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テーマ:本のある暮らし(4602)
カテゴリ:Novel
・阿津川辰海の『録音された誘拐』は、2022年刊行の長編本格ミステリ。大野探偵事務所の所長・大野糺が誘拐されるところから物語が始まる。助手の山口美々香は、優れた聴覚を武器に、録音された音声やわずかな音の違和感から事件の手掛かりを探っていく。事件の背後には、15年前に起きた誘拐事件が横たわっている。現在の誘拐と過去の事件、探偵事務所の人々や大野の家族、それぞれの思惑が交錯し、真相は幾重にも反転していく。本作は、短編集『透明人間は密室に潜む』収録の「盗聴された殺人」に登場した大野糺と山口美々香を中心とする長編であり、「誘拐された探偵を、探偵たちが救う」という構図そのものが大きな魅力になっている。 ・タイトルにある「録音」が象徴的だ。音声は、目に見えない。しかし録音されれば、そこに「証拠」が残る。だから普通なら、録音は真実に近づくための手段になる。ところが本作は、その安心感を巧みに裏切る。記録されていることと、真実であることは同じではない。聞こえた声。録音された音。そこから推測した状況。それらをどう解釈するかによって、同じ音がまったく違う意味を持つ。これは本格ミステリとしての仕掛けであると同時に、現代社会への鋭い視線でもある。 ・現代日本で、古典的な身代金目的の誘拐を成立させるのは容易ではない。監視カメラ、スマートフォン、位置情報、通信記録など、犯人側にとって障害となる情報があまりにも多い。だからこそ本作は、「この時代に、どうすれば誘拐を成立させられるのか」という問題そのものを謎にしている。単に犯人を当てるのではない。「なぜ、この誘拐が可能だったのか」を考えさせる。そこに本作の現代的な本格ミステリとしての面白さがある。実際に書評でも、令和の社会や技術を逆手に取った誘拐の仕掛けが評価されている。 ・本作で特に印象的なのが山口美々香だ。彼女は「耳が良い」ことを自身の武器としている。しかし重要なのは、単純に小さな音まで聞こえるということではない。普通なら聞き流してしまう音の中から、意味のある違和感を拾い上げる。これはビジネスにも通じる。優れた人間は、情報を大量に持っている人ではない。会議で誰かが何気なく発した一言。顧客が一瞬だけ見せた表情。数字の小さな変化。部下の「大丈夫です」という言葉の微妙な違和感。そうしたものを聞き逃さない。美々香の探偵能力は、「情報量」ではなく「違和感への感度」として読むと面白い。 ・大野糺という人物も、本作の構造を面白くしている。普通の誘拐ミステリなら、探偵は外側から事件を解く。しかし本作では、探偵自身が誘拐される。つまり、探偵が事件の「対象」になりながら、同時に事件を解こうとする。この逆転が作品の大きな推進力になる。閉じ込められている大野と、外から救出を試みる美々香。二人の知恵が離れた場所で呼応する。ここに「探偵VS誘拐犯」という古典的な構図を、現代的に組み替えた面白さがある。 ・『録音された誘拐』の最大の魅力は、「誘拐」という古典的な題材を、情報社会の問題として再構築したことにある。誘拐犯と探偵の頭脳戦。現在と過去の事件。録音された音。家族の秘密。複数の視点。これらが複雑に絡み、真相が明らかになるたびに、それまで見ていた景色の意味が変わっていく。作品自体が「何を信じるか」を読者に問い続ける構造になっている。一方で、視点人物や情報量が多く、構成の複雑さを負担に感じる読者もいる。書評でも、場面転換の多さや登場人物の多さを指摘する声がある。しかし、本格ミステリとして見れば、その複雑さこそが最後の反転を成立させる土台でもある。 ・『録音された誘拐』は、「録音された音から誘拐事件を解く小説」である以上に、「記録された情報を、どう読むか」を問う小説だ。誘拐されたのは探偵。救出するのも探偵。そして、探偵たちが追いかけるのは犯人だけではない。「自分たちが見ている事件は、本当に事件の全体なのか」という疑問そのものだ。ビジネスの世界でも、情報は増え続けている。しかし、情報が増えれば真実に近づくとは限らない。むしろ重要なのは、誰も気に留めなかった小さな違和感を拾い、それを別の角度から読み直すことだ。本作の探偵たちが教えるのは、そんな「考える技術」でもある。真実は、録音された音の中にそのまま存在しているわけではない。音と音の間にある、わずかな違和感の中に潜んでいる。そこが『録音された誘拐』の本質だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2026.09.08 00:00:09
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