 だが、反日・貶日は「あの時代の軍が悪い、天皇が悪い、国民が悪い」「いまの時代の政府はダメで、国民はバカだし過去の反省が足りない」と言うが、決してその国民の中に自分を含めることがないように見える。 (言葉上はともかく、少なくとも真剣にそう考えている様子はなさそうである) 応報思想、自善他悪思想は、反日・貶日の人々を読み解く1つのヒントかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010/02/02 02:43:56 AM
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