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710年


元明天皇が都を平城京に遷した
(平城京奈良の都なのでここから奈良時代言われるようになります)

オンライン授業




元明天皇
武蔵国から銅を貰い、その銅でお金(和同開珎)を作った人

武蔵国は現在の埼玉県辺りに位置していたと書かれてました


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和同開珎
こちらが本物(実際使われていたであろう)和同開珎です



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元明天皇


和銅元年にも由来
元明天皇は708年 1月11日、元号を和銅元年と改元しました

710年 今年
*1唐の文化をモデルとして*2平城京が遷都
その文化(奈良時代)が開かれる

*1唐=現在の中国,前代に隋があり、*1唐滅ぼし連国としました



*2奈良時代の日本の首都
*2天皇の即位や外国の方々のおもてなしに使われた場所でもあります

*3


*1 平城京には十万人の人々が住んでいました

*1遣唐使*a船の航路としては、*3「北路」「南島路」「南路」の3種類があるとされますが赤紫がこの時代の*1唐へのルートです

*a遣唐使船

日の丸の色をしてるので日本丸勝手呼んでます

命懸けだった
*1唐まで行くにも命がけだった時代 ,八世紀の*1遣唐使のうち全ての往復できたのは、 なんとたった一回だけ


*1遣唐使船が四隻なのは、どれか一つでも中国着くためだったのです

平城京遷都時に使われてた遣唐使船



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およそ二百人ほどのの水夫、荷役人、留学僧乗船していたが航海技術が未熟でした

しかし、唐は国際情勢を得るには最適でした
*1遣唐使は、*1唐を中心とする東アジアの国際情勢情報入手と、先進的唐文化摂取目的としていました

裏読みではこんな内容も

中国人「【悲報】日本遣唐使中国朝貢するためのものだった」という内容もありました

平城京は唐(世界的都市 長安)をモデルにして建てられています
平安京は、*1唐の世界的都市「長安」北魏洛陽城等を模倣(まね)して建造されたとされ、現在奈良県奈良市及び大和郡山市近辺位置していました


長安城


平城宮 天皇は平城宮というところに住んでいる

条坊図(碁盤の目のような街路になっている)

真ん中ラインの東側が左京(天皇から見て左側)、西側が右京(天皇から見て右側)

左京と右京には物の売買所がある

大明宫遺址博物馆 唐の時代の長安の本場中国の模型




関連動画
平城京宮跡地をめぐって、景観レベルで議論するほどの遺産価値があります


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(最下部に全巻あります そちらもご参照下さい)

711年
大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されました
大宝1年のことだったので、大宝律令と呼ばれるようになりました。

大宝律令
本格的な刑法(律)、行政 法(令)の制令

それまでだけだったものに刑法が加わったものとされてます

唐の永徽律令( えいきりつれい、651年制定)を参考に書かれているそうです

永徽律令



711年


銭の普及をねらい、蓄銭叙位が発布される

元明天皇のお金の使い方 ~民への普及
銭の普及をねらい官吏の俸禄の支給規定をつくり( 蓄銭叙位 )令が発布される。
銭を貯めたら官位に付けてやる、としました



711年
奈良


金剛力士像(711年) 奈良・法隆寺 守門の二王像の最古のもの 日本最古の造像といわれているそうです

711年
稲荷の総本社を設立

京都



全国に4万社あるともいわれる稲荷神社


伏見稲荷大社の御祭神(ごさいじん・祀られている神様)は、五穀をつかさどる農業神の宇迦之御魂(う かのみたま)

711年
兵庫
「かんなび」とは「神の宿る森」という意味で、このあたりには和銅3年に設置された山陽道の官駅があ ったと推定される

711年
元明天皇(第43代)の御代となる

奈良 元明天皇(第43代)の御代となった 都を平城京に遷都(せんと)した天皇


元明天皇は女帝です


元明天皇(第43代)は太安萬侶を編纂者に加えます。 稗田阿礼が暗誦していた物語を、太安萬侶が筆記


専門家曰く 「(小治田安萬侶と)太安萬侶のある墓はともに見晴らしのよい山中なので、奈良時代の貴族の 埋葬方式に 一定の決まりがあったのであろう」 太安萬侶墓は、奈良市の東山山中の田原の里に所在する


日本最古の書である古事記を編纂した太安萬侶の墓


712年
元明天皇 荷役(運輸業)に就く民を気遣う旨の詔を出す 諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。 正月

712年
元明天皇が古事記を完成させる 奈良 681年に天武天皇(第40代)が国史編纂の詔を出します。持統天皇(第41代)⇒文武天皇(第42第)⇒元明天皇(第 43第→712年)を経て、「古事記」が完成


同じようなもの?全然違う?


古事記の構成は上中下になっていて、このように作られているらしい


713年


元明天皇(第43代) 『風土記』の編纂を詔勅した 地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた漢文体で書かれた報告書。全国を統 一した朝廷は、各国の事情を知る必要があった


715年


9月


2日
元明天皇(第43代)が元正天皇(第44代)に皇位を譲る 孫の皇子はまだ若かったため、娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に皇位を譲って同日自身は太上天皇 となった 9月2日

未日
志貴皇子の死を悲しんで笠金村がこの詩をうたわれた 9月 「高円の野辺の秋萩いたずらに咲きか散るらむ見る人なくに」

元明天皇(第43代) が体調不良になり、長女の聖武(第45代)天皇が 即位 元明天皇(第43代) 体調不良により 子・文武天皇(第42代)の姉が即位→聖武天皇(第45代)

715年
志貴皇子の死後、皇子の山荘跡が白毫寺として建てられた 天智天皇(第38代)の第七皇子である志貴皇子の没後、天皇の勅願によって皇子の山荘跡を寺として建てら れた。 萩の花が美しいことで有名


仏陀は阿弥陀如来

715年
志貴皇子・暗殺された説が浮上 巷のコメント 「志貴皇子の薨去年が万葉集の詞書にあるように715年だったとしたら、志貴皇子の死はあまりに元正天 皇(第44代)にとってタイミングが良すぎる」

光仁天皇が即位したことで志貴皇子は死後に春日宮天皇の称号を贈られました

715年
元明天皇(第43代) 郷里制の実施

715年
元正天皇(第44代)黄金の亀を拝見され、元号を「和銅」から「 霊亀」へと改める

松尾山から流れる霊亀(れいき)の滝と御手洗川、滝御前社。


この谷から首に3つの星、背に7つの星のある黄金の亀 が現れ、朝廷に献上されたという これを朝廷に奉納すると、元正天皇は「嘉瑞なり」と、715年に元号を「和銅」から「霊亀」へと改め、 亀は再び元の谷に放たれた

715年
藤原不比等(藤原鎌足の次男)が藤原家繁栄のため天神八座を祀っ た


715年
藤原不比等が藤原家繁栄のために自分の邸宅「佐保殿」の丘に、天神八座を祀ったこと に始まった。

藤原不比等宅の一部 狭岡神社 これが創建の始まりとも伝わる。 菅原天神の隠居ともいわれていたそうです。

佐保殿は大和の本拠地だった 佐保殿は、藤原北家における大和の本拠地だったとされる

715年
藤原宇合(鎌足の弟の第3男) 唐へ入唐 遣唐使として入唐


716年


武蔵国高麗郡が設置された 朝廷が駿河など7ヶ国に居住していた旧高句麗から渡来系移民1799人を武蔵国の一部に移したとされる


717年


阿倍仲麻呂 10代で 唐へ留学 仲麻呂は本が大好きだった 10代 遣唐使 宝物より本好きだったらしい 大和の国(桜井市阿部)で生まれ、日中友好の祖とも言われた安部仲麻呂 奈良時代の遣唐留学生。 姓は朝臣。中務大輔・阿倍船守の子。弟に 阿倍帯麻呂がいる。

3月
16歳の時 仲麻呂が留学生として第8次遣唐船にて難波を出航した(総勢557人だった) 阿倍仲麻呂の他に玄、吉備真備(きびのまきび)などが共船していた


720年


8月
藤原不比等 死去 養老4年 8月に藤原不比等が薨去

720年
新田部親王(第40代天武天皇の皇子)が軍事統括者に任命さる 養老4年 右大臣・藤原不比等が薨御すると、新田部親王は知五衛及授刀舎人事に任命され、朝廷直轄の軍 事力(五衛府・授刀舎人寮)の統括者となる

720年
日本書紀が編集される 「天皇」の称号を用いたのは天武天皇が最初のようです。 天武天皇はさらに天皇を神格化します。

720年
上毛野広人 陸奥国で殺害された

陸奥国


養老4年正月に正五位下に叙せられるが、同年9月に蝦夷の反乱により任地の陸奥国で殺害された


721年


12月


7日
元明天皇 崩御 娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、 さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて 12月7日崩御

721年
長屋王 政界の主導者となる 正月に長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる


724年


2月


藤原4兄弟が密告を企てる 漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」 と密告します 神亀6年2月

⬇ 実は芝居だった 一族の将来に渡っても禍根となりそう な、左大臣・長屋王を葬ってしまう藤原4兄弟によって仕組まれた 芝居であった ⬇ 芝居を立てた上で、藤原宇合が軍を発てる 藤原四兄弟は長屋王が謀反を企てているという噂を流したうえで、藤原宇合が軍を動かします ⬇ 長屋王の屋形を包囲し自害に追い込みます

724年
兵制の発足があったと考えられる 記録にも「鎮守軍卒」「鎮兵人」という似たような記述があることから鎮兵制の発足は神亀元年(724年 )頃であると考えられる


729年


2月


10日
宮廷の軍隊が長屋王邸を囲んだ


神亀6年2月10日の夜、宮廷の軍隊が長屋王邸を囲んだ。兵の指揮は藤原4兄弟の3男宇合であった


8月


24日
聖武天皇が朝臣達を集める

聖武天皇(第45代) 8月24日、聖武天皇 (第45代) が朝臣達を集めて光明皇后立后の訳を説明する。

729年
鎮守府が設置された可能性がある 鎮守府(ちんじゅふ)は、陸奥国に置かれた古代日本における軍政を司る役所である。その長官である将 軍の名が天平元年(729年)に初めて見えることから、奈良時代前半には鎮守府相当の機関が東国のいず れかの地に設置されたものと推測される


729年
新田部親王(にいたべしんのう)(第40代天武天皇の皇子)が長 屋王の変において罪の糾問に当たった。 神亀6年 長屋王の変で 六衛府の軍隊が屋敷を包囲するなか、舎人親王らとともに派遣されてその罪の糾問 に当たっていた

⬇ 藤原不比等の息子らは長屋王に謀反の疑いをかけさせ自殺させた 藤原不比等の息子らは長屋王を討った(長屋王の妃・吉備内親王も自害) ⬇ かくして藤原4兄弟たちは父の不比等の頃のような藤原氏勢力の挽回に成功します。 ⬇


奈良県生駒郡平群町梨本に「天武天皇皇孫長屋王御墓」がある。 ⬇ 長屋王の邸宅跡(奈良そごう)の建設のために昭和60年から発掘調査がされて、 なんとここからざっくざっ くと木簡が出てきた。



長屋王邸復原模型(総て長屋王の所有地) 収入は今で言う1億5000万くらいあった。

長屋王の変・ 不比等の死後政治の実権を持った長屋王は、藤原氏による陰謀説が強い「長屋王の変」で自害し、聖武天 皇と光明皇后、これをとりまく藤原四兄弟の時代となった。


⬇ 聖武天皇(第45代)と光明皇后、および藤原四兄弟の時代となった。


731年


8月


11日
鈴鹿王(長屋王の弟)は参議に任ぜられた 「長屋王の変」の後も昇進を続け、参議に任ぜられていた。 天平3年8月11日


732年


藤原宇合(鎌足の弟の第3子)が豊後国風土記を完成させた


藤原宇合

当時の大分県の地勢を編纂し、10ヶ月ほどで完成させた 豊後国は今のほぼ大分にあたる。 天平4年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合(鎌足の弟の子)が九州の他の国の風土記と合わせ てわずか10か月ほどで完成させたともいわれる。


733年


2月


30日
出雲国風土記が完成 聖武天皇(第45代)に奏上された 天平5年(733年)2月30日に完成

733年
吉備真備公が遣唐使船から帰国を果たした 吉備真備公が中国から帰国した際(途中)、広峯山頂の白幣山(はくへいさん)に廣峯神社神社を開いた


全国にある牛頭天王の総本宮と言われる広峯山系の白幣山に登臨して牛頭天王の信託を感受し、この旨を 天皇に奏上して綸命を受けた。

吉備真備公(遣唐留学生として17年にわたり様々な学問を修め帰国後に国政の重鎮として活躍し右大臣に なりました)

囲碁を日本に伝えたとされる吉備真備


彫刻 吉備真備・囲碁の図(三嶋大社)

ゆかりの吉備観音。右手には、真備公の木像も安置されている(京都市左京区・金戒光明寺)


遣唐使として中国に渡った吉備真備公を祀る神社です。真備公が中国から囲碁を伝えたとして、ここが囲 碁発祥の地とされているようです

中国では、玄宗皇帝の全盛期の時代


今日でも中国では記念式典が行われている —陜西省西安市


出雲国は現在の島根県に同じ 総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、巻末条から構成されている 。 完全な形で残っている


風土記は奈良時代に日本全国で作られましたが、完全な形で残っているのは、この出雲国風土記だけです 。


735年


9月


30日
第40代天武天皇の第10皇子 新田部親王 薨去 天平7年 最終官位は大将軍一品。


11月


14日
舎人親王 薨去 第40代天武天皇の子 天武天皇の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう 兄弟の新田部親王の後を追うように薨去


735年
伝説の武内宿禰(ヤマトタケル?)を奉る神社・武雄神社が建てられた


武雄神社(奥には樹齢3000年の大楠がある⬇)


創建は「武雄社本紀」によれば、奈良時代の天平7年(735年)で、祭神は、武内宿禰(たけうちのすくね) を主神とし、仲哀天皇(14代)、応神天皇(15代)、神功皇后(仲哀天皇の妻)、武雄心命を併祀してあり 政治を補佐する大臣として第12代から第16代までの5代の天皇に仕え、実に360歳を誇る日本一長 寿の神様として知られている



737年


長屋王を陥れた藤原四兄弟が怪死 藤原四子の死後は、聖武天皇(第45代)の下で橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した吉備真備や玄[ボウ] を登用して政治を行った


738年


2月


6日
(天平10年1月13日) 阿倍内親王(後の46代孝謙天皇)が皇太子になった


天平10年1月13日(738年2月6日)に阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった


739年


法隆寺に行信の創建になる*八角堂(夢殿)が建立された
*


天平11年


742年


1栄叡と普照が揚州大明寺に鑑真を訪ねて伝律授戒のために渡日を懇請、和上が受託する。


743年


743年:誣告されて1次渡航は失敗。 ぶこく 【誣告】 《名・ス他》わざと事実を偽って告げること。 「—罪」 743年 聖武(第45代)天皇の大仏建立の勅は放浪中の743年であり、華厳宗の伝来からわずか7年後のことであっ た。


745年
都は平城京にもどされる

745年
藤原不比等没後 光明皇后が跡地を相続・法華寺創建


5月


不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)5月 、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである


749年


阿倍肉親王 孝謙天皇(第46代天皇)即位


聖武天皇と光明皇后には男子が育たなかったため、娘が史上6人目の女帝、孝謙天皇 として天平勝宝元年 父・聖武天皇の譲位により即位した。皇太后(光明皇后)が後見した。


751年


高麗神社 創建 若光が没した後、郡民がその徳を偲び、高麗郡の守護神として御霊を祀りました。これが高麗神社の創建 です。


統治を開拓した高麗王 若光を弔うために創建されました。


高麗王 若光 高麗神社は、高句麗からの渡来人で高麗郡の郡司であった高句麗王族とされる高麗王若光が祀られている 社である。

平成29(2017年)年9月20日、21日 天皇陛下と皇后さまは高麗神社をご来訪し高麗王を参拝した


参道を進みながら、高麗文康宮司(右手前)に話し掛けられる天皇、皇后両陛下 埼玉県日高市

「歴代天皇で初」のようです。 天皇陛下皇后両陛下を見た人の感想 「検索かけたら本当のようだね天皇陛下が高麗神社にこられる予定だと母から聞いて本当かな???(。-_-。)と ね」 「沿道に集まった人達へ御手振りをする天皇皇后両陛下。 目の前を通過する時間は1秒もありませんでし たが、無事にお目にかかることができました。」 「午前8時過ぎに高麗川駅着。高麗神社の社務所の営業が8時半からのようなので、その時間に合わせてや ってきました」



751年
聖徳太子の名称が初出する 『懐風藻』で聖徳太子の名称が使われるようになる(初出) それまでは「宮太子聖徳皇」という名称が使われてた。 『懐風藻』は、現存する最古の日本漢詩集 花鳥風月、雪月花などの美意識、自然観などが掲載されている。

751年
吉備真備 遣唐副使として2度目の入唐 第12次遣唐使の副使真備は、九尾の狐が憑依した楊貴妃に会う。 化生の前となって悪事を働いた九尾の狐は、真備が唐から帰国する舟に潜んで、わが国に渡ってきたとい う言い伝えがあります。


752年


5月


30日
東大寺に大仏が出来る 聖武天皇(第45代)は開眼法要を行う


盧舎那(るしゃな)仏像 確か、最初の仏さま(釈迦が語った中で最古の仏陀で、宇宙根本と云われている) 天平勝宝4年4月9日(752.5.30) 5月30日

752年
大仏を安置する大仏殿が完成。開眼供養会が行われ、聖武上皇 、光明皇太后、孝謙天皇のほか貴族、高官らが参列した

752年
遣唐使の副大使として吉備真備が再び長安にやってきた 吉備真備「仲麻呂さん、今度こそ一緒に日本に帰りませんか。」 阿部仲麻呂 「もう35年たったか。」


753年


阿倍仲麻呂が唐から帰国するとき、鑑真と共に帰国を図る


鑑真和上は、唐の僧で、日本律宗の開祖。上海の北、長江河口の揚州(ようしゅう)出身 当時中国では旅を禁じられていた 当時中国唐では外国への旅は禁じられていたが阿倍仲麻呂の帰国と一緒に来日することになった

密かに鑑真を連れていく 日本側は「鑑真」を遣唐使船で密かに連れて行くことを計画します。「鑑真」は了承します

仲麻呂は船待ちしていた 日本に向かったのが753年冬、その同じ船団に加わる阿倍仲麻呂は中国南部明州で船待ちをしていた。

仲麻呂の船が漂流に遭う 阿倍仲麻呂は 大使 藤原清河の第一船に、 鑑真は 副使 大伴古麻呂の第二船に乗船。 第一船は漂流で帰日せず。

仲麻呂はベトナムに着く 4隻の遣唐使船のうち仲麻呂が乗る第1船は、暴風雨に遭って南方に流され驩州(現ベトナム)に漂着します 。安倍仲麻呂は帰国予定だったが船が難破してしまう

阿倍仲麻呂は日本に帰れなくなった(唐で亡くなりました)


海から昇る月にこだわれば、仲麻呂が歌を詠んだ*1場所は揚子江の河口付近であるそうです(「唐大和上 東征伝」)。*1古今集では明州「阿部仲麻呂明州望月図」となっている。


天の原(大空)をふりさけ(振り仰いで)見れば・・・遠い異郷にあって月を見て故郷をしのぶ阿倍の仲 麻呂

かつて長安の王宮のあった興慶宮公園の片隅に日本への帰国が果たせなかった阿倍仲麻呂を偲ぶ碑


清河や仲麻呂の消息は、渤海の使節によって日本に伝えられました。渤海の使節は藤原清河の書簡を携え ていました。 安倍氏の末裔として平安時代中期の陰陽師、安倍晴明挙げられる

鑑真は日本へ


753年
遣唐使一行 阿児余波島(沖縄島)に漂着


再現された遣唐使船


754年
聖武天皇(第45代)唐僧・鑑真と会う 天平勝宝6年 唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮 子と死別する。

754年
空海の師匠が生誕する 弘法大師空海の師として知られる勤操大徳は天平勝宝六年(754年)、大和国高市に生を受けました。

754年
聖武上皇が戒壇院を建立 (天平勝宝6)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん)から戒を授かり、翌 年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。国宝「四天王立像」を安置。


戒壇院

国宝「四天王立像」


756年
娘の孝謙天皇(第46代)の次は「道祖王」を皇太子とするよう遺 言し、聖武上皇没す 天平勝宝8年


756年
道祖王が立太子した 没した聖武天皇の遺言によって新田部親王の子の道祖王が立太子した


757年


4月


22日
孝謙天皇(第46代)によって道祖王は廃される 孝謙天皇(第46代)によって道祖王は廃された 天平勝宝9年3月29日(757年4月22日)


26日
光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により大炊王(後 の淳仁天皇第47代)が立太子した。 4月4日(4月26日)


8月


大炊王(第47代淳仁天皇)が即位した


淳仁天皇 母への孝養を理由 に、孝謙天皇(第46代)は大炊王 に譲位する 天平宝字2年 8月

757年
橘奈良麻呂の変がおこる 恵美押勝 光明皇后の甥、旧名藤原仲麻呂は橘奈良麻呂の乱を治め政敵を滅ぼすと皇族以外では初めてと言 う太政大臣の位まで上り詰める


758年
仲麻呂が恵美押勝という名前を授かる 天皇の保護者であった仲麻呂の権力は絶頂となり、「恵美押勝」という唐風の名前を賜ります。


「恵美押勝」こと「仲麻呂」


760年


7月


31日
孝謙上皇の母・光明皇太后が崩御

7月31日 皇太后の御陵は聖武天皇(第45代)の御陵のすぐ隣に造られました


藤原の仲麻呂は光明皇太后崩御により後ろ盾をなくした 仲麻呂は太政大臣(大師)に任じらていたがこれが最大権勢の陰りのきっかけになったとも言われている

道鏡あらわる


道鏡 とは、奈良時代の仏教僧である。 河内国若江郡の弓削氏の出身で、名は弓削道鏡(ゆげのどうきょ う)

道鏡 誰も手をつけられないような心の病を祈祷(きとう)で治し、上皇に気に入られ、政権の中枢に躍り出た。

760年
孝謙上皇 道鏡(僧)に心酔する


道鏡と言えば孝謙天皇に取り入りその愛人となり、 ついには自らが天皇になろうとした怪僧であり、巨根 の持ち主でもあった


「男らしさ」を武器に大出世した怪僧・道鏡



760年
藤原仲麻呂が危機感を抱く 孝謙天皇(女帝)を助け政治を行ったのは藤原仲麻呂である。彼は天皇の母、光明皇后に信頼されて位を あげていった男だ。 孝謙女帝とも愛人関係にあったとされるが、孝謙天皇(第46代)と道鏡との関係に危機感を感じた藤原仲麻 呂は、淳仁天皇(第47代)を通じて、二人の関係を告発する。

760年
淳仁天皇(第47代)に皇位を譲り、退位した孝謙天皇は上皇になりますが、760年に孝明皇太后が亡くな り、翌年、上皇も病気になってしまいます。


761年


10月


13日
孝謙上皇が病にかかり僧の道鏡が看病にあたる 天平宝字5年 10月13日、孝謙上皇は保良宮 (→現在の大津市付近。平城京の副都として計画されたが、 のちに未完成のまま放棄)に行幸中、病に倒れる。

病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになった。 道鏡 病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の看病して以来、その寵を受けるようになった ちょう 〖寵〗 チョウ・めぐむ 《名・造》家来を愛する。かわいがる。気に入る。かわいがられる。運命にめぐまれる。 「主君の寵を うける」


762年


6月


23日
天平宝字6年(762年)5月23日(6月23日)に淳仁天皇(第47代)は平城宮に戻ったが、 孝謙は平城京に入 らず法華寺に住居を定めた

762年
藤原仲麻呂は、崩れゆく権力を守るために、762年(天平宝字6年)12月に乾政官(太政官)の人事 異動を断行し、息子の訓儒麻呂・朝?を参議に任命した。


764年


9月


11日
恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱がおこる 9月11日夜、謀反人となった押勝(藤原仲麻呂)は、外印(太政官印)を持って近江国に向かった。 近江は藤原氏が代々国司を務めた政治的基盤の地であり領国だった


これが藤原仲麻呂(押勝)の乱の始まりである。 仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが、先回りをした官軍に勢多の橋を焼き落とされ、湖上 へ逃れようとしたところを捕らえられ、湖畔で斬首された。 藤原仲麻呂とその一族は、悉く殺された。 9月

藤原仲麻呂は首を斬られる 孝謙は道鏡を大臣禅師に任命自らは第48代称徳天皇となる。

孝謙はこの直後、藤原豊成を右大臣に再任、道鏡を大臣禅師に任命し、自らは再祚(再び天皇に即位)して 第48代称徳天皇となる。

道鏡は大臣禅師に

一時は父聖武天皇(第45代)が建てた東大寺と並ぶ*1大寺院として栄えた。しかし何度も火災に遭って大伽藍を焼失。

*1宝亀11年(780)勘録の『西大寺資財流記帳』によれば、創建当初は、平城京右京1条3・4坊に位置し31町という広大な寺域となっている。

仲麻呂の権勢が増し新羅征伐の計画を進めた事から大炊王(淳仁天皇(第47代))を廃帝とし称徳天皇(第48代)として重祚した。

藤原仲麻呂は長年対立関係にあった新羅征討の準備を行ってたが、処刑されたために新羅征討は中止された。 孝謙はそのことも考察していたのだと考えられる

淳仁天皇(第47代)は淡路に流される

藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)が発生失敗に終わり、上皇との対立により仲麻呂との仲が深かったことを理由に廃位を宣告、親王の待遇をも って淡路国に流さた
孝謙上皇の発願により、四王堂(西大寺)が創建された




孝謙上皇の激怒をかう 太師(太政大臣)の要職にあった藤原仲麻呂(恵美押勝)は、孝謙上皇が僧道鏡を寵愛したために、道鏡 を排斥しようとして内乱を起こした。 淳仁天皇(第47代)を通じて、孝謙上皇「あまり道鏡をかわいがりすぎないように…」に注意したことで、 孝謙上皇の激怒をかいます。 藤原仲麻呂は上皇が相談相手として道鏡を重く用いはじめたことを、新たな政敵の出現と捉えた。仲麻呂 は孝謙上皇排除のために軍事訓練を装って諸国から兵を集め、挙兵の準備を始めた。


765年


11月


10日
淳仁天皇 崩御

11月10日, 兵庫県 淡路島


766年


道鏡かつてない地位(法皇)になる

道鏡は法皇の地位(天皇に次ぐ地位)につきます。 法皇道鏡は、天皇と同じ輿の使用を認められ、衣服や食物も同じ。

天平神護2年


769年


5月


神の御告げで、道鏡を天皇に就くことを薦められる

九州の宇佐八幡宮より「太政大臣禅師を経て法王となった弓削道鏡を皇位に就けよ」という宇佐八幡神の託宣が女帝・称徳天皇に奏上された。 宇佐八幡宮より称徳天皇に対して道鏡が皇位に就くべしとの託宣を受け、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされる一連の騒動。 5月

道鏡の弟が大分県にある宇佐八幡宮へ行き、道鏡を皇位につければ天下泰平であるとするご託宣を朝廷に持ち帰ります


「道鏡を天皇に」とする宇佐八幡の神託の真偽を称徳天皇(御簾の中)(第48代)の命で確かめに行く和気清麻呂

結果は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。」 和気清麻呂。天皇の継を民(道鏡)やらせるな。追放せよ」と言う神託でした。

道鏡の誘惑:道鏡は清麻呂公に「自分が天皇になれば、汝に大臣の位を与える」と誘惑しました。 清麻呂公は姉の広虫姫と、国の行く末について話し合いま した。

清麻呂は天皇にご神託を報告して道鏡の野望を暴きましたが怒りを買ってしまいます。

清麻呂は追放される

清麻呂は道鏡の皇位継承を阻んだ怒りを買って「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」と嫌がらせされ、大隅国(鹿児島)へ配流された。


道鏡の怒りは収まらず、鹿児島へ向かう清麻呂に刺客を差し向けたりと危険な旅路。さらに清麻呂は、途中で足が萎えて動けなくなります。それでも清麻呂は皇室の安泰が守られたことを感謝するため宇佐八幡(大分県)に立ち寄ることにしました。するとどこからともなく300頭もの猪が現れ、輿の周りを警護しながら途中道鏡が放った刺客から和気清麻呂を守ったという

和気清麻呂公は奈良時代の貴族ですが、宇佐八幡宮神託事件で流刑になった人物です。その流刑地に建てられたのが、この和気神社で和気神社は、清麻呂を守護したとされるイノシシを神様の使いとしてあがめています

コメント
「道鏡に逆らった神託を持ってきた「和気清麻呂」は、とんでもない勇気があった、のかどうか、果たして」
「道鏡のお告げも嘘ですが清麻呂のご神託も嘘だと思います。」
「神様はなにもしゃべらなかったので、おいらが作文しました」

友達の路豊永は清麻呂公に、「もし道鏡の望みをかなえるようなことがあれば、私はいきていません。」と言いました。


770年


称徳天皇(第48代)が大麻の紙を使って、法隆寺に百万塔陀羅尼を納める

【陀羅尼】だらに


仏教
梵語(ぼんご)の発音のまま唱える長い句。(経文の中の)その呪文(じゅもん)。呪



770年
8月


4日
称徳天皇(第48代) 崩御
称徳天皇は3月 病に倒れ8月4日、平城宮西宮寝殿で死去。

この頃既に道鏡はその政治的地位を失っていた

大納言の位に就いていた道鏡の弟、弓削浄人も悲惨な人生を送りました。
称徳女帝(第48代)が崩御すると道鏡も失脚し、皇位は称徳女帝(第48代)が一番嫌った形で、藤原一門の話し合いによって選出された皇族の白壁王に継承されます。

光仁天皇(第49代)即位 清麻呂、京に戻される
厳しい暮らしをしていた清麻呂でしたが、光仁天皇(第49代)が即位されて道鏡が左遷

道鏡は下野国へ流されてしまいました。

清麻呂は流刑を解かれて都に呼び戻されます

その後、桓武天皇(第50代)により摂津職の長官に任じられ、中宮大夫、民部大輔も兼ねました。

770年
白壁王が光仁天皇として即位
天智天皇(第38代)の孫 (白壁王)が光仁天皇として即位しました(第49代) 即位 62歳


770年
阿倍仲麻呂 死去 唐の都・長安 70代


700-772年


インド哲学や大麻の知識が日本に伝わる
道鏡の時代 のインド哲学や大麻の知識が遣隋使通じて日本に伝わる

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Last updated  2018.04.26 12:44:33
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