2015/10/26(月)17:38
北条時宗
朝日新聞出版、マンガ日本史「北条時宗」。
13世紀、モンゴル帝国の5代目王・フビライは、東アジアの広大な範囲を手中にし、国名を「元」を改めました。
一時は、世界の人口の約半数がモンゴル帝国の支配下だったそうです。
着々と領土を広げるフビライの目は、やがて海を隔てた日本へ向けられます。
そのフビライの野望に敢然と立ち向かったのが、鎌倉幕府の若き執権・北条時宗でした。
フビライはたびたび服属を迫る使者を送りましたが、鎌倉幕府は、ことごとくこれを無視。
そしてついに1274(文永11)年、日本に大軍を送り込んできます。
この文永の役は、かろうじて撃退したものの、幕府側は多大な被害をこうむりました。
この時は、なぜか蒙古軍は、一日で引き上げてしまいました。
日本史の授業では、暴風雨で船がすべて沈んでしまったからと習った記憶があるのですが、「日本の様子を見にきただけだから」という説もあり、真相はわかっていないそうです。
時宗は、2度目の襲来に備え、九州の警固を強化。
石築地(防塁)を築かせました。
これは、高さ2~3メートルほどの石の砦で、総延長は20キロ以上もあったそうです。
1281(弘安4)年6月、博多沖に900隻もの船が現れます。
さらに3500隻の船が合流、兵数は14万人、人類史上最大の艦隊が日本に向かってきました。
しかし、そこへ突然の「神風」は吹くのです。
実際には、日本軍の奇襲作戦や石築地に阻まれ、上陸にてこずった元軍が、いったん沖に退いたところを暴風雨に襲われたようです。
この嵐で、元軍の船の大半が沈み、兵は溺れてしまいました。
生き延びた兵は、14万のうちの3万人にも満たなかったそうです。
時宗は、元に翻弄されたような人生でした。
フビライから国書が届いた1268(文永5)年、この日本の大ピンチに対応するため、わずか18歳という若さで執権の座に就き、24歳で文永の役、31歳の時に弘安の役。
その蒙古襲来をしのいだ3年後に病に倒れ、34歳で生涯を閉じました。
NHK大河ドラマでは和泉元彌さんが演じていましたね。
鎌倉・東慶寺。
ここは、縁切寺(駆け込み寺)として有名なお寺。
夫との縁を切りたい女性が、ここで3年尼として過ごせば離婚が認められたそうです。
この寺を開いたのは、北条時宗の妻・覚山尼。
ひどい夫と結婚した女性を不憫に思い、そんな女性たちを救うために、ここを縁切寺としたそうです。
女性からの離婚が認められなかった江戸時代には、多くの女性を助けたそうです。
週刊 マンガ日本史 改訂版 24号 北条時宗
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