200年~573年
紀元前
紀元前9000年~紀元前2000年
紀元前1999年~紀元前660年
紀元前659年〜紀元前149年
紀元前148年〜紀元前1年
西暦
1年~199年☆200年~573年☆574年~709年☆710年~780年☆781年~899年☆900年~1332年☆1333年~1361年☆1362年☆1363年~1599年☆1600年~1670年☆1671年~1799年☆1800年~1867年☆1868年~1879年☆1880年~1909年☆1910年~1930年☆1931年~1947年☆1948年☆1949年~1959年☆1960年~1962年☆1963年 1964年 1965年~1979年
1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 ☆1995年~1999年☆2000年 2001年 2002年☆2003年~2008年☆2009年~2011年☆2012年☆2013年~2014年☆2015年 2016年 2017年 2018年
200年
2月
6日
仲哀天皇が崩御
田油津姫の蜘蛛の巣の罠に馬が脚を取られ転倒
更には裏切り者により手綱
や弓の弦には、切り込み線が入れられていた
その落下地点には無数の剣山の落とし穴があり長槍を失う また、炎と毒の煙で体力を失った
そこに100人もの兵が仲哀天皇に無慈悲に毒矢を射つ
皇軍は炎の罠にかかり仲哀天皇をバックアップ出来ず、熊襲討伐の途中、仲哀天皇は死にもの狂いで熊襲軍を討つが道半ばで毒矢が体に回り、力尽きたところを首謀者にとどめを刺されて死んでしまった 52歳だった
妻の神功皇后も絶対絶命の危機を迎える
仲哀天皇を討ちとり勢いに乗った熊襲は皇軍に突進する
皇后は先帝の墓の改築と増強を条件に神頼み(願掛け)をした
古墳が、神功皇后の時代に一斉に出現したのは、これが原因だった
12月
14日
応神天皇(第15代)生誕
仲哀天皇9年12月14日
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3月
25日
神功皇后 仲哀天皇に代わって 土蜘蛛田油津姫を討つ
土蜘蛛とは上古から天皇に恭順しなかった豪族
田油津媛(たぶらつひめ)は日本書紀によれば山門郡に居たとされる土蜘蛛。仲哀9年3月丙申(200 年3月25日)神功皇后により誅殺されたとされる。
福岡県みやま市の老松神社には、田油津媛(葛築目)を葬った蜘蛛塚(旧称女王塚)とよばれる古墳が残されて いる。雨が降ると古墳から血が流れるという言い伝えがある
応神天皇
応神天皇の名前の由来
*1応神天皇の本名は分からないが、*1応神天皇が産まれた時、腕の肉の腫具合ががほむたにそっくりだったから 別称では*2ほむたわけのみこと【誉田別命/品陀和気命】と呼ばれている
*2ほむた
天皇になるまで長かった
3歳で皇太子になったが天皇になったのは71歳だった
父仲哀天皇が*3崩御した後、母親の神功皇后が天皇の実効権を68年間執していた(応神天皇が49歳のとき皇后は応神天皇に政権を譲る予定だったが不吉が続いたので撤回した)ので皇后が崩御するまでの期間中、応神天皇はずっと皇太子のままだった
武内宿禰は応神天皇(第15代)を抱く
応神天皇が身ごもっていた
朝鮮半島(新羅、百済、高句麗)を攻めたとされている神功皇后
が、朝鮮に赴いたとき胎内に宿していたのがこの応神天皇(第15 代)
201年
神功皇后=仲哀天皇=第14代の妻=政事を執り行なった 仲哀天皇(14代)=急死=仲哀天皇9年(200年)の後神功皇后が201年から269年まで=政事を執り行なった。
204年
古墳時代=幕開けが告げられる 公孫康は「韓」と「ワイ」を伐つ。韓と倭が公孫氏の属国となり、追われて日本列島へ逃げた人々の一部 は奈良県に入る=纒向遺跡を築く。 韓半島からきた倭国=古代加耶国が建てた九州王朝
纒向遺跡全景
纒向(まきむくと読む)
「庄内式土器」がもたらされる=古墳時代」の幕開けである。
公孫康(イメージ) 公孫 康=中国後漢末期=三国時代=群雄=幽州遼東郡襄平県の人。 家系=公孫氏 父=公孫度 弟=公孫恭 子=公孫晃・公孫 建安9年=父の後を継いぐ=太守となった 同年=楽浪郡18城の南半分=屯有県以南を裂いて帯方郡=設置=韓や倭まで勢力を広げた
卑弥呼はどんな人物か
大きな宮殿に住んでいた
1000人の待女を従えて身の回りの世話をさせていた
弟がいた
独身
あまり人前に出ず、宮殿でひっそりと暮らしていた
巫女だった
死んだとき家来100人ほど一緒に殉死(殉葬)させた(悲鳴わ喚きながら生き埋めになった者もいた→動物たちがその死体を漁りにやってきた)
日本書紀にも古事記にも邪馬台国のことは何も書かれていない
↓
神功皇后の書記されてる部分があった
(詳細未編集)
「卑弥呼」=朝鮮半島南部=「倭国」の中→「卑弥国」出自 卑弥呼=「卑弥国(卑弥氏)の出自で名を呼という 卑弥呼 220年〜230年頃=公孫氏に追われて北部九州に逃げて来た=邪馬壹国(福岡市南区〜小郡市)を建国する
伊都国王朝と戦い
勝利=景初二年=238年=朝貢し=「倭王」となる→日本列島に初めて=倭国=誕生
*卑弥呼の墓=福岡県小郡市=「津古生掛古墳」である。
狗奴国=その南の甘木市=朝倉郡にある
*
*卑弥呼の墓と言われている箸墓古墳入口=宮内庁情報
220年〜230年頃
=朝鮮半島=蔚山ウルサン=饒速日命→奈良県桜井市に渡来。 長髄彦の娘を娶る→宇摩志麻治命を生む。 ホケノ山古墳=饒速日命の墓である *長髄彦=纒向遺跡王→箸墓古墳=長髄彦の墓である=ユーザー情報
=卑弥呼墓 =ユーザー情報=福岡 =宮内庁情報=奈良 →2つの説がある
239年
6月
卑弥呼=難升米(なしめ)を朝鮮半島→帯方郡へ遣わせた 6月
*西暦238年=景初3年との記載もある
239年
魏志倭人伝=卑弥呼=魏国の洛陽で銅鏡100枚もらった
今まで洛陽辺りで三角縁神獣鏡は発見されていなかった
239年
邪馬台国=九州北部=卑弥呼→中国に大麻の布を贈る
狗奴国=男王卑弥弓→対立←邪馬台国 この戦いの最中=卑弥呼=死去
240年
卑弥呼=死後=男王が君臨=→混乱がおき争いが絶えなくなった 卑弥呼の親族=壹與=13才=女王になる 卑弥呼=太陽神ウツ→信仰していた
247年
卑弥呼は男王に殺害された(多数説あり)
卑弥呼は仲哀天皇の2番目の后
250年頃
ヤマト王権が成立する
2:22~
埴輪(はにわ)
西暦4年7月参照
4:53~
氏姓制度を定める
蘇我
物部
まず血縁同士(グループ)を作って氏姓を授け、それぞれ役割を定着させた
これら豪族と大王(今でいう天皇)の連立政権になっていた
奈良盆地地帯を昔からヤマトと呼んでいた
今でこそ日本全体を指すが中心部は奈良盆地にあった
奈良盆地
周りが山々に囲まれている地帯
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260年頃
伊都国王朝=邪馬壹国=倭国=との戦い=敗れる 王(神武天皇の父)=「伊都国=伊勢=斯馬国=志摩=伊勢志摩の人々を率いて永住地を求め三重県まで来る 。
伊賀で先住民と戦い→戦死=伊都国王=伊勢国の王=が埋葬された地==="伊勢神宮"となる
伊都国=伊勢・斯馬国=志摩=の人々→住み着いたところ=今の"伊勢志摩"である
265年頃
五瀬命=神武天皇→長兄=伊都国の人々を連れ→永住地を求め る=東へ逃げる
五瀬命
神武東征=逃亡 五瀬命=伊都国の太子=名を瀬という (イツコクの太子)
大阪=河内湖=長髄彦と戦い=戦死→和歌山市に埋葬される
長髄彦
他の二人の兄も=戦死する 神武天皇=和歌山県海南市=熊野=に来る。 そこから内陸に→貴志川を下り→紀ノ川に出る紀ノ川の支流の丹生川=一時建国=紀伊国伊都郡になる。
紀伊国
吉野川を遡り→宇陀に出る=宇陀郡菟田野町=見田・大沢古墳群=四号墳=三種の神器→出土==天孫降臨=伊 都国の神器=である。
鏡は絹に包まれていた 絹を生産=北部九州だけである 見田・大沢四号墳=神武東征=逃亡=史実立証しているという
神武天皇=纒向遺跡の王=長髄彦と戦う=苦戦する このとき宇摩志麻治命→長髄彦を殺して→神武天皇に帰順する。
宇摩志麻治命
神武天皇=纒向遺跡を支配→畿内を統一 神武天皇の墓=桜井茶臼山古墳である。
桜井茶臼山古墳=奈良県桜井市の市街地
269年
1月
1日
第15代天皇 応神天皇(第15代) 即位 応神天皇元年1月1日 69歳
仲哀帝(第14代)の御子応神天皇(第15代)也 御母は神功皇后也御誕生の時白幡四つ赤幡四つ天より降るが故 に八幡と号す本地弥陀
283年
弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏し援軍を求めた。 応神天皇14年
289年
9月
(第15代)応神天皇20年、皇紀949年)9月には、倭漢直(やまとのあや・のあたい)の祖である阿知使主 (あちのおみ)が帰化している。
291年
3月
14日
天皇妃の兄媛(えひめ)を吉備に帰郷させたとあるが、同条ではこの兄媛を吉備臣祖の御友別の妹と記し ている 応神天皇22年3月14日
9月
6日
応神天皇(第15代)22年 天皇が淡路島へ狩りに出られ、ついで吉備の国へ、そして小豆島に遊び給い、吉備 の葉田葦守宮(岡山市足守付近か)に行幸した。
吉備の葦守宮
天皇行幸の知らせは、吉備の豪族である吉備御友別(きびの・みともわけ)の耳にも届き、彼はすぐさま 行宮に参上。その際、御友別は兄弟子孫を膳夫(調理人)として奉仕させた。 その功により、天皇は吉備国を割いて御友別子孫を次のように封じた 応神天皇22年9月6日
吉備一族は応神天皇(第15代)から地域を受け給うた
長子の稲速別 川島県に封ず。下道臣祖。川島県はのちの備中国浅口郡に比定。
中子の仲彦 上道県に封ず。上道臣祖・ 香屋臣祖。上道県はのちの備前国上道郡に比定。
弟彦 三野県に封ず。三野臣祖。三野県はのちの備前国御野郡に比定。
弟の鴨別 波区芸県に封ず。笠臣祖。波区芸県はのちの比定地未詳(笠岡市付近か)。
兄の浦凝別 苑県に封ず。苑臣祖。苑県はのちの備中国下道郡曾能郷か。
兄媛 織部を賜う。
そして、こうした縁で彼らの子孫は今も吉備国にいると記している
吉備制圧吉備は葛城・日向(隼人)らと共に、応神 王朝成立に最も力を貸した勢力であった。
応神天皇(第15代)逸話 内乱の歳に熊本にお隠れになった
吉備地域を治めた諸氏族、すなわち下道臣・上道臣・ 香屋臣・三野臣・笠臣・苑臣
「応神天皇(第15代)が吉備で饗応された際に、吉備一族が5つの県に封じられた」というのがあるそうで す。 全国4番目の規模を誇る巨大前方後円墳。吉備の大首長の墓と考えられるそうですね。 被葬者は応神天皇 (第15代)である、という説も
300年
奈良盆地に大規模な前方後円墳が出
310年
2月
15日
応神天皇(第15代) 崩御 109歳 応神天皇41年2月15日
312年
1月
3日
仁徳天皇(第16代) 即位 仁徳天皇元年1月3日
399年
1月
16日
仁徳天皇(第16代) 崩御 仁徳天皇87年1月16日
399年
大和政権 百済と手を組む 新羅を再び破る
400年
古代吉備国 応神(第15代)天皇稜? 西暦400年初頭の頃(1600年前)金属や午が半島から来た日本書紀には 「5世紀初め、応神天皇が吉備の国を5つに分け、ここに住む5人の兄弟や子供に分け与えた」とある。 吉備真備は、 その中の一人が「下道氏」の名のもとで
410年
2月
12日
反正天皇 崩御(第18代) 2月12日 大阪府 松原市
418年
雄略天皇(第21代)生誕
450年
4月
25日
顕宗天皇(第23代)生誕 允恭天皇3年 4月25日
453年
2月
8日
允恭天皇(第19代)崩御 2月8日
456年
8月
9日
安康天皇(第20代)崩御 8月9日
479年
8月
7日
雄略天皇(第21代)崩御 雄略天皇(第21代)の妃吉備稚媛(きびのわかひめ)には、星川と磐城という二人の皇子がいた。清寧天皇( 第22代)とは異母兄である
8月7日, 奈良県 桜井市
479年
星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ) 死去 雄略天皇(第21代)と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子で、磐城皇子の弟。 雄略天皇(第21代)の死後に反乱を起こしたという。 この星川王子の謀反に乗じて、岡山県より吉備の軍隊が海上を攻めのぼったが、 「大連・大伴室屋(おお とものむろや)」によって成敗された。
480年
清寧天皇(第22代)即位 生まれながらの白髪だった。 子供の無かった清寧天皇(第22代)は皇統の絶えるのを恐れていた
484年
1月
16日
清寧天皇(第22代) 崩御 崩御した清寧天皇(第22代)は、河内坂門原陵(かわちのさかとのはらのみささぎ)に葬られた。 清寧天皇5年 1月16日, 奈良県 桜井市
484年
顕宗天皇(第23代)即位
487年
6月
2日
顕宗天皇(第23代)崩御 顕宗天皇3年 4月25日(487年6月2日), 飛鳥 在位3年で崩御
498年
8月
8日
仁賢天皇(第24代)崩御 顕宗天皇(第23代)兄の億計王が24代仁賢 天皇となる。 8月8日,奈良県 天理市
498年
始平公造像記(しへいこうぞうぞうき):北魏・太和22(498)年 。高僧の比丘慧成が亡き父の始平公のた めに釈迦像一体を造って供養したもの。 アメリカにとって竹内文書は在ってはいけないものなので空襲で焼かれました。 履中天皇、反正天皇(第18代)が守ってきた死海文書が竹内文書です。 アメリカの罠にかかって空襲で焼か れてしまいました。 マホメットは皇祖皇太神宮で学びコーランを書いたのです。 竹内文書は死海文書だったということの意味 です。
500年
中国から仏教と共に針治療が伝来
507年
1月
7日
武烈天皇(第25代)崩御 1月7日, 奈良県 桜井市
531年
3月
10日
継体天皇(第26代) 崩御
継体天皇(第26代)は応神天皇(第15代天皇)の弟である 3月10日
536年
1月
15日
安閑天皇(第27代) 崩御1月15日, 奈良県 橿原市 安閑天皇4年 12月17日(536年1月15日)
536年
宣化天皇(第28代)即位 宣化天皇元年 12月 (536年1月)
539年
3月
15日
宣化天皇(第28代) 崩御 宣化天皇4年 2月10日 (539年3月15日)
12月
30日
欽明天皇(第29代) 即位 宣化天皇4年12月5日(539年12月30日)
552年
仏教が伝来した (第29代)欽明天皇13年、百済の聖明王によって仏教が日本に伝えられたとされる
欽明天皇13年
568年
大神 比義(おおみわ ひぎ)が、宇佐に下向 世界動向 ランゴバルド王国が 北イタリアに建国
571年
4月
15日
欽明天皇(第29代) 崩御 欽明天皇32年(571年4月15日)