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ステマしないでください@ Re:法律で認められている医療大麻 CBDオイル1(06/09) 764 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:…
電球ピカソ@ Re[1]:法律で認められている医療大麻 CBDオイル1(06/09) 著作権者さんへ 参考にしますので著作権の…
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2018.04.09
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紀元前
紀元前9000年~紀元前2000年
紀元前1999年~紀元前660年
紀元前659年〜紀元前149年
紀元前148年〜紀元前1年
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574年


2月


4日
広姫が立后(敏達天皇)して1男2女がお産まれになった


7日
聖徳太子 生誕
成人期身長は180cmもあった。(日本人でない説)
*1



575年


11月
広姫(敏達天皇(第30代)の皇后)崩御

敏達天皇4年(575年)11月

*1広姫の*2崩御後、敏達天皇5年(577年)3月10日には額田部皇女(のちの推古天皇)が立后している。

*1広姫の陵(お墓)(滋賀県米原市)



576年


2月
15日
聖徳太子(2)の時に*1南無仏を唱えたという 聖徳太子(2)の時、乳母の手から離れ、東を向いて*1南無仏と唱え、七歳まで続けたという。 敏達天皇5年2月15日

*1南無は帰依 仏はほとけ
*1仏に帰依するという意味


4月
23日
額田部皇女(のちの第33代推古天皇=23)が立后 敏達天皇5年3月10日 576年4月23日


585年


8月
*1穴穂部皇子(年齢不詳) 葬儀で兄(敏達天皇(第30代=47)に憤慨

*1欽明天皇の皇子 母は蘇我稲目の娘・小姉君
異母兄に敏達天皇と用明天皇など
同母姉 に穴穂部間人皇女(用明天皇妃、聖徳太子生母)、同母弟に崇峻天皇。

8月、兄・敏達天皇(第30代=47)が崩御し、殯宮で葬儀が行われた際に「何故に死する王に仕え、生きる王 (自分)に仕えないのか」と憤慨した。


9月
14日
敏達天皇(第30代=47)崩御
*1イメージ


奈良県 桜井市 敏達天皇14年8月15日 585年9月14日


586年


5月
聖徳太子(12)の叔父が額田部皇女皇后(次期推古天皇=33)を犯そうとした
敏達天皇(第30代=47崩御)の殯宮に穴穂部皇子(欽明天皇(第29代=62)の皇子。
聖徳太子(12)の叔父)が侵入し 、皇后(33)を犯そうとした。

寵臣・三輪逆に助けられたが、逆は穴穂部皇子に同調した物部守屋らに追い詰められ殺された。その後、 皇后は穴穂部皇子(年齢不詳)との関係を強要された。 用明元年5月

586年
*1用明天皇(第31代=年齢不詳) 即位

*1敏達天皇崩御を受け即位。
崇仏派であり仏法を重んじ、実質、王朝において仏教を公認、それが後の推古天皇以降の仏教隆盛につながった。

*1用明天皇



587年


5月
21日?
*1用明天皇*2崩御

*1聖徳太子の父

*2疱瘡(ウイルス系感染症)のため


在位2年足らずだった
(明治3年(1870年)に仲恭天皇と弘文天皇が追贈されるまで、在位期間が最も短い天皇であった。)

*1用明天皇


*1用明天皇の陵(大阪府南河内郡太子町)




7月
17日
穴穂部皇子(年齢不詳) 去世
用明天皇2年6月7日(587年7月17日)


588年
聖徳太子(14)は仏教を奉ずる立場で蘇我氏の軍に加わっていた 物部氏との戦いにおいて仏教を奉ずる立場で蘇我氏の軍に加わっていた

590年
聖徳太子が16歳になる


(左)聖徳太子孝養(16歳)像・(右)救世観音立像 法隆寺蔵


592年


10月


4日
蘇我馬子が崇峻天皇(第32代=39)を怖れ殺害を試みる猪を献上する者が あった。崇峻天皇(第32代=39)は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬 るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。 そのことを聞きつけた馬子が「天皇(第32代=39)は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下し た 10月4日


12月


11日
蘇我馬子 渡来人を使って崇峻天皇(第32代=39)を殺害する


寝ているところを暗殺される崇峻天皇(第32代=39) そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢(やまとのあや)一族の直駒(あ たいこま)=東漢直駒という者に殺された。 此のとき直駒は調子にのって後宮にいた美女を略奪 ところがなんとそれは蘇我馬子の娘の河上娘だった 直駒も蘇我馬子の令で殺されてしまった 592年12月11日 奈良県 磯城郡

崇峻天皇(第32代=39)亡き後推古天皇(第33代=35)になり聖徳太子がその実権を握る(=摂政)


592年
年推古天皇(第33代=35)即位 蘇我馬子の姪

歴代天皇で初めての女帝

592年
聖徳太子(18)の時、郷社・阿蘇神社摂社 創建される 熊本


593年


聖徳(19)太子が摂政となる 蘇我馬子と協力して天皇中心の政治をめざす

593年
聖徳太子(19) 四天王寺を建てる

聖徳太子(19)は四天王寺を建立しそこに療病院、施薬院などを併設した

愛染堂には、その施薬院があった


愛染堂


596年


孝徳天皇 生誕 (後に第36代天皇)となる 推古天皇4年

元明天皇(第43代)の叔父


元明天皇(第43代)


598年


4月
推古天皇6年 太子は諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き 、舎人の調使麿に命じて飼養する。


9月
太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで 至ると、3日を経て都へ帰還したという。


600年
聖徳太子(26)は 観音菩薩を彫り雲冠寺(うんかんじ)を建てた


601年
推古天皇(第33代=44) 高句麗 百済に使いを送り任那の復興を要請


601年
聖徳太子(27) 斑鳩宮を造営

601年
斑鳩宮(いかるがのみや)は、聖徳太子が現在の奈良県生駒郡斑鳩町に*営んだ宮殿。


602年


来目皇子任那を滅ぼした新羅に対する新羅征討計画の際、新羅征討将軍として軍二万五千を授けられる 推古天皇10年 2月


603年


12月
聖徳太子(29)が冠位12階を制定 推古天皇11年 12月

603年
当麻皇子(推定年齢22-34) 征新羅将軍に任命される推古天皇11年


604年


4月
聖徳太子(30)が17条の憲法を発布


推古天皇12年 4月 「一に曰はく、和を以て貴しと為し、忤(さから)ふこと無きを宗と為す。」

*建設は606年となっている 推古天皇9年


605年


聖徳太子は(31)は播州斑鳩寺に移り込んだ 推古天皇13年


606年


播州斑鳩寺 建設 開基 聖徳太子(32)のころ 推古天皇14年


607年
*1聖徳太子*2法隆寺を建設した

*2聖徳太子が建てた法隆寺


*1聖徳太子


*1聖徳太子が病に倒れた*3用明天皇*4回復を願って創建したのが*2法隆寺

*3天皇は建設*4半ば(587年)に崩御。
完成した*2法隆寺は、亡き天皇を*2供養する寺となりました。

*4





2月
9日
推古15年(607年)
*0聖徳太子(推古天皇)*1敬神の詔を出した

*1(敬神の詔)詔を下され、聖徳太子と 蘇我馬子に命じて朝廷の役人を率いて神祇を祭らせた

*1内容
「古来わが皇祖の天皇たちが、世を治 めたもうのに、つつしんで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても、神祇の祭祀を怠ることが あってはならぬ。群臣は心をつくしてよく*2神祇を拝するように

*2推古天皇は、先祖の信仰を継承して伝統の神々を祀り続けることを誓った

*1この詔の*0起草者が聖徳太子であった



608年


隋の琉球侵攻 推古天皇16年


609年


聖徳太子(35)の頃「勝鬘経の講讃」

天皇(第33代=46)の命により聖徳太子は勝鬘経(しょうまんきょう)を講義(3日間)したと伝えられ、その時 、庭に蓮の華が降り積もり、太子の冠から光が輝いたという。 推古天皇17年


612年


聖徳太子(38)の異母弟当麻皇子(麻呂古王=推定年齢29-45)が当麻( たいま)寺を建築 推古天皇20年



奈良県葛城 現在の当麻(たいま)寺


「当麻寺」なんて名が残っているが、寺は庶民に大麻を吸わせて、「これが極楽だぞ」と信じさせていた のである。その名残が「当麻寺」となったが、今はその秘密は隠蔽された。

中将姫製作とされる大麻曼荼羅


西方極楽浄土の様子を表す。 中将姫は右大臣藤原豊成公(藤原鎌足の曽孫)の娘として奈良の都に生まれて、色々な迫害を乗り越えて 、16歳の時に寺に入り尼僧となる

医療大麻薬用成分(CBD)入りチューインガム




614年


藤原鎌足が現れる 推古天皇22年

ふじわらの かまたり(614〜669年)別称は中臣鎌足。孝徳〜天智朝の官僚 大化の改新に功績が大ある。

万葉集に歌がある。 墓は奈良の談山神社にある


大化の改新は唐と戦うための改革だった!?

日本古代史に韓国人の存在が!?… 藤原鎌足は素性が不明。蘇我氏が持つような正当な系譜がない。 中臣鎌足がどっから湧いて出て来たのか 、かなりあやふやなのだ。 百済の亡命王子、豊璋こと藤原鎌足という説も。


中臣連鎌子(中臣鎌足)「あめのみはしらのかみ」(アヒル文字)伊勢神宮文庫蔵 アヒル文字で書かれた 奉納文


618年


日本の平城京・平安京、渤海の上宮龍泉府のモデル 西域を通しササン朝ペルシアからイラン文化が伝えられ、 各地から朝貢使節や商人、留学生などが集まっ た。 推古天皇26年

法隆寺の謎




622年


聖徳太子(48) 死去 推古天皇30年


626年


中大兄皇子(後の38代天智天皇) 生誕 推古天皇34年


631年


百済王義慈王の子が日本に来る 璋王 姓は余。名は豊璋。百済王義慈王の子。 強力な唐帝国の成立により圧迫の強まる国際情勢のなか、 人質として日本へ行く。


641年蘇我石川麻呂→山田寺の造営を始めた




蘇我石川麻呂 系譜的には、馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蝦夷は伯父、入鹿は従兄弟、日向・赤兄・連子は兄 弟である。


643年


太子の王子山背大兄王一族が住んでいたが、蘇我入鹿の兵によって斑鳩宮は焼き払われ、山背大兄王以下 の上宮王家の人々は、法隆寺で自決に追い込まれたとされる。 皇極天皇2年



645年
皇極天皇(第32代)が退位し、孝徳天皇(第33代)が即位


孝徳天皇元年

当時、天皇になる条件は後の皇太子に相当する「大兄(おおえ)」であることや、父母が天皇であること などだった(女帝は別)。いずれの条件も満たさない軽皇子(孝徳天皇=第33代)だった

孝徳天皇(第33代)の唯一息子・有間皇子


有間皇子は、孝徳天皇(第33代)の唯一の皇子だったが、中大兄皇子の謀略にかかり紀州で処刑され、わず か19歳で亡くなった


中大兄皇子(19)

中大兄皇子(19)と孝徳天皇(第33代)


大化の改新
2:23~


大化の改新前夜の「乙巳の変」は、専横を極めていた蘇我氏を滅ぼした政変である 大化の改新は唐と戦うための改革だった



孝徳天皇(第33代)の唯一息子・有間皇子


大化の改新 大化の改新前夜の「乙巳の変」は、専横を極めていた蘇我氏を滅ぼした政変である 大化の改新は唐と戦うための改革だった





談合をする中大兄皇子(19)と中臣鎌足

以後、中臣鎌足は中大兄皇子(19)と政治について議論するようになり、蘇我親子が邪魔だということで意見が一致します。


6月
12日
「乙巳の変(いつしのへん)」がおきた。 皇極4年6月12日

鎌足は中大兄皇子(19)と結託→蘇我石川麻呂をも仲間に引き入れ、蘇我入鹿を滅ぼす。


蘇我石川麻呂(入鹿の親戚)

結末
中大兄皇子(19)が物陰から躍り出て 飛び出し、入鹿に一太刀を浴びせ(入鹿の頭から肩にかけて斬りつけ) 、続いて佐伯子麻呂がとどめを刺し、入鹿を殺害した。この時、入鹿の首が宙を舞った

板蓋宮(いたぶきのみや)における暗殺の場↓


入鹿の首をはねる中大兄皇子(多武峰縁起絵巻より) 太刀を振り上げているのが中大兄皇子(19後の天智天皇)、弓を手にしているのが中臣鎌足。

645年
蘇我入鹿 死没


蘇我入鹿死没 蘇我蝦夷・入鹿父子は死に、権力をほしいままにしていた蘇我氏はあっけなく滅亡


かくて、蘇我政権の崩壊した翌日、鎌足の強力な指導の下に、新政府の組織に取り掛かった。

「乙巳(いっし)の変」で中大兄皇子(19)とともに蘇我入鹿を暗殺した中臣(藤原)鎌足の次男。父の賜 った“藤原姓”を自分の子孫で独占できるよう画策


乙巳の変の舞台となった飛鳥板蓋宮の跡

以降、まだ少年であった大海人皇子も、その後兄・中大兄皇子(19)を助け、朝廷内でも重要な地位を占め てきた。


648年


中国の書に日本という呼び名が出始める 倭国(邪馬台国)を合併し 日本と改名したとされる


649年


5月


15日
蘇我倉石川麻呂 討たれる 蘇我石川麻呂は讒言で自殺に追い込まれた。 5月15日


石川麻呂の霊を祀る石廟

なんと、蘇我石川麻呂を自殺に追い込んだ天智天皇(第38代)の妻の一人は、石川麻呂の娘(障害を持ってい た)




649年


「冠十九階」が制定される


大化5年


650年頃


大和朝廷が邪馬台国を滅ぼす 大和朝廷が日本の統一王権を確立する


654年


11月


24日
孝徳天皇(第36代=58) 崩御 11月24日, 大阪府 大阪市 享年58歳 白雉5年10月10日


655年


1月


3日
斉明天皇(第37代) 即位 舒明天皇(第34代)の皇后だった宝皇女が、飛鳥板葺宮で重祚(皇極天皇(第32代)から一代おいて)再度即位 斉明天皇元年 1月3日

冬、板蓋宮が火災に遭い、飛鳥川原宮に移る。大化の改新の功労者、中大兄皇子の母親。土木工事が好き だった(興事(おこしつくること))。


斉明天皇(第37代)が造ったとされる狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ) 斉明天皇(第37代)は道教に傾倒していました。道教は道(タオ)の修行により不老長寿を目指す神仙思想 がベースとなっています。


657年


六所神社 創建される


660年
百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた


661年


8月
24日
斉明天皇(第37代) 崩御 8月24日

661年
天智天皇(第38代)=百済に送援軍 天智(第38代)→百済復興のため唐と新羅の連合軍との対決決意→滅ぼされた百済の人質王子・余豊璋よほ うしょうを王に即位して援軍を送る。


662年


8月
斉明天皇(第37代)たちは百済援軍復興を手助けする 斉明天皇((第37代)中大兄皇子の親母))と中大兄皇子=(第38代天智天皇)は飛鳥を出て筑紫の朝倉の宮に移っ て百済援軍復興へ手助けとし、大軍27000を百済に送り込む。余豊璋を百済王に就任させた。 余 豊璋は、百済最後の王である義慈王の王子 百済は滅亡し、その後日本の遣唐使渡航のルートが大きく変わった 天智天皇元年 8月

662年
中大兄皇子(36)→天智天皇(第38代) 即位


百人一首(天智天皇の読み札) 天智天皇元年


663年


6月
帰国後の百済王豊璋はともに戦ってきた福信の謀反を疑って捕らえ、福信の首を斬らせたそうです 天智天皇2年


8月
17日
白村江の戦い



中大兄皇子が大和の国のリーダーになった頃、朝鮮には3つの国があり、大和朝廷の日本統一と国づくり に影響されて、それぞれが朝鮮半島の統一をめざしていました。

8月17日 唐・新羅連合軍が百済復興軍の周留(する)城を包囲。唐軍は軍船170艘を白村江(錦江− クムガン河口)に配備した。

マンガによると

残念ですが、大敗北でした。百済のリーダーたちの意見の食い違いや、船の構造、作戦などが原因でした 。

炎上する倭の水軍


白村江で大敗した倭国水軍は、生き残った倭国軍および亡命を望む百済貴族を船に乗せ、唐・新羅水軍に 追われながらやっとのことで北九州に帰還した。倭国軍は大敗した。 自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。 筑紫には唐から郭務?ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭 国の首都だったからである。 天智天皇2年

663年
石川麻呂の死後、山田寺は建設が中断するが、天智天皇2年(663年)には塔の建設工事が再開されている 。 天智天皇2年


664年


朝廷から様々な改革案『甲子の宣』が出された 天智天皇3年

664年
「冠十九階」が「二十六階」に細分化される 天智天皇3年


666年
韓人(からひと) が300万人以上やってきた 666年に唐のアヌンナキと鮮卑は日本を征服し支配者に君臨 した 天智天皇5年

666年
朝鮮半島の高句麗(コグリョ)から外交使節が来日して日本の朝廷に依頼書を差し出した 天智天皇5年

666年
高麗の副使として天智天皇(第38代)に貢ぎ物を捧げている 天智天皇5年

666年
磐手杜神社が創建される 藤原鎌足の勧請により磐手杜神社が創建される創建祭神は武甕槌命天児屋根命.経津主命. 天智天皇5年(666)


668年


5月


5日
天智天皇(第38代)らは宮廷をあげ,蒲生野(がもうの)に「遊 猟(みかり)」をした 男達は鹿の角をもとめ女達は薬草狩りをしたとか。 天智天皇7年 (668年5月5日)

668年
天智天皇(第38代)の御代、新羅出身の僧侶、道行が草薙剣を盗み出したという記述がある


スサノオがヤマタノオロチを退治した時に剣が出て来た 皇室ではこれが3種の神器と呼ばれるようになる (画像下) その剣が草薙剣であり それがこの年に新羅出身の僧侶、道行に盗まれたと言う 天智天皇7年

668年
埼玉県日高市大字新堀833番地 朝廷は唐・新羅に滅ぼされた高句麗からの帰化人をこの地に移住させた。 高麗郡は入間郡内の西部の未開地に設けられた。現在の埼玉県日高市・飯能市一帯で、入間川を境界にし 北側の地域である。 天智天皇7年


669年


筑紫都督府が置かれた 同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限 を喪失した。 旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。 天智天皇8年


670年


日本という国名が見られるようになる 三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」と あるが、国内にはその記録がない。 天智天皇9年


671年


6月


10日
水時計を使用した最初の日、日本で初めて時計(漏刻)を使用した


近江神宮の漏刻(復元)

日本書紀には、「天智天皇10年4月25日の項に、漏刻(水時計のこと)を新しき台に置く。初めて候時を 打つ。鐘鼓を動す」とある。


4月25日はグレゴリオ(太陽の暦)換算6月10日にあたる

日本における最古の時報の記録 天智天皇10年 4月25日

671年
天智天皇(第38代)が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実 権を握った(壬申の乱)。

天武天皇(第40代)は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制 定などを行った。 日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。日本書紀の編 纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。 倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された 。

671年
天智天皇(第38代=46)の弟、大海人皇子は吉野離宮日雄殿にてご 修行されておりました 天智天皇10年


672年


1月


10日
天智天皇(第38代=46)崩御 天智天皇10年12月3日(672年1月7日)) 滋賀県

672年
天智天皇(第38代)の後継ぎ問題で壬申の乱が起こった 大海人皇子=天武天皇(第40代)は天智天皇(第38代=享年46)の弟ですが、天智天皇(第38代)の子である大友 皇子と天智天皇(第38代)の後継ぎをめぐって叔父の大海人皇子(天武天皇=第40代)との間に壬申の乱が 起こった。 大海人皇子=天武天皇(第40代)の勝者となりました。 天智天皇10年


673年


2月


27日
大海人皇子が即位し、第40代天皇・天武天皇となる 激闘の末に勝利を収めると、大海人皇子は天武天皇(第40代)として即位 神宮に厚い崇敬を寄せ、神宮の遷宮制を確立したいと願った。 天武天皇元年 2月27日

『日本書紀』は、天智天皇(第38代)と天武天皇は父母を同じにする兄弟で、天智(第38代)が天武の兄と書 いている 天武天皇(第40代)は、兄である天智天皇(第38代)の遺志をつぎ、中央集権国家の形成を推し進めた。


678年


「丈六仏像を鋳造」される 天武天皇7年


679年


筑紫で水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震が発生 筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる


681年
天武天皇(第40代)が国史編纂の詔を出した 後代に受け継がれ持統天皇(第41代=36歳=681年)⇒文武天皇(第42代)⇒元明天皇(第43代)を経て、712年に 「古事記」が完成します


684年


畿内で南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震が発 生

684年
記録上第一回目の「南海トラフ巨大地震」が起きる 「白鳳地震」記録上第一回目の「南海トラフ巨大地震」とされている。 二回目は877年の仁和地震


686年


9月
天武天皇(第40代)崩御 天武天皇(第40代)は病により崩御した
朱鳥1年 9月


10月
1日
持統(第41代天皇)が天武天皇(第40代)の代役をする この時、持統天皇(第41代天皇=41)が4年後に即位するまで正式に天皇はいなかったが (持統天皇元年)とされる 称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)

686年
大津皇子は謀反の嫌疑をかけられ、自殺 享年24歳 (持統天皇元年) 称制:朱鳥3年


689年


日本の高僧 良弁(ろうべん、りょうべん)生誕 (持統天皇3年) 称制:朱鳥3年


690年


持統天皇(第41代=45)即位の大嘗祭において、大麻製の麁服(あ らたえ)が調進される 持統天皇(第41代)が即位したのは、息子の草壁(くさかべ)皇子を亡くした後でした

第1回の式年遷宮が内宮で行われた


麁服(あたらえ=大麻素材で出来た*服装)

*着物のように見えるが、実際は長い大麻素材で出来た長い織物となっている

以来今生天皇においても、即位が行われるときにこの麁服が着用され威霊を体得される。 今生天皇の世代では明治天皇や昭和大正天皇が乗り移ってるかもしれない。

江戸時代はみんな天皇の真似をしてたようです

神宮のコメント 「悠久の時の中で執り行われるこの営みは神宮にとって永遠性を実現する大いなる営みでもあります。」 持統天皇4年 1月1日


691年


10月
6日
天智天皇(第38代)の第2皇子 川島皇子(かわしまのみこ)没 淡海朝臣・春原朝臣などの祖。 持統天皇5年 9月9日(691年10月6日)


694年


天武天皇(第40代)亡くなった後、天武天皇(第38代)の皇后・持統 天皇(第41代=49)が引き継ぎ、694年に藤原京へ遷都した。 持統天皇8年


699年
役小角 伊豆に流される 持統天皇13年


701年

1月


23日
遣唐使を任官。遣唐執節使は粟田真人(続日本紀)
粟田真人

大宝元年
正月 *1直大弐(従四位上)民部尚書に任ぜられ、あわせて遣唐執節使(大使よりも上位)に任命され、*2文武天皇から*3節刀を授けられた 。
*1当時の官職

*2文武天皇


*3
これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例という。

関連タイトル



此の月未確定日
*1役小角,伊豆大島に*2流されていたが赦される(『日本現報善悪霊異記』)

*1役小角

舒明天皇の6年に大和国に生まれ、幼くして聡明で、広く典籍を求め、教義に精通し、三宝(仏教、仏法僧)に帰依した。

*2島流し
*2文武天皇の2年、事実無根の訴えにあい、*2伊豆に流され、釈放されてからは京に戻り、修験道を開祖する。

後、大和の生駒山、紀伊の熊野山で苦行し、30歳の時、葛城山に登り、*3孔雀明王を安置して 修行した結果、神験を現す。
*3孔雀明王

仏教初期に成立した明王で、インドでは孔雀が猛毒の蛇を食すため、一切諸毒を除去する能力を神格化した。

*3孔雀明王のスカジャン



3月
27日
(文武天皇5年2月14日)
*1釈奠初見(続日本紀)

*1孔子を中心にして祀る儀式。孔子とともに周公や弟 子のうちのいわゆる「孔門の十哲」なども祀る。

+1孔子の御霊(又は孔子にまつわる続柄)を祀る儀式 釈奠
現在でも全国規模で行われている



4月
13日
(文武天皇5年3月1日)
大宝令の官位が施行される。中納言は廃止(続日本紀)


5月
3日
文武天皇5年3月21日)
改元して年号を大宝とする。


19日
(大宝元年4月7日)
下毛野古麻呂ら3人が親王・諸臣・百官人に大宝令の講義を始める(続 日本紀)


6月
17日
(大宝元年5月7日)
遣唐使の粟田真人が節刀を授かる(続日本紀)


7月
10日
(大宝元年6月1日)
道首名が僧尼令を大安寺で説く(続日本紀)


11日
(大宝元年6月2日)
はじめて内舎人を任じる(続日本紀)


17日
(大宝元年6月8日)
大宝令を施行(続日本紀)


9月
9日
(大宝元年8月3日)
藤原不比等によって大宝律令が完成(続日本紀)

藤原不比等
娘の宮子が文武天皇(軽皇子)と結婚したため外縁関係、(の親戚)として藤原家の権力基盤を築いた


大宝律令
唐に負けない法治国家を目指し、色々と苦労をしながら制定。

「律」6巻・「令」11巻全17巻。


内容は現存しないが珍しい制定を発見
解剖が穢れとして禁止された

唐を参考にした
唐(当時の中国)の律令を参考にしたと考えられている。日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な*1律令。

*1律は決まりごと、令は刑(罰則)(今まで律しかなかったが大宝律令によって令を伴い成立した)


唐では天皇が皇帝の存在で顕されている


14日
(大宝元年8月8日)
明法博士を西海道を除く六道に遣わして、大宝令を講義させる(続日 本紀)


(旧暦8/26)
大和王朝、高安城を廃城(続日本紀)


12月
11日
(大宝元年11月8日)
初めて造大幣司を任じ、弥努王と引田尓閇を長官とする(続日本 紀)


12日(大宝元年11月9日) - 弾正台に畿内を巡察させる(続日本紀)
701年
大宝元(701)年〜天平宝字4(760)年・続柄:聖武天皇皇后/(父)藤原不比等皇太子であった 首親王(聖武天皇)と結婚 光明皇后 生誕 大宝元年 持統天皇15年

701年
大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称された 九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。 この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が 列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。 こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 大宝元年 持統天皇15年

701年
持統天皇(第41代=54)紀伊國へ行幸 詩を詠われた 大宝元年 持統天皇15年

701年
大宝律令が出来た//font> 唐と対等に外交ができる自信が出来たのをきっかけとして、そのほ か様々な技術をや文化を取り入れていきます。 大宝元年 持統天皇15年


702年


持統天皇が崩御された
夫、天武天皇(686年歿)の陵に葬られた
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持統天皇


702年
文武天皇(持統天皇の孫)の病を治したとされる利修仙人によって鳳来寺が開山(標高695m)された
本尊は薬師如来(薬師瑠璃光如来、大医王仏)
病を治療された文武天皇



703年


1月
13日
持統天皇(第41代=58)は、天皇として初めて火葬され、夫、天 武天皇(=第40代=686年歿)の陵に葬られた


天武・持統夫婦天皇陵があった 奈良県高市郡明日香村 大宝3年12月22日(703年1月13日) 持統天皇17年

703年
壷阪寺 創建 持統天皇(第41代)が火葬されたのと同じ年らしい 持統天皇17年 大宝3年


巨大な天竺渡来大観音石像 壷阪寺の代名詞とされています 眼病封じ のお寺として、めがね供養会などがある 壺坂霊験記の舞台となったお寺でもある

「壺坂霊験記」(つぼさかれいげんき)は、 盲人とその妻の夫婦愛 を描いた世話物。


壷坂霊験記


706年
「法起寺塔露盤銘」が作られた

706年
指宿神社が創建された 慶雲3年 薩摩藩の代々の藩主の崇敬が篤かった


707年
文武天皇 崩御

707年
元明天皇 即位 平城京に都を遷し *1和同開珎を普及させる
*1


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歴代記念硬貨特集


ちなみにこれはモノホンと言われる*1和同開珎(249800円)




708年


禁書についての詔勅が出された 日本書紀の編纂と平行して、それと矛盾する歴史書は全て廃棄され た。 その後も、戦国時代と明治維新直後に大量の古文献が失われた。







Last updated  2018.04.21 15:03:00
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