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席亭の囲碁日記

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2005/10/06
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テーマ:囲碁全般(752)
カテゴリ:【碁】棋士評伝
余り有名ではないと思うが、好きな棋士の一人。

 その一生をざっと紹介しよう。
 文政3(1820)年生まれ。父は本因坊丈和(名人碁所)、弟に中川亀三郎(方円社社長、準名人)。幼名を戸谷梅太郎といった。
 幼いころから棋才を現し、天保3(1832)年ごろ(13歳)に剃髪して道和と名を改め坊門に入ったものと思われる。同年生まれの俊秀土屋秀和とともに将来を嘱望される。
 二人は好敵手として切磋琢磨し、天保5年に三段、同6年四段と「両々比肩し同年同月同日に昇級し」(坐隠談叢)た。しかし、道和は眼病を患い修行を中断、その間に秀和が1年早く五段に、さらに六段に進んだことで事実上道和の本因坊への道が閉ざされた。
 道和は還俗し葛野忠左衛門と名乗った。はっきりしたことはわからないが秀和が七段に進み本因坊跡目となった天保11年ごろのことと推定される。六段を許されたのもこのころのようだ。葛野という姓は、父の丈和が名乗っていたことのある姓だが、その籍とは別に同名の御家人株を購入したものだといわれている。
 その後天保14(1843)年、本因坊系の外家水谷家の跡目となり水谷順策を名乗る。(水谷家二代目の水谷琢順は六段の強豪で、跡目に優秀な高橋順英(改め水谷琢廉)がいたが32歳で早逝していた。その後釜に収まったのである)
 さらに井上因碩(11世、幻庵、準名人)の乞いで井上家跡目となり井上秀徹を名乗る。幻庵は丈和と名人の座を争い、丈和が名人引退後も空位の名人碁所を目指し本因坊家と争っていたが、三度にわたる対戦で秀和の先番を破れずついに断念し、本因坊家との和解に至った。丈和の長子を井上家に迎え入れたことは和解の象徴とされている。かつて本因坊跡目を争った秀和の活躍によって、井上家を継ぐことになったのだから少し皮肉な話だ。
 嘉永3(1846)年、井上家を継ぎ12世因碩となり御城碁も勤めた。しかし、
「性従順にしてやや細心の傾きあり。壮時より幾艱難を重ね、因碩となりし後も、常に本因坊の道場に出勤せしが、多年の鬱積せる懊悩は漸くその頃よりあらわれて、居常少しく異常をみるに至りぬ」(坐隠談叢)ある日門弟と外出した際に、その門弟の刀を奪い、刺し殺すという事件を起こす。そのため引退、節山を名乗る。安政3(1856)年、37歳で亡くなっている。

 名前がよく変わった人なので呼び方が安定しないが、一番高位にあったとき(家元の座にあったとき)の井上因碩で呼ばれることが多いようだ。井上家は初代中村道碩以外は全員井上因碩を名乗っているので、区別する為に節山因碩と呼ぶ。私は葛野忠左衛門という呼び方が好きなので以下はそれで通す。

 その人生を見れば家元制度のもたらした悲劇の棋士だとえるだろう。家元になれるのはひとり、名人になれるのもひとりという制度の下では淘汰されてしまう才能もあったのだ。
 忠左衛門は並みの棋才でなかったが、秀和という天才が同年に生まれ、しかも同じ道場に入門したことが悲劇であった。秀和と秀策、秀策と秀甫のように歳が離れていれば「住み分け」の余地もあったが、忠左衛門には逃げ場がなかった。
 似たような例としては村瀬弥吉(後の本因坊秀甫)の好敵手小沢三五郎がある。三五郎の場合は逸事も余り残っておらず不明な点が多い。忠左衛門は父親が丈和ということもあって外家を継いだり、井上家に入ったりすることができ、棋譜や逸事が残っているだけ幸せな方なのかもしれない。

 この人の打碁集は編まれていないが、秀策全集を並べた人は多くの棋譜を目にしたはずだ。葛野忠左衛門は太田雄三と共に秀策に胸を貸し、鍛えた棋士なのだ。秀策は驚く速さで上達し、年長の兄弟子たちを疾風のように追い抜いていくが、雄蔵と忠左衛門だけには苦戦している。一度先先先打ち込んでも、定先に押し戻されたりしている。
 葛野忠左衛門は天才的な棋風で、修行時代の秀策とはしばしば格の違いを見せている。しかし、同時に荒削りな部分や脆さも見せ、そつのなさや安定感では少年秀策のほうが上にさえ見える。それは「多年の鬱積せる懊悩」の為であるかもしれないし、秀和に先を行かれて修行を中断し影響かもしれない。
 ともかく忠左衛門にとって9歳年下の秀策は、鍛えがいのある後輩であり、夢中で対せるよき敵手だったといえる。また秀策のおかげで多くの棋譜が残った。

 最後に忠左衛門と秀策の棋譜を2局。
 向先 5目負け
 このころ秀策に対して向先二子。秀策が勝った碁だが、非常に熱のこもった碁だ。下辺白170~黒173がハイライト。
 向先 8目勝ち
 このころは井上家跡目で秀徹を名乗っていた時期。手合は向先先先。
 この年の7月に秀策は大阪で幻庵を破り(そのうちの1局が所謂耳赤の名局)一大センセーションを引き起こた。その影響もあって次期本因坊跡目という話が浮上し、この対局の頃はその話がほぼ確定していもの斧を思われる。幻庵は人に「当時秀策は既に七段(上手)の域にあり、後が計り知れない」ともらしたと言われているが、その秀策の先番を鮮やかに覆した一局。秀策も粘りを見せるが、力でまとめきった。

参考資料:​『完本本因坊秀策全集』





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最終更新日  2026/02/27 11:08:47 PM
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