トランクルーム貝塚のオヤジ奮戦記

2015/04/27(月)08:41

「飛び込み営業」の経験が会社を救った・・・

人生訓(66)

 大学卒業後4年間の建築金物メーカーの営業職を経て、1985年に家業の100%大手総合商社の委託生産(賃織り)の安定した織物業に戻ってきた訳ですが、バブルが弾けて数年後大変なことになりました・・・  創業当初の昭和20年代から50年近くほぼずっと委託生産(賃織り)で取引があった大手総合商社から、「仕事を発注できない」という宣告を受けたのです・・・  正に青天の霹靂です・・・  親父はすでに営業に関しては引退して、すべて商社とのやり取りは私がしていましたが、私は繊維の他の商社や紡績に営業に行った経験が全くありませんでした・・・  どうしようも、くそもなく、とにかく今日から仕事を「どっかから」取ってきて工場を回わすしかありませんでした・・・  商社の方も長年の取引がありましたので、すぐに切るなんてことはせず、まず同じ会社の浜松支店を紹介してくれました・・・  浜松地区も日本の大手の織物産地で、大阪より「高級な衣料関係」の織物を得意としていました・・・  あとその商社の取引先であった合繊メーカーも紹介して頂き、これまでやった事のなかった資材、ユニフォーム、通販、中近東向け輸出、合繊婦人衣料といった部門に売り込みをかけました・・・  これまで長年商社の「オッパ商品(大量生産の定番)」しか織った経験しかありませんでしたので、すべて「別注(バイオーダー)」というビジネススタイルは初めてでした・・・  今まで如何に商社の「委託生産(賃織り)」という営業いらずの楽なビジネススタイルに、甘えていたかを知らされました・・・  しかし今思えば、ここからが本当の苦難の時代の「幕開け」でした・・・  今までしたことがなかった「繊維の営業」をしなければならない事と、これまで「少品種大量生産」の定番生産だったのを、まったく逆の「多品種少量生産」の高級品生産に、工場を「大シフト(転換)」する必要があったのです・・・  しかし、まず営業です・・・仕事がなければ工場が回せませんから・・・製造より営業重視です・・・  ここで初めて、サラリーマン時代の営業経験が役に立ちました・・・  家業に戻ってきたときに、4年間のサラリーマン時代は遠回りで無駄だったと、後悔したものですが、こんな時に役立つとは・・・  「人生無駄なことはひとつもない」とよく言われますが、正にその言葉通りです・・・  人生不遇な時も、けっして腐らずに、前を見て頑張っていれば、いつか報われると・・・  サラリーマン時代の営業といっても、半分は「飛び込み営業」でした・・・  全く知らない相手(会社、個人)に対して、自社商品を売り込むという行為の難しさはやってみなければわかりません・・・「ゼロから有を生む」難しさ・・・  そりゃ誰でも、知らない人とは喋りたくありませんし、口説いて商品を売るなんてとんでもない・・・精神的なプレッシャーが相当かかりますし、100%の人はしたくないのは当たり前です・・・  しかし生きていくには、仕事をしなければお金を稼げませんし、たまたま選んだ仕事ですので、ポリシーはそのままで、あとは性格を変えてやるだけでした・・・  しかしこんな事も4年も繰り返しやれば、元々本当にシャイな私でも、1番最初の飛び込み営業で、喫茶店で2時間も悶々としていましたが、場数を踏み、瞬時に誰とでもしゃべれるようになり、ちょっと自信がつくようになったのです・・・  「本来内気な性格を自分で変えた」自信とでもいうのでしょうか・・・  しかし当時の20代の自分としては、家業を継がないと親父に宣言して繊維と全く関係のないサラリーマンになり、結婚してすぐに子供もでき、扶養家族2人を養わななければならないし、サラリーマンで出世しなければならないというプレッシャーが、自分の背中を押したのでしょうねェ・・・ ※日本最安値!(年平均2回の利用で、近くにある必要はない)                   トランクルーム貝塚 ※貝塚市の不動産情報の総合サイト  貝塚不動産.com にほんブログ村  にほんブログ村 にほんブログ村  大阪府 ブログランキングへ    

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