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2021年11月18日
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1972年10月31日


フィラデルフィア・フィリーズは、三塁手のドン・マネーを

二人の投手とともにミルウォーキー・ブリューワーズへ

トレードします。

最も重要な事は、球団史上で間違いなく偉大な三塁手に

なるであろう、マイク・シュミットという名の若者のために

ホットコーナーを空けたということです。


マイク・シュミット




★プチトリビア


リーグMVP3度、本塁打王8回、打点王4回、

ゴールドグラブ10回と大リーグを代表する

スーパースターになったシュミットは、

歴代最高の三塁手ともいわれています。



1999年10月30日


長い間、ベースボール道化師として活躍した

マックス・パトキンが動脈瘤のため、79歳で死去しました。

「クラウン・プライス・オブ・ベースボール(野球の貴重な道化師)」と

命名されたパトキンは、彼の異常な首の回り方と風変わりなスタントで

50年以上に渡り、マイナーリーグの観衆を楽しませました。

また、彼は1988年にヒットした「ブル・ダーラム」で自身役を演じました。


マックス・パトキン




★プチトリビア


マックス・パトキンは、アル・シャハト、ジャッキー・プライスに次いで

3代目のベースボール道化師でした。

マイナーで投手をしていた彼は、腕の故障のためにキャリアを縮小し、

第二次世界大戦で海軍に入隊しました。

1944年にハワイでパトキンは、あのジョー・ディマジオにホームランを

打たれました。

その後、ビル・ベックに拾われ、クリーブランド・インディアンスで

コーチとなりましたが、49年の球団売買とともに辞職し、旅回りを始めました。


1969年10月29日


将来、殿堂入りのトム・シーバーは、

ナショナル・リーグのサイヤング賞に輝きます。

リーグ1位の25勝をあげて、メッツの投手陣を固定させ、

ワールドシリーズでボルチモア・オリオールズに勝利するという

驚くべき事を起こしました。


トム・シーバー





★プチトリビア


この69年は、両リーグともに東西二地区制になり、

プレーオフを導入した年。

さらに、プロフェッショナル・ベースボールが誕生してから、

100周年という記念の年に、7年連続BクラスだったNYMが

奇跡を起こし、「ミラクル・メッツ」と呼ばれました。


1968年10月28日


将来、殿堂入りのボブ・ギブソンは、

満票で自身初のサイヤング賞に輝きました。

カージナルスのエースは、268奪三振と13完封と

防御率1.12でリーグ1位となりました。

この防御率は、300イニング以上投球回では、

20世紀で最も低いものです。


ボブ・ギブソン





★プチトリビア


前年にワールドシリーズMVPを獲得。

セントルイス・カージナルスの大エースだったギブソンは、

カージナルス史上、251勝、56完封、1336四球、

3117奪三振、3884.1回は歴代1位を保持しています。


1991年10月27日


ミネソタ・ツインズとアトランタ・ブレーブスの

激しい戦いのワールドシリーズは第7戦の延長10回に

ジーン・ラーキンの一打がダン・グラッデンを生還させ、

ツインズが勝利をおさめました。

ミネソタのジャック・モリスは、10回を完封して、

シリーズMVPに輝きました。


ジャック・モリス





★プチトリビア


前年は、ともに最下位だったツインズとブレーブス。

「シンデレラ・シリーズ」と名づけられたシリーズは、

延長戦が3試合、サヨナラ決着が史上最多の4試合と

激闘でした。


1982年10月26日


フィラデルフィア・フィリーズのスティーブ・カールトンは、

史上初めて4回目のサイヤング賞に輝いた投手になりました。

37歳の左腕は、23勝と286奪三振でリーグ1位に輝き、

ナショナル・リーグでトップになりました。

しかし、1998年と2001年にロジャー・クレメンスが5回目、6回目の

サイヤング賞に輝き、カールトンは抜き去られました。


スティーブ・カールトン




★プチトリビア


カールトンの奪三振、4136は左腕で歴代2位、

通算でも4位というもので、329勝は左腕の歴代2位です。


1986年10月25日


ニューヨーク・メッツは、延長10回のウラに、

ボストン・レッドソックスの一塁手ビル・バックナーが

ムーキー・ウィルソンのゴロをトンネルしたときに、

ワールドシリーズ第6戦を勝ち取りました。

この有名なプレーで、あと1アウトでシリーズ敗退から

3得点して生き返りました。


ビル・バックナー




★プチトリビア


通常であれば、足首を負傷しているバックナーに替えて

ディブ・ステイプルトンを守備固めとするはずだったが、

一説によると、マクナマラ監督がバックナーに温情をかけて、

あえて交代させなかったのではないか、ともいわれています。


1972年10月24日


殿堂入りのジャッキー・ロビンソンが、

心臓発作のために53歳で亡くなりました。

彼がワールドシリーズで始球式を行ってから10日後のことでした。

20世紀初の黒人大リーガーのロビンソンは、人種の壁を破り、

プレーすることの勇気と感謝をもたらしました。


ジャッキー・ロビンソン




★プチトリビア


当時のGMだったブランチ・リッキーが、

プレーそのものよりも、大リーグにおける

重大で初めての出来事に対して、耐えられるだけの

強い精神力をもった人物としてロビンソンを選んだ、

といわれています。


1993年10月23日


トロント・ブルージェイズのジョー・カーターは、

フィラデルフィア・フィリーズのミッチ・ウィリアムスから

劇的な3ラン・ホーマーを放ち、ワールドシリーズを終わらせます。

カーターの一撃は、第6戦の9回に放たれ、8-6でブルージェイズに

勝利と2年連続のワールドシリーズシリーズ・タイトルをもたらしました。


ジョー・カーター




★プチトリビア


昨年、カナダに初めてワールドチャンピオンをもたらした

ブルージェイズですが、カーターの他にも、リッキー・ヘンダーソン、

ポール・モリター、ジョン・オルルドら、そうそうたるメンバーでの

V2となりました。


1992年10月22日


伝説のブロードキャスターのレッド・バーバーが

84歳で亡くなりました。

バーバーは、1934年にシンシナチ・レッズの実況を始め、

その後、ブルックリン・ドジャース、ニューヨーク・ヤンキースと

実況を重ねました。

1978年にバーバーとメル・アレンは、

野球放送について優秀と認められて、

初めて(殿堂入りの)フォード・フリック賞を受賞しました。


レッド・バーバー




★プチトリビア


バーバーは、1934年~1938年でシンシナティ・レッズ 、

1939年~1953年がブルックリン・ドジャース 、1954年~1966年に

ニューヨーク・ヤンキースの実況放送を手がけました



1975年10月21日


ボストン・レッドソックスとシンシナチ・レッズの

ワールドシリーズ第6戦は、3日間の雨天順延の後に

フェンウェイ・パークで再開しました。

シーソー・ゲームは、延長戦になり、12回のウラに

カールトン・フィスクの本塁打でレッドソックスが

7-6で劇的な勝利をおさめました。


カールトン・フィスク




★プチトリビア


この時のフィスクのホームランを見届ける仕草が

「ヌエレフダンス」と呼ばれ、記憶に残る本塁打とされています。

(ヌエレフとは、ロシアの有名なバレエダンサー)


1931年10月20日


将来、殿堂入りの外野手ミッキー・マントルが、

オクラホマ州スパビノーで誕生しました。

名前は、殿堂入りのフィラデルフィア・アスレチックスの

名捕手ミッキー・カクレインにちなんで命名され、

マントルは、通算536本塁打を記録し、ヤンキースを

18年間で12回のペナントをもたらしました。


ミッキー・マントル




★プチトリビア


マントルの父は右利きで、祖父が左利きだったため、

生まれながらのスイッチヒッターといわれています。

左右両打席本塁打は、10度記録しています。


1981年10月19日


1981年のNLCS第5戦の1-1の9回二死から、

ロサンジェルス・ドジャースのリック・マンディがモントリオールの

スティーブ・ロジャースから本塁打を放ちます。

このドラマチックな一打は、ドジャースをワールドシリーズへ導き、

さらにヤンキースを6試合で倒しました。


リック・マンディ




★プチトリビア


マンディは、第一回ドラフトの全米1位指名という

輝かしい過去を持つ。

しかし、3度目の移籍のドジャースで華々しい一打を記録。

76年のカブス時代の「星条旗事件」のヒーローでもあります。


1977年10月18日


レジー・ジャクソンがワールドシリーズ第6戦で

ドジャースに対して3本塁打した時に

「ミスター・オクトーバー」が誕生しました。

ジャクソンの驚弾は、4,5,8回の打席ですべて初球を打ちました。

6試合のシリーズ記録となる5本塁打でMVPに輝き、第6戦を8-4で勝利し、

ワールドシリーズも4勝2敗で勝ち取りました。


レジー・ジャクソン




★プチトリビア


ちなみに、翌78年のワールドシリーズも77年と同じ

NYYvsLADで、第1戦の第一打席で本塁打。

すなわち、ワールドシリーズで2年越しながら4打席連続を記録したんです。


1971年10月17日


将来、殿堂入りのピッツバーグ・パイレーツ、

ロベルト・クレメンテが第7戦でボルチモア・オリオールズの

マイク・クエイヤーに対して本塁打を打ち、信じられないような

ワールドシリーズを終わらせました。

スティーブ・ブラスは、シリーズ2勝0敗、打率.414のクレメンテが

MVPに輝きました。


ロベルト・クレメンテ




★プチトリビア


PITの世界一は、60年以来11年ぶりで、

相手のBALは3年連続リーグ制覇中で

前年は世界一の黄金期でした。


1962年10月16日


ワールドシリーズ第7戦でニューヨーク・ヤンキースは、

1-0とリードしていましたが、サンフランシスコ・ジャイアンツが

9回に2アウト2,3塁とします。

将来殿堂入りのウィリー・マッコビーが痛烈なラインドライブの

打球を放ちましたが、ヤンキースの二塁手ボビー・リチャードソンが

その打球をつかみ、シリーズを終わらせました。


ボビー・リチャードソン




★プチトリビア


この年の世界一で前年に引き続きの連覇を果たし、

63,64年もリーグ制覇するが、ここから次の世界一(77年)まで

低迷が続くことになります。


1988年10月15日


負傷者カーク・ギブソンは、ワールドシリーズ史上で

最もドラマチックな本塁打の一つを放ちました。

第一戦の9回の2アウトから、オークランドのクローザー、

デニス・エカーズリーに対して代打で登場します。

ギブソンは、右翼スタンドへ2ランを叩き込み、5-4で

ドジャースに勝利をもたらしました。


カーク・ギブソン




★プチトリビア


アスレチックスはホセ・カンセコの満塁本塁打、

エースのデイブ・スチュワートが8回を3失点で、

満を持して45セーブのエカーズリーを投入したが、

満身創痍だったギブソンの一振りに負けました。


1969年10月14日


ニューヨーク・メッツのセンター、トミー・エイジーは、

ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズ第3戦で

2度のスーパー・キャッチを魅せました。

エイジーは、さらに本塁打も放ち、5-0で勝利して、

シリーズを2勝1敗とリードしました。


トミー・エイジー




★プチトリビア


エイジーは、66年にCWSと70年のNYMで

史上初となる両リーグでゴールドグラブを受賞した選手。

そしてこの69年は、「ミラクルメッツ」が初の世界一に。


1960年10月13日


ピッツバーグ・パイレーツの二塁手、ビル・マゼロスキーは

ワールドシリーズ史上最もドラマチックな本塁打のひとつを打ちました。

ニューヨーク・ヤンキースのリリーバー、ラルフ・テリーに対して

9回ウラの先頭打者マゼロスキーは、2球目を左翼ブリーチャー席へ

叩き込み、第七戦を10-9での勝利をもたらしました。


ビル・マゼロスキー




★プチトリビア


史上初の最終戦でのサヨナラ本塁打。

PITが4-0とリードしたが、6回にNYYが5-4と逆転、

さらに2点追加で7-4から、8回にPITが9-7と再逆転。

しかし、9回表に9-9の同点になり、奇跡の本塁打が出ました。


1963年10月12日


大リーグ史上で唯一のヒスパニックーアメリカンオールスター・

ゲームが開催されました。

ラテンスターの中には、将来殿堂入りのルイス・アパリシオ、

オーランド・セペダ、ロベルト・クレメンテ、ホワン・マリシャルを

含んで、他にはフェリペ・アルー、トニー・オリーバがいました。

ラテンのスターとして知られたマニー・モタは、ナショナル・リーグを

勝利に導く、代打安打を放ちました。


マニー・モタ




★プチトリビア


ドミニカ共和国出身のモタは、代打安打150本の

歴代2位の記録を持っています。

1位は、レニー・ハリスで、212本です。


1967年10月11日


ニューヨーク・メッツは、67年シーズンをサルティー・パーカーと

残り11試合に暫定のウエス・ウエストラムを監督にしたが、

前ブルックリンのオールスター選手だったギル・ホッジスを

呼び戻します。

ホッジスは、ワシントン・セネタースの監督でしたが、

ニューヨークから100,000ドルの補償とともに移籍しました。

2年後、ホッジスはメッツを初のワールド・チャンピオンに導きました。


ギル・ホッジス
← ギル・ホッジス(右)




★プチトリビア


ギル・ホッジスは、ツー・プラトン・システムを多用した、

といわれていますが、NYYで5連覇を達成したケーシー・ステンゲルが

ツー・プラトン・システムの元祖といわれています。


1926年10月10日


セントルイス・カージナルスは、3-2とリードした7回に

満塁のピンチで代打のトニー・ラゼリに対して、

グローバー・クリーブランド・アレキサンダーをマウンドに送ります。

アレキサンダーは、ラゼリを抑えて、ボンバーズを封じ込めて、

第七戦に勝利を呼び込みました。


グローバー・クリーブランド・アレキサンダー




★プチトリビア


この時、アレキサンダーは、39歳。

この年の6月にカージナルスへ移籍してきました。

ワールドシリーズでは、第六戦で完投勝ちですでに2勝。

前日投げたロートルがカージナルスに初の世界一をもたらした。


1996年10月9日


12歳のジェフリー・マイヤーという名の少年が、

アメリカン・リーグ・チャンピオンシップ・シリーズ第一戦で

ニューヨーク・ヤンキースが5-4でボルチモア・オリオールズに

勝利する上で重要な役割を果たします。

8回に、ヤンキースのデレク・ジーターの打球をヤンキースタジアムの

ライトのフェンス際でキャッチしました。

リッチ・ガルシア審判は、本塁打と判定し、ヤンキースが4-4の

同点に追いつきました。


アメリカン・リーグ・チャンピオンシップ・シリーズ第一戦




★プチトリビア


ここで追いついたヤンキースは、延長11回に

バーニー・ウィリアムスの本塁打で第一戦を取り、

4勝1敗でワールドシリーズへ駒を進めました。


1956年10月8日


ニューヨーク・ヤンキースのドン・ラーセンは、

最初のー唯一のーワールドシリーズでの

パーフェクト・ゲームを達成します。

ヤンキー・スタジアムにおいてわずか97球で、

ベテラン右腕はブルックリン・ドジャースを2-0と封じました。

ミッキー・マントルは、ホームランと5回のスーパーキャッチで

ラーセンの偉業を助けました。


ドン・ラーセン




★プチトリビア


このラーセンという男、2年前の54年には、

3勝21敗(?!)という記録的な数字を残していて、

この56年のシーズン11勝が自身初の2ケタ勝利だった。

何が起こるかわからないから、面白いですよね。


1904年10月7日


「ハピー」ジャック・チェスブロは、ニューヨーク・ハイランダースを

ボストン・ピルグリムスから3-2の勝利し、自身のシーズン41勝目を

記録しました。

これはアメリカン・リーグ最高記録でありつづけますが、

シーズン最終日のチェスブロのワイルドピッチでハイランダースが

ペナントを逃し、甘酸っぱいものになってしまいました。


「ハピー」ジャック・チェスブロ




★プチトリビア


この年のチェスブロは、最多勝、最多完投(48)、最多イニング(454.2)と

まさに絶好調だけだっただけに、痛い痛いワイルドピッチでした。


1926年10月6日


ベーブ・ルースは、ワールド・シリーズで

1試合3本塁打をする最初のプレーヤーになります。

ルースは、第4戦で3本塁打してセントルイス・カージナルスから

ヤンキースに勝利をもたらします。

彼のパフォーマンスは、レジー・ジャクソンが

ロサンジェルス・ドジャース相手に第6戦で3本塁打する

1977年まで、誰も達成することが出来ませんでした。


ベーブ・ルース




★プチトリビア


ジャクソンの3本塁打は、すべて初球を打った驚弾でした。

5回しか出場していないワールドシリーズ打率は、.357で

生涯打率が.267ですから、まさしく「Mr.October」です。


1941年10月5日


ワールドシリーズ第4戦の9回二死から、

ドジャースのミッキー・オーウェン捕手が

3ストライクめを取り損なってしまいます。

この失策は、ヤンキースのトミー・ヘンリック外野手を

一塁に生かし、7-4でヤンキースが勝つきっかけを与えました。

ブルックリンは、勝てばシリーズを2-2のタイにすることが出来たのに

第5戦でシリーズの負けが決まりました。


ミッキー・オーウェン




★プチトリビア


このシリーズは、第1戦が3-2でNYY、

第2戦は3-2でBRN、第3戦が2-1でNYYとすべてが1点差。

この第4戦も普通なら4-3でBRNが勝利するところだったのに。

ひとつのプレーが明暗を分けることは、多々あります。


1955年10月4日


ブルックリン・ドジャースは、ワールド・シリーズ第七戦で

ニューヨーク・ヤンキースを2-0でシャットアウトして、

初のワールドチャンピオンに輝きました。

強打の一塁手、ギル・ホッジスがジョニー・ポドレスの完投勝ちを

助ける2打点を稼ぎ出しました。

ドジャースは、これまで1941,47,49,52,53年とワールドシリーズで

すべてヤンキースに負けて、世界一になれませんでした。


ブルックリン・ドジャース




★プチトリビア


敵地で2連敗したドジャースは、

地元に帰って、3連勝で一気に逆王手。

第六戦は落としたが、最終戦で悲願を達成しました。


1951年10月3日


ニューヨーク・ジャイアンツのボビー・トムソンは、

ブルックリンのラルフ・ブランカから「世界を駆け巡った」

ペナントを勝ち取る3ラン・ショットを放ちました。

ジャイアンツは、ナショナル・リーグ・プレーオフで

4-1とリードして9回に入りましたが、トムソンの一撃で

ステージからひきずりおろされました。


ボビー・トムソン




★プチトリビア


この時は、ワンゲーム・プレーオフではなく、3試合制でした。

1勝1敗で迎えた第3戦の9回ウラ、2-4からの奇跡の逆転3ランでした。


1978年10月2日


バッキー・デントの信じられない本塁打で、

ニューヨーク・ヤンキースがフェンウェイ・パークでの

ワンゲーム・プレーオフでボストン・レッドソックスを破ります。

2点を追う6回、マイク・トーレスから放ったデントの打球は、

グリーンモンスターを越えていく3ランになりました。

ヤンキースは、5-4で勝利し、アメリカン・リーグ・チャンピオンシップ

シリーズに進出しました。


バッキー・デント




★プチトリビア


この78年は、一時14ゲーム差まで広がっていたが、

最終戦で同率首位に追いつき、デントの奇跡の逆転3ランで地区V。

一気にワールドシリーズまで制し、77年に続き、連続世界一となった。


1961年10月1日


ニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスが、

伝説のベーブ・ルースの34年の記録を破る

シーズン61号本塁打を放ちました。

マイルストン・ショットは、ボストンのトレーシー・スタラード

から放ち、ヤンキースを1-0での勝利に導きました。


ロジャー・マリス




★プチトリビア


生え抜きのミッキー・マントルと「MM砲」と呼ばれたが、

地元では、「マントルは善玉、マリスは悪玉」といわれ、

ベイブ・ルースの記録をマントルに抜いてもらいたい、という

感情から「ニューヨークは嫌な町だ」とマリスは言っていました。






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最終更新日  2021年11月18日 16時43分04秒
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