スチュワデスが呆れたドクタートヒモイ公式げすとはうす ~世界は基本的に広い~んですけど・・

インド 瀟洒な男

憧憬の男

瀟洒な体。
濃厚でありながら、元気のない澱んだ風を顔と腕に直接浴びながら、ほとんど変化のない裸体の大地の風景を眺めながら、特に思いを漂わすこともなく、ただ時刻が確実に刻まれて通過していくのを惜しげもなく垂れ流していた頃の出来事。いや、出来事といった大層なものでもなく、ただ気分が落ちて行くように、身体が自動的にインド亜大陸を滑稽にも何かに引っかかりながら回転しつつ南下していくだけだった。

インドに対して、幻想より現実で埋め尽くされていた。現実は暑いものだった。暑さに打ちのめされながら自分というものが運ばれていくことが、今となっては幻想と思う。羨むことでも恨むことでもなかった。薄れた記憶が想像と融合し、全く別の世界を構築しつつある。忠実に過去を辿ることは不可能だ。あるのは物語りだけだった。それは、それでよかった。
そのとき、褐色の土と瓦礫を見ていた。インドはソイル(土)だ。何時間も何時間も列車は走りつづける程に、単調さは延長され堆積されていった。力いっぱい否定を続けようが、巡りめぐって肯定が出現する。単調さは催眠であり、肯定であった。風景はソイルのまま。何時間走ろうと、何時間前と同じ風景。もう肯定するしかない、というあきらめ。

板張りの三等寝台車に、足を投げ出して、埃まみれになりながら、風景の単調さの合間に、車内で繰り広げられる、チャイを売る男や、ひたすら風景を眺めるサリーの女や、隣り合わせただけで、談義を止めそうにないおやっさん達にその話に加わろうと懸命の努力をする珍しく痩せたシク教徒の男を、何気なく眺めるが、その風景も単調さに加えられていってしまう。風景に反し、私の頭の中は混泥していく。整理できないのではなく、整理する気持ちがさらさら生まれてこないのだ。整理することにパワーを酷使させる必要などなかったのだが、気分は、この暑さと体の移動という惰性が妙な安定を導いていた。私は、それは、それでよかった。

汽笛がやたらひつこくヒステリックに何度も鳴りだし、人々を苛立たせた。苛立ちの方向は皆バラバラのようであったが、パワーは増進されていった。が、人々は、尚、我慢している様であった。汽笛の終了はタイミングがよかった。負のパワーはいったん収斂された。その後、苛立ちは、徐々に遅くなっていく列車にあわせて発散されていった。ある瞬間、ピタリと急に静かに列車は見事に止まった。電車には真似のできない芸当である。不思議なのだ。見事なのだ。
止まったと同時に静寂が訪れる。ふいに騒音からの安定を崩す。今までの爆音と、爆音による不快さを一瞬にしてかき消してしまう静寂であった。そして、新しいシーンが始まる。
ここぞとばかりに物売りの声。扇風機の回るモーター音。靴を引き摺る音。お茶をゴクリと喉に通す音。本のページをめくる音。老婆が足の爪を爪切りで切り落とす音。スナック菓子をかみ砕く音。気怠るそうに煙草の煙を抜けた歯から吐き出す音。急に大声で喋っていた男達が日常の声にまで落とした変化。平常を平常と喚起するまでに多少の時間を要する乗客達。
振動と共に風は体力を奪うが、今度、駅では、熱さが体力を奪い始めた。疲れがテカテカに光って、安心感と畏怖が交じり合って何となく歪んでいる気分になった。
まあ、それは、それでよかった。
発車の時刻を私は知らないが、勿論、その時刻にはあまり興味がなかった。盗難防止か無賃乗車防止のための窓の鉄格子から駅の営みを眺めていた。構内には痩せた牛が食べ物を求めて地べたに座って売っているバナナ売りに擦り寄り、鞭で叩かれる。当然、聖なる牛は脅えるが、何事もなかったような素振りを見せて方向を変え、次の摂取物を狙って力なく彷徨する。勿論、牛自身は、自分が聖なるものか、非なるものかについては全くの興味がない。
一つの鍋と材料と使い捨ての炭焼きコップだけを用意し、駅の一角を陣取る御茶屋のおやじは、目敏く私の視線に気が付き、次の瞬間には五歳になるいかと思われる自分の息子に命令し、私のところまでチャイを持ってきた。おやじは、私のかすかなうなずきさえも見逃さなかったようだ。チャイを飲みながら、更に駅構内を見渡す。端から順に大量のムシロが並べられ、ときどきモゾモゾと動く。ただ、ひたすらに体力を使わぬように生き長らえている人々にとって、生きるということは、どういうことなのだろうか?あまりに当たり前のことなのだろうか?あまりに多くの饒舌さは彼らの前では虚無化する。目的や目標を持つ前に、ただただ生命を維持する。なかなかこれは強いことだぞ、と私は思った。

平易に受け止めなければと思いつつ、自然が厳しければ厳しい程、環境が厳しければ厳しい程、言葉に出せば出す程失うので、私は抽象的世界に思考と情景を切り替えていってしまった。
喋っている。何かが。振り替えれば物乞いだった。通路に立った哀れみの欠片もない物乞いであった。目が生きていた。一枚のボロを纏った瀟洒でダンディーな奴だった。武器まで持ち合わせていた。ボロからぬっとでた右手には手首から先はなかった。その切れ口を私に見せ付け、何か堂々と説明している。私は彼の真意が分かった。
「これでも、私は人間だ。認めるか?」
ポケットをまさぐり、コインを彼の肩から下げたズダ袋に放り込んだ。威厳ある顔のまま、軽く一礼し、裸足の足を引き摺って車内をゆっくり去っていった。
列車がレールの上をゆっくり舐め出した頃、戻ってきた不快さとの共存と再度協定を結び、私の体は振動と風と熱気で滅多討ちにされながらも、私も、考えれば、人間だったのだな、と何気なく思う。

動き始める最初の瞬間だけ、人生が終わるかのごとくガクっと揺れた後は、人の歩く速度より遅く列車は動き始める。人々が別れに手を振っている。その人々の間から、プラットホームの端に寝ている乞食が見えた。駅を去った列車は威勢のいい汽笛を更に鳴らして、加速していく。架線の力を借りて走る電車に比べると、走り方の力強さは個性的で気まぐれだ。窓の鉄格子の向こうに闇夜が息づいて、所々に光る裸電球が綺麗。もっと、綺麗に、と屈んで星を見ようとする。
夜中、列車が止まり、ゆっくり眠そうな会話がクローズアップされる。寝ているのか起きているのか境界線があやふやな状態で、深淵なるマーハーバーラタを聞いているような感じがする。私はまだインドにいる。明日、朝、デリーに着けば手紙を書こうかと思ってる。
「パキスタンに向かいます。今、自動的強制的に服とズボンでこのスリーパーシートを拭いて掃除しています。線路のきしみと、車内に浮遊する砂や塵を意識しなくなれば、おやすみの時間です。もう、俺のことは面倒なので忘れて下さい」
きっと明日の朝、読み返して、恥かしくなって、この手紙は捨てるであろう。


バラナシ



Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.