8/27母の最期のとき
実姉から母のなくなった瞬間はどうだったのかと聞かれた。そう言えば…父の時は詳細を施設の人に当日聞いていた。なので、お世話になった施設の責任者に聞きに行った。母の資料をもとに話をしてくれた。お盆過ぎ頃から食欲がなく訪問介護に切り替え点滴をはじめた。危篤状態になった場合、兄は病院への緊急搬送を望んでいた。私と姉は看取りを望んでいた。22日に、血便あり。ゼリーを少し食べる。点滴も入らなくなったので兄に連絡をして、このまま入院しても点滴が入らないのでタツ子さんも病院は嫌っていたから施設で看取らせて欲しいと旨く説得をしてくれたらしい。26日朝に兄と私に連絡あり。「すぐという訳じゃないが来て欲しい」兄が午後東京から来ると言われたので、午前中中抜けをして母に会いにいった。「あまゆみだよ!クロにあいたい?」って聞くと目を閉じながらも大きく頷いた。姉に直ぐにメールしたが夕方になっても返事がないので電話で伝えると、明日27日に会社に行って28日に休みを貰うから一緒に施設に行く約束をした。27日。呼吸は浅かった。8:30ごろ他の人の朝食が終ったので様子を見にいくと個室で亡くなっていたとのこと。父の葬式の時にお墓が決まっていた菩提寺の和尚さんと兄がもめた事を末代までの恥だと嘆いていたこと。補聴器をがんとして装着せず、耳も聞こえずひとりポツンとしており生きる気力がなかったように感じたこと。それでも、兄や私が頻繁に訪ねておりタツ子さんは幸せだったのではないか?入所者の中には訪ねて来る人もなく、小口金を預けに来ても面談せず玄関先で帰る家族もいること。母がなくなって、あれもしてやれば良かったと思うことがたくさんある。どんなに尽くしても、そういう後悔は必ずあるよと介護の先輩に言われていた。だから「親が生きているうちに親孝行」なんて言葉があるんだ。私を妊娠した時、母は入院を繰り返していた長女(姉)の看病に疲れ小諸のおばちゃん(母の姉)に、諦めた方が良いか相談したと聞いた。「この子(私)はきっと役に立つから生んだ方が良いよ」と言われたらしい。私は県外に進学したこともなく結婚する42歳までずっと両親と同居していた。結婚しても旦那を梓川から長野市に引越しさせ住居は3km以内の近い借家に決めた。マイホームも歩いてこれる距離を探して決めた。私は役にたったのかな?おかあさん、クロはずっと我が家で面倒みるからね!