九鬼周造「回想のアンリ・ベルクソン」
九鬼周造「回想のアンリ・ベルクソン」九鬼周造全集第5巻、岩波書店、1981年、135-141頁ベルクソンはコレジ・ド・フランスの講義もそうであったというが、一句一句短く切って非常にはっきりした物の言いかたで、従来の研究の径路を詳細に話してくれた。(136頁)ベルクソンの哲学が神秘説であるという批評を持ち出すと、やや不服そうな顔つきをして反駁をした。神秘説という言葉はいろいろ任意な内容をあたえれば、どうにでも云えるが、普通はまず神秘説とは実証科学を排斥する意味になる。その意味では自分の哲学は決して神秘説ではない。『形而上学入門』のなかに「哲学とは人間的状態を超越するための努力にほかならない」という言葉があったではありませんかと云うと、それは人間の通常用いる悟性によらない直観というだけの意味であって、神性には関係はないという答であった。ベルクソンは神秘説ということをキリスト教的神秘説という風に狭義に解して、それにたいしてしきりに反駁するのであった。もっとも自分の哲学が神秘説へ行く傾向を有っていることは事実であるというような認めかたをした。(137頁)ベルクソンの哲学はいろいろと批判の対象となるが、弟子のペギーがベルクソンにかんして実に適切なことを言っている。「なに一つ反対して言うことのない哲学が偉大な哲学なのではない。なにかを言った哲学が偉大なのである」と。ベルクソンのような哲学の傾向は、ギリシアの昔から無いことはない。ヘラクレイトスやプロチヌスはよく引合に出される。ベルクソン哲学をどう思うかと聞かれた時、タゴールは、印度では往古からこの哲学を有っていると答えたといういうことである。ドイツ人はシェリングやショーペンハウエルを出して来るであろう。しかし、言うべきことをベルクソンほどはっきり言った人は古来なかったと云えよう。そうして、二十世紀の後半は未だ解らぬとしても、二十世紀の前半が生んだ世界最大の哲学者だということは恐らく誰も異論はなかろうと思う。(141頁)