72 ため息
ゆっくり走っている船。果てしない海に囲まれている。そして果てしない青い空。デッキの一部にいくつかの長いイスが並んでいる。その一つに座っている裕子。ぼんやりしているが時々漏らしているため息。また一つ。だが自分以外のため息が聞こえる。左右に目を向ける裕子。隣のイスに座っている男性から聞こえるため息。男性は手紙を読んだり返事を書こうとしたり。書くことが浮かばなくてあちこち眺める男性。 裕子は小さくお辞儀をして離れようとするがどうしても言いたくなって男性に近付いて「初めまして ですね」「はい」「私 時々言われるんです。聞いてはいけないのに聞いちゃうのねって」「なんですか?」「そのお手紙 恋人からですか?」「え?」「聞かれたら驚いちゃいますよね」 と言って舌を出して離れていく。 離れていく裕子の背中に「恋人からの手紙です」 裕子は振り向いて「それで ため息!」「いやぁ」「素敵です!」 といってまた離れていく。裕子の背中に「実はこの手紙の主は恋人。昔の恋人で今は女房」「えぇ」 といってまた振り向く裕子。そして男性の隣りに座った。「妻は心臓が悪くてね。私は一人で乗るのはいやだったんですけど たった三ヶ月だしお手紙のやりとりしましょうって女房が言い出して。昔の恋人同士みたいにね。うちは遠距離恋愛で」「いいお話です」「でも 書くことが浮かばなくなってきて」 船をあちこち眺める裕子。「そうですね」 だが手すりに止まっているカモメに気づいて「あぁ! 私 パラセーリングしたときに鳥になりたいと思いました」「へえ」「色々な国に飛んでいって そうやって死ぬんだったらいいかな」「確かに」「そうですか?」「あなたの船の思い出を教えてほしいな。よかったら喫茶店に行きませんか?」「あぁー だったら色々ノートに書いてあるんで持ってきます」 男性はうなづいた。 だが裕子は慌てて部屋に戻ったものの部屋中ひっくり返してもノートが見つからない。 「ウソー」 裕子の頭の中で想像していたのは裕子のノートを読んでいる男性。「いやぁ いいですね」「そうですか?」と答える裕子。「いいですよ」「えー」 輝く裕子の瞳。72 ため息