ローマ法王の死後と宗教観念
現在私が留学している先、テキサスにはキリスト教徒が多い。アメリカなのだから当然といえば当然なのだが、その熱心さ、数の多さにはたびたび驚かされる。ローマ法王が亡くなった翌日現在受講中のクラスでも法王の話となった。私の受講しているクラスにはテキサスにある大学だという事実にも関わらず、クリスチャンの生徒がどちらかというと少ない。生徒の割合的には、子供のころ、親の影響でクリスチャンだったが、今はもうあまりクリスティアニティーとは関わらない、という生徒が多い。クリスティアニティーと関わらない、というのは、バイブルを毎晩読むのを止める、毎週教会に行くのを止める、といったことである。もちろん今までの知識は現在も忘れず理解しているし、宗教に対する疑問点、宗教を使った人のコントロールの仕方、スピーチの方法などは、宗教を知らない生徒よりはるかに能力は優れている。自分がクリスチャンだと言う生徒が少ない理由として「哲学」という学問を学ぶ上で、宗教の役割というものも学ぶが、哲学の歴史上、2000年前に起こったクリスチアニティーに対する批判文章、肯定文章が多く存在するためだと思われる。始めてテキサスに来て、哲学の授業を受けている時に友達になった、クリスチャンのクラスメイトは、授業でのクリスティアニティーに対する批判の文章が辛くて読めず、哲学を専攻するのを止めた。教授も自分がクリスチャンであるかクリスチャンでないか関わらず歴代の哲学者の思考にそって、事実を教える。「あの教授はクリスチャンなのにに神を批判した」と神に泣いていては学問もなりたたない。しかも大学院ではないので、哲学科の卒業証書を得るためには、必修の哲学のクラスをどうしても受講する必要があり、宗教批判、宗教学は避けて通れない。宗教批判がだめなら宗教学校・クリスチャン学校へ進むべきなのだろう。ともあれ、私はクリスチャンではないので、どちらかというと、宗教を学問として学ぶということの方が、あまりに現実離れしていて頭では理解できても感覚では理解しがたい部分があり難しい。しかし難しくはあるが、大変興味深い学問だ。と、ここまでは前置きなんだが(長い)ローマ法王が亡くなった翌日、ローマ法王について、生徒の意見がクラスで交わされ「偉大な法王だったのにねー」と死を悼む生徒。「未だにローマ法王なんていう宗教の象徴が存在するのが許せない」と怒る生徒。「メディアが法王が亡くなったおかげで、金回りがよくなった」と第3者的に分析し納得する生徒、と色々。生徒達が色々意見を交わす中、その中で、1人の女子生徒がホンキ切れ。「みんなっ!なんてことを言うのっ!人の死をそんな風に言うなんて!!!」チリ出身の女子生徒なのだが、キリスト教信者なのだろう。大変な憤慨ぶりで、感情的にクラスで大声で叫び、その後、 「信じられない!信じられない!あなたたちっ!」 と皆に聞こえるようにぶつぶつ言い続ける。むろん、神に最も近いとされるローマ法王の死に対し、カソリック信者が死を悼むのは承知だが、だからといって感情的に怒鳴られる筋合いはない。「なんだコイツ」という雰囲気がクラスに漂う中、1人の男子生徒が 「別に死を馬鹿にしているわけじゃない。感情的に怒鳴らず、黙ったらどうだ」 と感情的に返した。チリ出身の女子生徒はさらに感情的になり「何よ!そんな事言うのなら、黙ってこのクラスから出て行けばいいじゃない!ドアはそこよ!!!出て行きなさい!!」と叫んだ。錯乱しているのは、男子生徒ではない。女子生徒の方だ。それをなぜその男子生徒がクラスから出て行けと言われなくてはならないのか。「What!?オマエが出て行けよ!!!!」男子生徒もそのまま言い返し、クラスは嫌~な雰囲気に。カソリックにとって、法王の死をオモシロおかしく話されるのは憤慨なのかもしれないが、それに対して、怒鳴られた方はたまったものではない。この場合、教室というパブリックで、そういった行動にでるのは、キリスト教の女子生徒の方がモラルに反しているのはではないだろうか。男子生徒は別に教会に行って「ざまーみろっ!キリスト教!」と叫んだわけでもないのだから。むしろクラスにいた生徒は最低限ローマ法王の存在を知っているし、死についてディスカスしている。「は?カソリックのトップの人が存在したの?知らなかった~」と言ってしまうのが一番楽だ。ローマ法王なんていう存在は、ただ生きているだけなら自分の生活になんら影響することもない。そういったことについて、ディスカスをする場であるクラス内で、誰かが自分の宗教を馬鹿にしたからと、怒りを露に感情的に誰かを怒鳴りつけては、ディスカスも成り立たない。もちろんこの2人の討論後、ローマ法王についてのディスカスはストップした。教授が「じゃぁ話題をかえようか」と軽く切り返したからだ(さすが年の功。・・・と賢者。。。)宗教の自由ということは、自分の宗教を他人からリスペクトしてもらう権利と同時に、誰かに自分の宗教を押し付けない、無信教を反キリスト教として反感しない、そういうことではないのかと考えてしまう。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・・わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイ5:39,44【『聖書 新共同訳』Do not resist an evil person.If someone strikes you on the right cheek, turn to him the other also.And if someone wants to sue you and take your tunic, let him have your cloak as take your tunic, let him have your clock as well.If someone forces you to go one mile, go with him two miles.Give to the one who asks you, and do not turn away from the one who wants to borrow from you.Matthew 5:39,42 【New International Version】これは有名な聖書の引用。人が自分を憎もうとしているのなら、それを許し、さらに自分を傷つけるようその人に薦めるべきだ。なぜなら人を憎んでいる、その人がもっと傷ついているのだから。もちろんこのクラス内での出来事は悪人「Evil」ではない。それどころか、自分を傷つけようという意図を持っていない人間に対して、攻撃をしかける。それってキリスト教としての行為に反するのではないのかな。宗教を信仰する上で、自分の信仰心があついあまり、敵対心が生まれることはよくある、ということはニュースやコラム、エッセイで文章として読むことはあるが、テキサスに来てから目の当たりにし、さらに実感した気がする。カソリックの生徒がユダヤ人の教授の授業をとりたくない、という話も聞いたし黒人の教授の授業をとりたくないという話もたまに耳にする。(もちろん全員が全員そういう宗教信者なわけではない)宗教は人を「救う」のが目的なはずなのに「宗教」が人を苦しめ、不快にさせることは多々ある。カソリックの「象徴」である法王の死により、少なくとも、私のクラスメイト、チリ出身のクリスチャンの女子生徒も、クリスチャンではない生徒も、不快な思いをした。物事にはよい面もあれば、悪い面もあるのかもしれないが、人の人生、生き様すべてをコントロールすることが可能な宗教なら、2面性のないものであるはずじゃないのかな。アメリカとイラクの戦いが今もまだ続いていて、数々の人が亡くなっている。先月に会ったアメリカ兵の友人はまだ戻ってこない。今回のイラクへの衛兵が最後だと喜んでいた。彼の無事を祈るばかりである。追記。宗教信者の方に攻撃的文章ととられるかもしれませんが、この文章は特定の個人、グループに対する中傷を目的とした文章ではありません。この文章に上げられている例はあくまでも私、個人が実際経験したことを例として使っています。慣れない文章により、乱文誤文が含まれていること深くお詫びいたします。こっそりと間違いを教えていただけると嬉しいです。その他、この文章により気分を害せられることがありましたら申し訳ありません。コメントをお待ちしています。