ただ,真っ直ぐに~教育に生きる~

2006/10/17(火)23:36

いじめ。

教育について(112)

悲惨な事件が続きますね。 ニュースを聞く、(自殺をした生徒の)ノートへの走り書きを見る度に、やりきれない思いでいっぱいになります。 さらにやりきれない思いを増幅させるのは 「これでまた、一部の責任感のない大人達が、文科省や学校・教師パッシングを始めるんだろうなあ…」 そんな思いです。 昔話をします。 いいことかどうかは別にして、同様のいじめは自分の中学でもありました。 昭和61年に自殺者が出て問題になった「葬式ごっこ」もやってました。 つまりは、子どもの成長過程において、 「相手をバカにすることで自分が優位に立ちたい」 「相手にちょっかいをかけて相手にされたい」 「世間で言われている“悪ふざけ”をやってみたい」 そんな気持ちを持つ方が、昔から変わらず「普通のこと」なんです。 そして、自分の育った中学では、校内暴力~それこそ、先生への殴る・蹴る、のレベル~もありましたし、高校進学率が90%以下と、全国平均をかなり下回るような(言葉で定義するならば)「底辺校」でした。 それでも自殺者は出ませんでしたし、中学時代に「不良」と呼ばれていた連中は(ほとんどが最終学歴が中卒です)、今でもそのときの先生、そして自分たちと気持ち良い交流を続けています。 こういう事件があるたびに、「違いはなんなのかなあ…」と漠然と思います。 そしてその度ごとに、 「子どもである自分たちに真剣に向かってきてくれた先生、そして地域社会の人たちがいたから」 そんな結論に辿りつきます。 ちょっとした悪ふざけは軽くいなしたけれども、「葬式ごっこ」のときには涙を流して叱った先生。 男の先生が殴られているところに「止めて!」と向かっていった女性の先生(この方、私の中学時代の大恩師です)。 そしてそれだけじゃない、このような先生の存在を信じ、先生を応援した地域社会の皆さんの学校参加。 このようなことが有機的に結びついていたんです。 文科省に文句を言うばかり…でも、文科省は教育が正しく行われるために政策決定をするのがミッションで、文科省に訴えても(文句を言う人が思っているような)改善はまず行われないでしょう。 学校現場や地方行政庁に訴える方がまだ実効性はありますが、それだけでは子どもたちに伝えきれません。 いじめが腹立たしい、そう思っている「あなた」が動かなければ、何も解決しません。 もし動けない環境にあるのであれば、関わっている人々に第三者的な文句を言うものではありません。 また、「今の自分にできること」を精一杯やるべきです。 私には子どもがいませんし、いじめそのものは私個人の問題として降りかかってきていません。 もし降りかかってくれば、それこそ必死になって、学校に、地域に訴えたいとは思っていますし、それ以前に、子供から受け取る危険信号を必死になって察知したいと思っています。(現実的には難しいのかもしれませんが…) 今の私にできることは、この楽天を始め、表現できる場で自分の思いを表現し、そして、一人でも多くの人たちの連帯意識(とでもいうのでしょうか)を少しずつ生み出すこと。 そして、いじめに問題意識を感じるのであれば、他人事にするのではなく、「大人社会を形成している自分自身にも責任があるんだ」そう思える人が一人でも多い大人社会を作ること。 そして、悩んでいる子供がいるのなら。。。 「死ぬのだけはだめだよ、人間社会ってすばらしいよ。社会という大海原に飛び出れば、素敵な思い、いっぱい、いっぱい感じられる社会ですよ」 自分の背中をして、そう伝えられるような人間であり続けること。

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