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1972年10月31日フィラデルフィア・フィリーズは、三塁手のドン・マネーを二人の投手とともにミルウォーキー・ブリューワーズへトレードします。最も重要な事は、球団史上で間違いなく偉大な三塁手になるであろう、マイク・シュミットという名の若者のためにホットコーナーを空けたということです。★プチトリビアリーグMVP3度、本塁打王8回、打点王4回、ゴールドグラブ10回と大リーグを代表するスーパースターになったシュミットは、歴代最高の三塁手ともいわれています。1999年10月30日長い間、ベースボール道化師として活躍したマックス・パトキンが動脈瘤のため、79歳で死去しました。「クラウン・プライス・オブ・ベースボール(野球の貴重な道化師)」と命名されたパトキンは、彼の異常な首の回り方と風変わりなスタントで50年以上に渡り、マイナーリーグの観衆を楽しませました。また、彼は1988年にヒットした「ブル・ダーラム」で自身役を演じました。★プチトリビアマックス・パトキンは、アル・シャハト、ジャッキー・プライスに次いで3代目のベースボール道化師でした。マイナーで投手をしていた彼は、腕の故障のためにキャリアを縮小し、第二次世界大戦で海軍に入隊しました。1944年にハワイでパトキンは、あのジョー・ディマジオにホームランを打たれました。その後、ビル・ベックに拾われ、クリーブランド・インディアンスでコーチとなりましたが、49年の球団売買とともに辞職し、旅回りを始めました。1969年10月29日将来、殿堂入りのトム・シーバーは、ナショナル・リーグのサイヤング賞に輝きます。リーグ1位の25勝をあげて、メッツの投手陣を固定させ、ワールドシリーズでボルチモア・オリオールズに勝利するという驚くべき事を起こしました。★プチトリビアこの69年は、両リーグともに東西二地区制になり、プレーオフを導入した年。さらに、プロフェッショナル・ベースボールが誕生してから、100周年という記念の年に、7年連続BクラスだったNYMが奇跡を起こし、「ミラクル・メッツ」と呼ばれました。1968年10月28日将来、殿堂入りのボブ・ギブソンは、満票で自身初のサイヤング賞に輝きました。カージナルスのエースは、268奪三振と13完封と防御率1.12でリーグ1位となりました。この防御率は、300イニング以上投球回では、20世紀で最も低いものです。★プチトリビア前年にワールドシリーズMVPを獲得。セントルイス・カージナルスの大エースだったギブソンは、カージナルス史上、251勝、56完封、1336四球、3117奪三振、3884.1回は歴代1位を保持しています。1991年10月27日ミネソタ・ツインズとアトランタ・ブレーブスの激しい戦いのワールドシリーズは第7戦の延長10回にジーン・ラーキンの一打がダン・グラッデンを生還させ、ツインズが勝利をおさめました。ミネソタのジャック・モリスは、10回を完封して、シリーズMVPに輝きました。★プチトリビア前年は、ともに最下位だったツインズとブレーブス。「シンデレラ・シリーズ」と名づけられたシリーズは、延長戦が3試合、サヨナラ決着が史上最多の4試合と激闘でした。1982年10月26日フィラデルフィア・フィリーズのスティーブ・カールトンは、史上初めて4回目のサイヤング賞に輝いた投手になりました。37歳の左腕は、23勝と286奪三振でリーグ1位に輝き、ナショナル・リーグでトップになりました。しかし、1998年と2001年にロジャー・クレメンスが5回目、6回目のサイヤング賞に輝き、カールトンは抜き去られました。★プチトリビアカールトンの奪三振、4136は左腕で歴代2位、通算でも4位というもので、329勝は左腕の歴代2位です。1986年10月25日ニューヨーク・メッツは、延長10回のウラに、ボストン・レッドソックスの一塁手ビル・バックナーがムーキー・ウィルソンのゴロをトンネルしたときに、ワールドシリーズ第6戦を勝ち取りました。この有名なプレーで、あと1アウトでシリーズ敗退から3得点して生き返りました。★プチトリビア通常であれば、足首を負傷しているバックナーに替えてディブ・ステイプルトンを守備固めとするはずだったが、一説によると、マクナマラ監督がバックナーに温情をかけて、あえて交代させなかったのではないか、ともいわれています。1972年10月24日殿堂入りのジャッキー・ロビンソンが、心臓発作のために53歳で亡くなりました。彼がワールドシリーズで始球式を行ってから10日後のことでした。20世紀初の黒人大リーガーのロビンソンは、人種の壁を破り、プレーすることの勇気と感謝をもたらしました。★プチトリビア当時のGMだったブランチ・リッキーが、プレーそのものよりも、大リーグにおける重大で初めての出来事に対して、耐えられるだけの強い精神力をもった人物としてロビンソンを選んだ、といわれています。1993年10月23日トロント・ブルージェイズのジョー・カーターは、フィラデルフィア・フィリーズのミッチ・ウィリアムスから劇的な3ラン・ホーマーを放ち、ワールドシリーズを終わらせます。カーターの一撃は、第6戦の9回に放たれ、8-6でブルージェイズに勝利と2年連続のワールドシリーズシリーズ・タイトルをもたらしました。★プチトリビア昨年、カナダに初めてワールドチャンピオンをもたらしたブルージェイズですが、カーターの他にも、リッキー・ヘンダーソン、ポール・モリター、ジョン・オルルドら、そうそうたるメンバーでのV2となりました。1992年10月22日伝説のブロードキャスターのレッド・バーバーが84歳で亡くなりました。バーバーは、1934年にシンシナチ・レッズの実況を始め、その後、ブルックリン・ドジャース、ニューヨーク・ヤンキースと実況を重ねました。1978年にバーバーとメル・アレンは、野球放送について優秀と認められて、初めて(殿堂入りの)フォード・フリック賞を受賞しました。★プチトリビアバーバーは、1934年~1938年でシンシナティ・レッズ 、 1939年~1953年がブルックリン・ドジャース 、1954年~1966年にニューヨーク・ヤンキースの実況放送を手がけました1975年10月21日ボストン・レッドソックスとシンシナチ・レッズのワールドシリーズ第6戦は、3日間の雨天順延の後にフェンウェイ・パークで再開しました。シーソー・ゲームは、延長戦になり、12回のウラにカールトン・フィスクの本塁打でレッドソックスが7-6で劇的な勝利をおさめました。★プチトリビアこの時のフィスクのホームランを見届ける仕草が「ヌエレフダンス」と呼ばれ、記憶に残る本塁打とされています。(ヌエレフとは、ロシアの有名なバレエダンサー)1931年10月20日将来、殿堂入りの外野手ミッキー・マントルが、オクラホマ州スパビノーで誕生しました。名前は、殿堂入りのフィラデルフィア・アスレチックスの名捕手ミッキー・カクレインにちなんで命名され、マントルは、通算536本塁打を記録し、ヤンキースを18年間で12回のペナントをもたらしました。★プチトリビアマントルの父は右利きで、祖父が左利きだったため、生まれながらのスイッチヒッターといわれています。左右両打席本塁打は、10度記録しています。1981年10月19日1981年のNLCS第5戦の1-1の9回二死から、ロサンジェルス・ドジャースのリック・マンディがモントリオールのスティーブ・ロジャースから本塁打を放ちます。このドラマチックな一打は、ドジャースをワールドシリーズへ導き、さらにヤンキースを6試合で倒しました。★プチトリビアマンディは、第一回ドラフトの全米1位指名という輝かしい過去を持つ。しかし、3度目の移籍のドジャースで華々しい一打を記録。76年のカブス時代の「星条旗事件」のヒーローでもあります。1977年10月18日レジー・ジャクソンがワールドシリーズ第6戦でドジャースに対して3本塁打した時に「ミスター・オクトーバー」が誕生しました。ジャクソンの驚弾は、4,5,8回の打席ですべて初球を打ちました。6試合のシリーズ記録となる5本塁打でMVPに輝き、第6戦を8-4で勝利し、ワールドシリーズも4勝2敗で勝ち取りました。★プチトリビアちなみに、翌78年のワールドシリーズも77年と同じNYYvsLADで、第1戦の第一打席で本塁打。すなわち、ワールドシリーズで2年越しながら4打席連続を記録したんです。1971年10月17日将来、殿堂入りのピッツバーグ・パイレーツ、ロベルト・クレメンテが第7戦でボルチモア・オリオールズのマイク・クエイヤーに対して本塁打を打ち、信じられないようなワールドシリーズを終わらせました。スティーブ・ブラスは、シリーズ2勝0敗、打率.414のクレメンテがMVPに輝きました。★プチトリビアPITの世界一は、60年以来11年ぶりで、相手のBALは3年連続リーグ制覇中で前年は世界一の黄金期でした。1962年10月16日ワールドシリーズ第7戦でニューヨーク・ヤンキースは、1-0とリードしていましたが、サンフランシスコ・ジャイアンツが9回に2アウト2,3塁とします。将来殿堂入りのウィリー・マッコビーが痛烈なラインドライブの打球を放ちましたが、ヤンキースの二塁手ボビー・リチャードソンがその打球をつかみ、シリーズを終わらせました。★プチトリビアこの年の世界一で前年に引き続きの連覇を果たし、63,64年もリーグ制覇するが、ここから次の世界一(77年)まで低迷が続くことになります。1988年10月15日負傷者カーク・ギブソンは、ワールドシリーズ史上で最もドラマチックな本塁打の一つを放ちました。第一戦の9回の2アウトから、オークランドのクローザー、デニス・エカーズリーに対して代打で登場します。ギブソンは、右翼スタンドへ2ランを叩き込み、5-4でドジャースに勝利をもたらしました。★プチトリビアアスレチックスはホセ・カンセコの満塁本塁打、エースのデイブ・スチュワートが8回を3失点で、満を持して45セーブのエカーズリーを投入したが、満身創痍だったギブソンの一振りに負けました。1969年10月14日ニューヨーク・メッツのセンター、トミー・エイジーは、ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズ第3戦で2度のスーパー・キャッチを魅せました。エイジーは、さらに本塁打も放ち、5-0で勝利して、シリーズを2勝1敗とリードしました。★プチトリビアエイジーは、66年にCWSと70年のNYMで史上初となる両リーグでゴールドグラブを受賞した選手。そしてこの69年は、「ミラクルメッツ」が初の世界一に。1960年10月13日ピッツバーグ・パイレーツの二塁手、ビル・マゼロスキーはワールドシリーズ史上最もドラマチックな本塁打のひとつを打ちました。ニューヨーク・ヤンキースのリリーバー、ラルフ・テリーに対して9回ウラの先頭打者マゼロスキーは、2球目を左翼ブリーチャー席へ叩き込み、第七戦を10-9での勝利をもたらしました。★プチトリビア史上初の最終戦でのサヨナラ本塁打。PITが4-0とリードしたが、6回にNYYが5-4と逆転、さらに2点追加で7-4から、8回にPITが9-7と再逆転。しかし、9回表に9-9の同点になり、奇跡の本塁打が出ました。1963年10月12日大リーグ史上で唯一のヒスパニックーアメリカンオールスター・ゲームが開催されました。ラテンスターの中には、将来殿堂入りのルイス・アパリシオ、オーランド・セペダ、ロベルト・クレメンテ、ホワン・マリシャルを含んで、他にはフェリペ・アルー、トニー・オリーバがいました。ラテンのスターとして知られたマニー・モタは、ナショナル・リーグを勝利に導く、代打安打を放ちました。★プチトリビアドミニカ共和国出身のモタは、代打安打150本の歴代2位の記録を持っています。1位は、レニー・ハリスで、212本です。1967年10月11日ニューヨーク・メッツは、67年シーズンをサルティー・パーカーと残り11試合に暫定のウエス・ウエストラムを監督にしたが、前ブルックリンのオールスター選手だったギル・ホッジスを呼び戻します。ホッジスは、ワシントン・セネタースの監督でしたが、ニューヨークから100,000ドルの補償とともに移籍しました。2年後、ホッジスはメッツを初のワールド・チャンピオンに導きました。← ギル・ホッジス(右)★プチトリビアギル・ホッジスは、ツー・プラトン・システムを多用した、といわれていますが、NYYで5連覇を達成したケーシー・ステンゲルがツー・プラトン・システムの元祖といわれています。1926年10月10日セントルイス・カージナルスは、3-2とリードした7回に満塁のピンチで代打のトニー・ラゼリに対して、グローバー・クリーブランド・アレキサンダーをマウンドに送ります。アレキサンダーは、ラゼリを抑えて、ボンバーズを封じ込めて、第七戦に勝利を呼び込みました。★プチトリビアこの時、アレキサンダーは、39歳。この年の6月にカージナルスへ移籍してきました。ワールドシリーズでは、第六戦で完投勝ちですでに2勝。前日投げたロートルがカージナルスに初の世界一をもたらした。1996年10月9日12歳のジェフリー・マイヤーという名の少年が、アメリカン・リーグ・チャンピオンシップ・シリーズ第一戦でニューヨーク・ヤンキースが5-4でボルチモア・オリオールズに勝利する上で重要な役割を果たします。8回に、ヤンキースのデレク・ジーターの打球をヤンキースタジアムのライトのフェンス際でキャッチしました。リッチ・ガルシア審判は、本塁打と判定し、ヤンキースが4-4の同点に追いつきました。★プチトリビアここで追いついたヤンキースは、延長11回にバーニー・ウィリアムスの本塁打で第一戦を取り、4勝1敗でワールドシリーズへ駒を進めました。1956年10月8日ニューヨーク・ヤンキースのドン・ラーセンは、最初のー唯一のーワールドシリーズでのパーフェクト・ゲームを達成します。ヤンキー・スタジアムにおいてわずか97球で、ベテラン右腕はブルックリン・ドジャースを2-0と封じました。ミッキー・マントルは、ホームランと5回のスーパーキャッチでラーセンの偉業を助けました。★プチトリビアこのラーセンという男、2年前の54年には、3勝21敗(?!)という記録的な数字を残していて、この56年のシーズン11勝が自身初の2ケタ勝利だった。何が起こるかわからないから、面白いですよね。1904年10月7日「ハピー」ジャック・チェスブロは、ニューヨーク・ハイランダースをボストン・ピルグリムスから3-2の勝利し、自身のシーズン41勝目を記録しました。これはアメリカン・リーグ最高記録でありつづけますが、シーズン最終日のチェスブロのワイルドピッチでハイランダースがペナントを逃し、甘酸っぱいものになってしまいました。★プチトリビアこの年のチェスブロは、最多勝、最多完投(48)、最多イニング(454.2)とまさに絶好調だけだっただけに、痛い痛いワイルドピッチでした。1926年10月6日ベーブ・ルースは、ワールド・シリーズで1試合3本塁打をする最初のプレーヤーになります。ルースは、第4戦で3本塁打してセントルイス・カージナルスからヤンキースに勝利をもたらします。彼のパフォーマンスは、レジー・ジャクソンがロサンジェルス・ドジャース相手に第6戦で3本塁打する1977年まで、誰も達成することが出来ませんでした。★プチトリビアジャクソンの3本塁打は、すべて初球を打った驚弾でした。5回しか出場していないワールドシリーズ打率は、.357で生涯打率が.267ですから、まさしく「Mr.October」です。1941年10月5日ワールドシリーズ第4戦の9回二死から、ドジャースのミッキー・オーウェン捕手が3ストライクめを取り損なってしまいます。この失策は、ヤンキースのトミー・ヘンリック外野手を一塁に生かし、7-4でヤンキースが勝つきっかけを与えました。ブルックリンは、勝てばシリーズを2-2のタイにすることが出来たのに第5戦でシリーズの負けが決まりました。★プチトリビアこのシリーズは、第1戦が3-2でNYY、第2戦は3-2でBRN、第3戦が2-1でNYYとすべてが1点差。この第4戦も普通なら4-3でBRNが勝利するところだったのに。ひとつのプレーが明暗を分けることは、多々あります。1955年10月4日ブルックリン・ドジャースは、ワールド・シリーズ第七戦でニューヨーク・ヤンキースを2-0でシャットアウトして、初のワールドチャンピオンに輝きました。強打の一塁手、ギル・ホッジスがジョニー・ポドレスの完投勝ちを助ける2打点を稼ぎ出しました。ドジャースは、これまで1941,47,49,52,53年とワールドシリーズですべてヤンキースに負けて、世界一になれませんでした。★プチトリビア敵地で2連敗したドジャースは、地元に帰って、3連勝で一気に逆王手。第六戦は落としたが、最終戦で悲願を達成しました。1951年10月3日ニューヨーク・ジャイアンツのボビー・トムソンは、ブルックリンのラルフ・ブランカから「世界を駆け巡った」ペナントを勝ち取る3ラン・ショットを放ちました。ジャイアンツは、ナショナル・リーグ・プレーオフで4-1とリードして9回に入りましたが、トムソンの一撃でステージからひきずりおろされました。★プチトリビアこの時は、ワンゲーム・プレーオフではなく、3試合制でした。1勝1敗で迎えた第3戦の9回ウラ、2-4からの奇跡の逆転3ランでした。1978年10月2日バッキー・デントの信じられない本塁打で、ニューヨーク・ヤンキースがフェンウェイ・パークでのワンゲーム・プレーオフでボストン・レッドソックスを破ります。2点を追う6回、マイク・トーレスから放ったデントの打球は、グリーンモンスターを越えていく3ランになりました。ヤンキースは、5-4で勝利し、アメリカン・リーグ・チャンピオンシップシリーズに進出しました。★プチトリビアこの78年は、一時14ゲーム差まで広がっていたが、最終戦で同率首位に追いつき、デントの奇跡の逆転3ランで地区V。一気にワールドシリーズまで制し、77年に続き、連続世界一となった。1961年10月1日ニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリスが、伝説のベーブ・ルースの34年の記録を破るシーズン61号本塁打を放ちました。マイルストン・ショットは、ボストンのトレーシー・スタラードから放ち、ヤンキースを1-0での勝利に導きました。★プチトリビア生え抜きのミッキー・マントルと「MM砲」と呼ばれたが、地元では、「マントルは善玉、マリスは悪玉」といわれ、ベイブ・ルースの記録をマントルに抜いてもらいたい、という感情から「ニューヨークは嫌な町だ」とマリスは言っていました。