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カテゴリ:独り言
大学受験で勉強に励んだ理由は「親を喜ばせたい=喜ばせることのできる存在と認めて欲しい」「女性でも自分で生きていける力をつけたい」ということが主たる原因だったと思います。
大学も、合格を聞いたときには「私のような人間がこの大学に受かってしまうようでは、日本は人材不足なんだな・・・将来の日本は大丈夫なのかな。」と思いました。 自分は価値がないと思っているから、価値のあると考える大学に入れることはおかしいと考えてしまう。 つまり、自己肯定感の欠如がベースにあるわけです。 男の子ではない自分。母を喜ばせられない自分。 存在が肯定されないから行動で評価されるしかない。 でもね、欲しいのは、評価ではなく存在の肯定であることに気づかず、代償行為を行っている以上、どれだけ評価されても満たされないんです。 ただ、母にあなたが生まれて嬉しかったと言って欲しかっただけなのに。 その時点では、それに気がつくこともなく。 大学で、訳あって母の愛を追い求める彼に対し、母親に与えられるはずであった愛情を私が与えてあげれば、今からでもこの人は満たされるのではないかと、世話を焼き、諌め、慈しみました。これは純粋に彼のために行った行為ではないことが今ではわかります。「弟に対して世話を焼くことで自分の存在を母に認めてもらってきた長年の行動パターン」から、彼に対して世話を焼くことで安心し、評価されようとした部分も大きかったと思います。こうして、いわゆる、共依存の状態が作られていったわけです。 彼は甘えることで、私は頼られることで安心感を得ていました。 卒業したら結婚しようと言った彼は、一滴も貯金をせず、私はアルバイトを沢山入れながら質素に暮らし、在学中に数百万を貯めました。この時点で彼を情けなく思うべきだったのでしょうけれど、当時の私には、そんな彼を養ってあげることが自分の役目だと思っていました。 そして卒業を控え、卒業後に結婚したいと言った私は、彼を頼りなく思った両親の大反対にあい、駆け落ち同然で結婚することになりました。 しかし、本来、男性が女性を求め、女性が男性を求める関係とは異なり、彼は母を求め、私は世話する人を求めていた。こんな不健全な関係は、いつかは崩れるべきものだったんです。 さらに続きます お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年02月06日 23時27分05秒
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