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2016/01/08(金)17:39

石田三成

読書(202)

      朝日新聞出版、マンガ日本史「石田三成」。   石田三成は、近江国(滋賀県)の下級武士の家に生まれ、15歳の頃より豊臣秀吉に仕え、生涯を豊臣家のために捧げた忠臣です。   秀吉に仕える時の「三献茶」のエピソードが有名ですね。   秀吉が伊吹山で鷹狩をしていた時に、喉が渇き、近くの寺に入り、茶を所望します。   すると、1人の少年が大きめの茶碗にぬるい茶を8分目ほど入れて持ってきます。   もう1杯求めると少し熱い茶を少なめに。   そしてさらにもう1杯求めると、熱い茶を小さいに茶碗に少しだけ入れて持ってきたそうです。   この少年が三成で、秀吉はこのこまやかな気配りに感心し、寺の住職に願い出て、自分のもとに仕えさせたそうです。   頭脳明晰で優秀な人物であり、ぜいたくはせず、仕事ひとすじのマジメ人間だったようです。   天下統一した豊臣家の地盤を築くために行われた太閤検地。   石田三成が大いに手腕を振るい、三成が検地にかかわった地域は、日本の面積の半分近くにも及んだそうです。   また、博多奉行に任命された三成は、戦によって荒れ果てていた町を見事に再生させます。   これに感動した博多の人々は、三成に直接街を統治してほしいという嘆願書を出したり。   現在の博多の繁栄も、この三成の街づくりがあったからとも。   文治に優れていた三成でしたが、戦は下手だったかも?   1590(天正18)年、武蔵国の忍城攻略の総大将に。   兵力的には圧倒的に優位でしたが、水攻めにも総攻撃にも失敗します。   映画「のぼうの城」が、この時の戦をテーマにしています。       しかしやはり、実務面で優れていた三成は、秀吉の朝鮮出兵には、大反対。   兵糧も人員も足りないというデータを見せて、秀吉を説得しようとしましたが、朝鮮を抑えた後、明を征服しようとしていた秀吉は聞く耳を持たず。   三成の意見を聞いていれば、豊臣家の滅亡は防げたかもしれませんね。   秀吉の死後、やむなく、天下分目の戦、関ヶ原の戦いに敗れたため、その後徳川家により、なんとなく、豊臣家滅ぼした悪人にされてしまった三成ですが、本当は秀吉の志を継ぎ、天下平安を望んだ人物だったようです。    「大一大万大吉」 石田三成の旗印。   一人が万民のため、万民が一人のために尽くせば、みんなが幸福になれる。

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