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1602年


4月


2日
(慶長7年3月7日)
徳川家康の 10男 頼宣 生誕

徳川頼宣


幼名長福丸



1603年


徳川家康(60)が将軍となる

歴代徳川将軍たち
業績と名前を覚える(覚えかた)



徳川家家紋充電バッテリー(アダプター付き)




1604年


3月
家康(61) 温泉へ
家康の湯

徳川家康(61) 熱海温泉家康(61)は2人の子供、義直、頼宣を連れて熱海に7日間滞在、本陣今井半太夫の湯亭に逗留した
熱海の大湯まんじゅう10個 1セット



1個から食べれるタイプ



浮世絵江戸風バスタオル




8月


12日
(慶長9年7月17日)

徳川家光 出生

(徳川家康の孫)徳川幕府を事実上築いた人
家光


家光は男に興味を持つ(男色)傾向があった


ホルモンガーでも呑んだのか?


家光の父 家忠(28)


女に興味なかった家光は世継ぎがなく
それに困った局はお振(おふる)という女(大奥)に男の格好をさせ、第一子が産まれた

オカマキャラがよく使っている医療大麻CBDオイル(実は大麻は徳川認定品だった(家康の御用達、、、、と言うよりは天皇家の18番=お祭りかよ!))




1604年


松前藩が家康(61)から蝦夷(えぞ=北海道)との交易権を得る

松前藩(まつまえはん)は、徳川家康(61)から蝦夷(えぞ)のアイヌ民族との交易(こうえき)の独占権 をえた

「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、これを破る者は松前藩の手で処刑し てもよい」

というお墨付きの独占権を得た

松前藩の観光解説動画
今でこそ観光地になっているが...




1607年


5月


6日
朝鮮から初めての通信使が日本へ来る 慶長12年 6月29日(5月6日)


江戸時代に入って初めての通信使が江戸幕府に派遣された

江戸城内(三の丸)で陶器や虎の皮等の礼単(進物)を準備する朝鮮通信使(江戸図屏風より)



家康(64) 生薬の研究に精通する 本草綱目(作者=李時珍1518年〜1593年)や和剤局方を読破



和剤局方 江戸時代に日本で何度も再版された本である この本から多くの漢方処方が考案され、今でも一般薬では多数の医薬品が残っている。 在江户时代和剂局方是几次被再版了的一册。 很多的中药处方被参考是由这本、时至今日、在一般药多数被收存着作为医药的

薬師如来と徳川家康(64) 東照大権現の本地仏が薬師如来なのも家康の健康志向を示している


1611年


大麻が徳川幕府の御用達品として認定される


大麻で作られた繊維

(徳川美術館)


麻薬と言われている大麻だが最近ではインターネット通販でオイル 製品が手頃に買えるようになった。
*1家康薬草(漢方薬)みたいに研究していたようです
現在*3誰でも買えるよう厚労省が許可しているものもある

*1関連リンク
黒田官兵衛、目薬を販売

*1家康の盟友黒田官兵衛は医療大麻の副作用用に目薬を作って、神社でそれを売っていました

*3医療大麻オイル 堂々と販売中





1613年


12月


1日
イギリス東インド会社が商館の設置を許可された

イギリス 貿易を許され、平戸に商館を構えた1613年 イギリス商館(イギリスしょうかん)とは、江戸時代初期(1613年−1623年)にイギリス東インド会社 が設置した商館です。

アダムスが平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。


1613年12月1日付け


1614年


有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した

転封
幕府の命令で、大名の領地を他に移すこと
松倉重政


重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を 新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。
慶長19年

1614年
大阪冬の陣の流れ


大坂の陣は、江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦。慶長19年の大坂冬の陣と、慶長20年の大坂夏の陣 から成る。大坂の役とも呼ばれる。



11月


15日
徳川家康(71)・秀忠(35)、京都から大坂へ出陣


徳川家康(71) 大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となった 冬の陣では真田信繁は真田丸を構築して徳川勢を打ちのめしましたが、停戦の時の条件で真田丸と外堀は 破壊されてしまいます。


11月


26日
鴫野の戦い



12月


2日
真田勢の鉄砲隊が前田利常を狙撃

前田利常は塹壕を掘り土塁を築くようにと命令を受けて、塹壕の構築を開始すると、真田丸の前方にある 篠山と呼ばれる丘から、真田勢の鉄砲隊が狙撃して妨害。


「秀頼に落とされ死んだ」大坂の陣、オランダで新文書


家康(71) 大阪冬の陣で豊富秀頼(秀吉の子)と戦ったがしばらくして仲直りした


1615年


大坂夏の陣では真田信繁幸村の本陣となった


5月


6日
道明寺の戦い

午後 拡大 大坂夏の陣・道明寺合戦は、午前4時 小松山の戦いに始まって、午後4時、誉田の戦いが終わるまでの12時間の戦いです。

この戦いで伊達正宗の騎馬鉄砲隊は活躍した。徳川家康(72)の要請を受け出陣した政宗は、後藤基次、薄田兼相らの豊臣軍の 主力部隊を撃破した。

討死者
豊富方 後藤又兵衛、薄田兼相(隼人) 徳川方 奥田忠次 ほか討ち取った首が『93』と記録されている


後藤又兵衛の墓


「後藤又兵衛 討死」詳細に 秀頼へ報告、部下がメモ 大坂の陣

道明寺付近の戦に遅れて到着した真田幸村は、後藤又兵衛の死を救うことが出来ず 伊達政宗隊との戦に突入する。
しかし、城内よりの退去命令に従う。
この『道明寺の戦い』は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために 行われたもので、この時、大阪城の外堀は、既に埋められていたため、豊臣軍は、 城を出ての戦いを余儀なくされました。

徳川家康(72)は大坂夏の陣で後藤又兵衛に討ち取られた?南宗寺に残る伝承の謎




7日
天王寺口の戦い 真田幸村(本名は信繁)の本陣として、茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)が繰り広げられました。天王寺 口の戦いは、夏の陣の最終決戦になった。岡山口の戦いとほぼ同時刻である正午頃に始まった。

徳川方に進軍を許した豊臣方は不利な戦況になった

豊臣勢は前日の戦いで、後藤又兵衛・木村重成・薄田兼相・塙直之など多数の勇将を失い、 又長宗我部盛親は前日の八尾の戦いでの負傷のため、大阪城に詰めている。

茶臼山の中腹にある、天王寺の戦い
右が北になっています。



浅野家 夏の陣の天王寺口の戦いで、家康本陣に突撃した真田隊の作戦で寝返り呼ばわりされて、東軍を大混乱さ せてしまった

大坂方は希望の星だった真田信?はじめ多くの討死者を出して敗退。


幸村隊の「赤備え」(上田真田まつりで鉄砲隊が着用)

家康本陣に遅いかかる幸村。左端、おののいているのが家康


豊臣勢は全力で駆け巡って戦った為、やがて疲労困憊となり、真田幸村も三度の突撃の後、13の傷を受け 疲労のため動けず、安居天神にて休憩していたところを簡単に討ち取られた

真田幸村散り 大坂城落城 豊臣家滅亡へ 江戸幕府が豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした 討死 本多忠朝、小笠原忠脩、真田幸村、真田大助(幸村長男)

1615年
一国一城令により、一度は廃城となった


1616年


6月


1日
徳川家康(73) 死去 元和2年4月17日(1616年6月1日)73歳没

1616年
豊臣家滅亡後、大阪城主となった松平忠明が東照宮を天満に建 設 建設の際、中村勘助が造営係となり、用地に住んでいた住民を先に開発した姫島に円満移転させる 在豊臣家滅亡之后、松平忠明握主权了是大阪城、然后他建东照宫于天满之际、中村勘助被任了是建筑天满 地域作为地域建筑员、他首先对在先(所居)的人们、让预先移动至姫島

1616年
有田焼が作られた 陶祖、 李参平によって日本で最初に陶磁器が作られたとされる場所 佐賀県・有田

1616年
高根商店 ヤマサと並ぶ銚子の2大醤油メーカー。 元和2年に田中玄蕃が創業


1623年


元和9年(1623年)冬、ポルトガル人宣教師ガルヴァリヨ神父他8名の日本人キリシタンは奥羽山脈に潜伏中 捕らえられ、仙台に護送された。

1623年
アン ボイナ事件以後、イギリス撤退した


1624年


スペイン船の来航禁止

1624年
オランダ東インド会社から贈られた回転灯籠



1627年


加藤嘉明公が新しい街道として整備した

↑秀吉に仕えた加藤嘉明 海戦も陸戦も得意だった

賤ヶ岳七本槍の一人として有名であった


賤ヶ岳の七本槍↓


秀吉が柴田勝家と争った賤ヶ岳合戦

で「七本槍」として活躍し、のちに伊予松山20万石の城主となった加藤嘉明 賤ヶ岳合戦(1583年4月)

伊予松山城(愛媛県松山市)

松山城は今から約400年前、賤ヶ兵七本槍で名高い加藤嘉明が慶長7年(1602)に築城に着手し、 25年の歳月をかけて寛永4年(1627 )に完成した

伊予松山城 連立式天守

伊予松山城本丸と 本壇天守


伊予松山城鳥瞰図で天守は、5層である

から加藤嘉明時代20万石・蒲生忠知24万石・松平定行15 万石時代の伊予松山城である。

松山城は百数十メートルの山の上に建つ城です。市内のどこからでも見上げることができます。 リフト乗 り場で築城者の加藤嘉明像を写真に収めて登城(リフトで)。


1629年


12月


22日
明正天皇(第109代) 即位


寛永6年11月8日(1629年12月22日) 幼名は女一宮、諱は興子(おきこ)。

寛永七年の明正天皇(第109代)の即位式。上に群居しているのは一般庶民です。わかりにくいですが女性子 供もいます。紫宸殿のすぐ横まで近づいて拝観が許されていた

母方の祖父に徳川秀忠、伯父に徳川家光がいる 称徳天皇(第48代)以来859年ぶりに女帝(女性天皇)が誕生した。


1632年


3月


14日
徳川秀忠(53) 死去 徳川家康3男 3月14日, 江戸


1630年


木津勘助は本名は中村勘助といいたびたび氾濫していた木津川を浚渫し、水害を防いだ功績が認められ、 市中川浚い御用係に任命されているが、この頃から木津勘助と呼ばれるようになった


1635年


鎖国令

1635年
海外渡航と在外日本人の帰国禁止


1637年


12月


11日
島原の乱 有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害 ここに島原の乱が勃発する 寛永14年10月25日(1637年12月11日)

徳川幕府を支援したオランダ東インド会社は、宿敵ポルトガルの追い落としに成功します。オランダ東イ ンド会社の総督は、アベルタスマンを南方に派遣した同じバンディーメンズです。


1639年


幕府は,キリスト教の影響を防ぐためにポルトガル船の来航を 禁止した


1641年


大洪水がおこる 日照りと大洪水が重なって全国的な大飢饉が起こり、大阪でも餓死者が続出する中、木津勘助は数百人の 手下を引き連れて福岡黒田藩の米蔵を飢える農民を救うために幕府の米蔵を

それでも足らないということで、 命がけで大坂城の備蓄米の「お蔵破り」を決行して、 飢饉に苦しむ人 々を救済したのだそうです。

木津勘助はその後「お蔵破り」の罪で

当時の大坂町奉行久貝因幡守は、幕府直轄の蔵米でなく外様の黒田藩が天王寺屋に売った後の米であった ため、木津勘助が飢饉で飢えた市民を救済したことを内心喜んでいた 寛永18年


1644年


松尾芭蕉(0) 生誕 寛永21年


1645年


池田輝政の播磨統治を経て矢野荘は浅野赤穂藩領になる。


1646年


2月


23日
徳川綱吉(0)=第五代徳川将軍 生誕 3代将軍・徳川家光の四男 江戸城に生まれる。幼名は徳松(とくまつ) 正保3年1月8日(1646年2月23日) (江戸(=東京))


1650年


6月


5日
徳川義直(=家康の子) 死没
1651年
家光没、4代将軍・家綱就任



1653年
近松門左衛門歌舞伎で活躍 江戸時代のはじめ 浄瑠璃・歌舞伎 作者として活躍した

1653年
片山津温泉 開泉


1655年


9月


5日
吉田勘兵衛が新田開発に乗り入れる 江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行いま す。 明暦2年7月17日 1656年9月5日 (江戸・東京)


1659年


大石内蔵助良雄(0) 誕生


1666年


寛文6年の江戸図

寛文6年 (江戸・東京)


1667年


9月


28日
浅野長矩(0) 生誕 浅野長友長男として江戸鉄砲洲=現東京都中央区明石町=浅野家上屋敷=現在聖路加国際大学がある場所に おいて生まれる。 寛文7年8月11日(1667年9月28日) (江戸・東京)


1669年
9月
シャクシャインの戦い





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Last updated  2018.04.22 18:12:08
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