スチュワデスが呆れたドクタートヒモイ公式げすとはうす ~世界は基本的に広い~んですけど・・

フィリピン マニラ ケソン

荷物が軽くなっていく愉快

荷物が軽くなっていく愉快


約三十キロある荷物を担いでバンコクから飛んできた。慣れたふりをして、空港から少し出た所からバスに乗り、パサイ地区へ行く。
以前、カエルの様な生活だ、と従兄弟に呆れられていた無職青年アリエルは、ミンダナオからワイフを連れてきて生活を始めていた。彼は無職のままだった。アリエルの新婚生活は、近くの家の階段下をベニアで仕切った三畳弱のスペースにベッドを入れて始まっていた。二人のいうままに私は泊まり込むことになった。着いて暫くした夕方四時、ラジカセのテープをセットした瞬間、床の上で不意に眠ってしまった。
私は二つの髑髏に挟まれながら、海の中で必死でもがいている夢にうなされ喘いでいた。バックにクラプトンが流れている。不意に目覚め、時計を見ると、また四時だ。十二時間が一瞬に過ぎた午前、スプリングの悪そうなベッドを見ると、アリエルのワイフが涙を流しながら、「アイラブユー」を繰り返しつつ、彼の耳たぶを舐めていた。彼女に近くのレストランでウエイトレスをさせておいて、自分は夢だけを語っているだけの仕方のない野郎だなあ、と私は考えていたのだが、それでも彼女は彼のことが好きなのだな、と一瞬思ったが、「取り込み中に何なんだが、さっきクラプトンかけてた?」と尋ねた。その後、返ってくる見込み一パーセント以下のお金を、彼が企てたアンダーグランドの商売のために貸しつけると、彼、得意の悲し気な目をして微笑んだ。

荷物はそのまま預け、ディパック一つ担いで、ジプニーを乗り継ぎ、カローカン地区へ行く。以前、親しく話もしなかった日本帰りの髪の長いサリーの家に泊まり込むことになった。フィリピンでは彼女は無職のままであった。サリーは妹のダリーと彼女の父親不明の赤ん坊とバンド仲間の男役レズの子と、どう関係があるのか全く分からない小学生男女二人の六人で二部屋のアパートで暮らしていた。
部屋で暇そうにしていると、サリーが「日本語読む?」といって手紙の束を見せてくれた。タガログ語か英語で書けばいいのに、彼女の読めない日本語は、どの人も文面がほとんど同じで、赤面する程稚拙な文章。姿は想像できる。
部屋で暇そうにしていると、ダリーが「ちょっといい?」といって以前働いていた店の話をしだした。その店の女の子達の八割がシャブ中毒なのだという。彼女もそうだった。私とて、連日連夜の大量アルコール摂取で疑似肝炎状態になり、目が少し黄色くなってきたことは棚に上げて、彼女の何の楽しみもなさそうな陰りのある目を見て尋ねた。「君は君の人生が嫌で嫌でしょうがないのかい?」彼女はにっこり微笑んで、少しばかり口を尖がらせて「嫌よ」と答えた。
私はタイの山岳で、つらい昼間の畑仕事の疲れや厭世観(?)を癒すために夜な夜な阿片に溺れる中毒者の老人達のことを思い出していた。彼らは、それを止めない限り、禁断症状はないので、多少の弊害があっても十分に生きていける。阿片なので、やり続けてそのままボロボロになっても、なかなか死んでいくということもない。そうやって一生を終えていく。
私は上海で、ひとりの日本人高校生キヨシに出会ったことを思い出していた。初めての海外旅行で、一人という彼は上海に到着したとたんに不安で不安で仕方なかった様であった。私を日本人と認めるやいなや「兄貴、兄貴」といって離れない。日本で待つ彼女にはお土産に毛皮を買いたいとのたまい、私につきまとう上海オカマに対して「オカマは非常識だ」とのたまう彼であったが、私と別れる日に彼はいった。
「実は、親父への反抗旅行なんです。親父はフィリピンで芸能斡旋業みたいなことをしていて、何だか不潔なんです。フィリピンに行ってみろと、何度も父親にいわれてるんですが、それを拒否して中国に来てみたんです。ここに来た理由なんて、上海バンスキングって映画見たからなんですよ。本当はどこでも良かったんです。フィリピン以外なら。うーん。兄貴のくれた西瓜うまいですねえ」
そして彼は、どしゃ降りの雨の中、上海駅まで送ってくれて、また機会があればな、って別れたのに、一ヶ月後、日本人軍団と共にチベットにやってきた。
「いやー。兄貴がチベット行くっていってたから、この連中説得してここまで来ましたよ。一週間もかかりましたよー」なんて、ちょっとかわいいことをいっていた。
三年の音信不通の後、急に彼から電話があった。彼はすっかり落ち着いて、当時の幼い面影もなく開口一番「兄貴が、フィリピンいいぞー、っていってた理由が分かりました。僕も、ラテン系かも知れません。結局、父の仕事を引き継いでいるんですよ。面白いですよ」そうやって彼も一生を終えていくのかも知れない。
私は、部屋に泊めてもらいながら食費と部屋代を支払っている私のことを思っていた。ダリーは女というよりも幼い母。職がない、父がいない、そして二十歳。サリーにも職がない、二人の小学生達の養育、そして二十三歳。私は結構な経済力を持ってして、ふしだらに出現し、この部屋で、明日空き瓶を返すからと約束して屋台で買ったビールを飲んでいる。違いは、と答えるなら、「国籍ですね」としかいいようがない。そうやって、しょぼくれて一生を終えてしまう私かも知れない。

翌日、ディパックも置いて、手ぶらで、バスを乗り継ぎ、マカティ地区に行く。
以前は、商業地区をぶらぶら歩いたものだが、今回は地区外れの簡易移動式遊園地兼賭博場を訪れ、そこの簡易掘っ立て小屋に泊めてもらうことになった。毎晩三時まで飲み、ビンゴー台の上で眠り、朝、それなりに起きても、手ぶらなのですることもなく、行き交う人を見ているだけだった。誰も、私のポケットに札束が入っていることなど、知らないと思う。時が経つことを、ただ黙々と待っている状態。
道で暇そうにしていると、「シャワー浴びたらどう?」といわれ、どこにそんな所あるのかな、と思っていると、水一杯のバケツと一回分使用の石鹸を手渡された。そして、指示された二畳程の掘っ立て小屋に入ると、その四分の一程度つまり半畳分だけカーテン一枚で仕切られ、「じゃあ、ごゆっくり」といわれる。「床が腐ってしまうよ」というが「いつもやってるから大丈夫」といわれる。ためらうのは、実はそういったことではなく、残り四分の三、カーテン一枚越し三十センチ向こうにじいさんと若い女の子と子供がいるので、恥ずかしいのだ。結局、談笑が直接聞こえる中で、素っ裸の私はちょろちょろと水を流した後、カーテンを開けると子供を抱いた女の子が、罪のない笑顔で「気持ちよかった?」と問い掛けてきた。
道で暇そうにしていると、賭けしよう、と誘われ、ビンゴー等をしていたが、何かのきっかけで、「リッチマン・プアーマン(大富豪)」を教える羽目になり、それが、賭け事となってゆく。結局、赤子の手を捻るように勝ってしまい、何だか誰がリッチマンでだれがそうでないのかが、凝縮されているようで気分が滅入ってきた。勝った金額分、酒に代えて皆で飲んだのだが、何となく居心地の悪い空気が流れた。いや、流れる方向を変えてしまった様な気がした。潮時だと思った。
道で暇そうにしていると、誰かが私の仮面を見破ったのだろう。手招きし、近くの中産階級の家庭に連れていってくれ、シャワーを借りてくれた。おそらく、彼はシャワーを借りる際に、「日本人」という言葉を使ったに違いない。
丁重にシャワーを借りた後、負け犬の様にこの地を去った。

カローカンに戻ると彼女達のお金は底をついていた。私は財布ごと渡し、好きなだけ使ってもいい、といった。彼女たちは、必要な金額しか抜き取っていなかった。
パサイに戻って、アリエルに貸した金のことを尋ねると「皆におごって飲んでしまった」と、いって得意の悲しげな目をして微笑んだ。
そして、次第に私も、悲しげな目をするコツを覚えていった。

フィッリピン 1泊2日グルメの旅
 当地の人々は、栄養が悪い人が多く、結構、不健康に腹が出ていたりなんかする。
フィリピン料理は、ココナツやパティスという醤油を使った料理であり、辛いものは、基本的になく、甘かったりすっぱかったりって感じである。おおよそ、手で食べるか、左手にフォーク、右手にスプーンで食べる。スプーンはナイフの役割もしていて、肉や、魚を切るのにもスプーンを使う。
道端で売っているBBQは、タレに、7UPやスプライトといった炭酸飲料をかけている。コーラはダメだ。意味は分からない。肉は、豚か鶏だ。ちなみに牛は、タガログ語で「バカ」というので、昔、日本のヤクザの前で言って半殺しにあったフィリピン人が半殺しにされたという噂もあるほどだ。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
さすがに、アメリカの属国であるので、アメリカファーストフードたくさんである。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
しかし、フィッリピン資本も負けてはいない。ファーストフード、ジョリビーが健闘している。蜂さんである。蜂さん好き?
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
とにかく、腹が減ったので、飲むついでに適当なアメリカンな店に入ると、スーパーマンが迎えてくれた。スッパマン好きですか?
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
よく見ると、バットマンさんまでいます。バッドマンさん好きですか?
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
太った女は好きですか?
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
この店、どんな店なのか、今、ネット検索したら、夜中になると、プールバーコーナー(そういえば、奥にあった)に、客にあぶれた娼婦が最後の勝負だ!といって、この店に集まるのだそうである。私が行ったのは19時ごろだったが、そういえば、心なしか、ビリヤード台に2人、仁王立ちの女性がいたような気がする。(但し、モーションはナシ)

結局、24時間いたマニラでではですね、1食しか食べていないことに今、気がつきました。こんなことでいいんですか。
寝てる人、起こしていいですか?






目が黄色くなるまで、飲め!夜は、マニラに行け!
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
フィリピンも未開の国家ではないのだが、不思議な風習がある。町の中を歩いているとすぐに気がつくのだが、「どいてくれー」とか「邪魔だよ」とか「道をあけて」とかジープを止めたり、所謂アテンションに、言葉ではなく、空気を吐き出す変な擬音を出す。無理やり言葉にすると、Psssst!プスッ、プスッ。であろうか。あるいは、誰かを呼ぶときには、空気を吸って変な擬音を出す。無理やり言葉にすると、口を殆ど閉じて、チューチューであろうか。

それは、さておき、18時、1件目、既に野外バーにて飲むのである。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
19時、2件目、飯を食いながら飲むのである。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
20時、3件目、フラフラ歩いて、ふと立ち寄り、飲むのである。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
21時、4件目、何故か泥レスショーのある横のダンスバーで飲むのである。何だか、最近は、フィリピンでは、社交ダンスが流行っているようなのである。よく分からん。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
22時、5件目、タクシーに乗って、降りると雨が降り出したので、横のレストランでちょっと一杯飲むのである。ビールは100円である。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
23時、6件目、雨上がりに歩いていると、ディスコ、社交ダンス、カラオケのミックス店があったので、入ってみる。しかし、フィリピンのいいところは、何歳になってもディスコでの違和感がないところだ。決して若者だけではない。それに、みーんな、ディスコでもグイグイ飲んでいるのである。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
24時、7件目、暗くなったところで、チカチカしているので、吸い寄せられるように入り、ビールを飲む。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
1時、8件目、コメディバー&カフェに立ち寄り飲む。面白いか分からないが、現地人がゲラゲラ笑う。アメリカやインドもそうだが、フィリピン人は映画でもうるさい。笑ったり、足踏みしたり、ヒーローにピンチがきたらブーイングしたりして、とにかく、うるさい。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
2時、9件目、隣の派手なネオンのバーに吸い込まれる、無抵抗に飲む。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
3時、10件目、日本食と称して、そこで、1杯だけのみ、タクシーに乗り、ホテルに帰る。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
4時、11件目、フェイントでホテルに戻らず、道路向かいにある、バーの複合店にGO!
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
5時、12件目、もう終わりかと思いきや、ラスト、地元カラオケ店に入る。
真っ暗である。勿論、先ほどから半分は外国人の来そうにない店でもあったが、開いている席に座る。フィリピンスタイルとして、ビールに氷がついてきたりなんかして、グラス氷をぶち込み、ビールを注ぐ。
ババアが何か聞いてきた。いつも「ディコアラム(分からない)」という。すると、タガログ語分かるじゃないかといわれながらも、分からないと英語で言い直す。「隣の席に女をつけるか?」とババアは突然来た外国人を不思議そうに思いながらも、言う。「もう、死にかけです、飲むだけです」と私は言う。周りを見ると、一人男、3人男、女の子を横に飲んでる男、いずれにせよ、どのテーブルの上にも、ボトルが10本は並んでいる。
 場末感が良い。テレビだけが、映る。さて、どうやってホテルに帰ったのか・・・・それは、歩いてだ。私も、負けないように、汗をかきながら、ビール瓶をかわいく3本、テーブルに並べたのであった。
マニラで飲め飲め飲みやがれ~ウィ
 起きて驚いた!しまった!空港にいる時間だ!やばい寝過ごした、ウゲエ、二日酔いだ!ウゲゲエエ。
着替えているときに気がついた。違う、時差は1時間で、1時間進めるのではなく、戻すのであった!まだ、空港にいなければならない時間まで2時間あるわ・・・アブねえ・・・・・フウ、・・・頭が強烈に痛ええ。

絶対的経済格差に生きる。経験していない懐かしさ。
モシモシパーラーもスーパーに変わっていた。
Bサントスもいなかった。
下町
夕刻。常夏の国の都会、裏通り。辺りが徐々に暗くなっていくのが良く分かる頃。 
近所の人々は夕涼みと称して、ボコボコに亀裂の入ったコンクリートの道端に簡易長椅子や塀脇に座り込んだり、佇んだり。蚊にかまれながら腕をボリボリ掻きながら世間話をするふわっとした服を着たおばさんたち。ビール瓶片手にパンツ一丁で、とりとめのない話をしながら、ごく簡単なルールの賭博に興じるおじさんたち。怪しげにたむろして、コソコソ話をする若い男たち。走り回るボロ着の子供たち。ばら売り煙草を売る青年や、バロットという孵化直前のゆで卵を売る青年はうろうろし、時折、青年の代表か使い走りが人数分だけ煙草を買い求める。寿命寸前のエンジン搭載したやたら大きく割れた音を出すバイクが、力なく、排気ガスだけ好き放題撒き散らしながら、ノロノロ通り過ぎる。
 個人商店何でも屋サリサリストアに、裸足の小さな子供が煙草一本を買い求める。「まあ、子供なのに火をつけてもらっているわ」と話に夢中だったおばさんの一人が目を丸くして指差す。子供は一吸いだけして、少し走って行き、ギャンブルに興じる父親に渡す。「なーんだ」と残念そうにいうが、目は安堵。
 やがて、限りなく橙色に近い夕日は、消え、通りは、急に暗くなる。
下町
 排気ガスが混じった空気は、暑さと融合しモワッっと薄暗く澱んでいる。この混泥は少し危険な雰囲気を生み出し、モワッの中に漂わせ続ける。生活は苦しいが、そのモワモワ感に紛れ、生活臭には嫌悪感がない。貧乏であっても、皆が一様に貧乏で、等身大であるために貧乏臭さがない。
「汚れ」に標準がない。「清潔」に、同様、基準がない。
 皆が道端に出ることによって、武器の不携帯を証明し、草履姿や身軽な格好が、無防備を立証している。そこでは、基準は必要なく、馬鹿な煽動者が入り込む余地はなく、いや、煽動したがる者をも抱擁してしまうかも知れない。そこでは標準がなく、家から1分以内に何でも日用品は売買するところがあり、1分以内に交通手段を利用でき、1分以内に同世代の友達がいた。
 日本の戦後から昭和30年代ぐらいまで。こんな経験はしていないというのに、何か懐かしい光景。
 日本の戦後から昭和30年代まで、日本は、経済成長の夢と明るい将来があった。ここにはそれがないというのに、どこか明るい。
 近年の日本の子供たちに、明るい将来を抱いていない。もしかして、懐かしいというより、将来の日本を見ているのか。そんな錯覚に襲われる。
下町
下町
下町
下町
下町
サリサリストア。何でも屋。洗剤や塩やソースを小分けして売っている。勿論、金のない近所の人は、サリサリストアに小額の借金をして、そういう日用品を少しずつ買う。少し金がたまった人は、すぐに、サリサリストアを開店させる。
下町
以前、ずっととめさせてもらっていたパサイシティの下町ルトンダにも行ってみる。左側にあった家はなくなっている。皆、島に帰ったという。しかし、相変わらず子供たちはいっぱいいた。あの頃、ここで遊んでいた子供たちも今は、20代だ。どこにいるのだろうか。
左のサリサリストアはまだあったが、人と建物(掘っ立て小屋)が違った。ここではいつも、25円のビールを飲んでいた。コカコーラも25円だたので、ついついビールを頼んでしまう。息子のノエルは、ひょうきんないい奴だった。妹のディジーは、初めていったとき引っ込み思案だったが、次に行くと、じゃぱ行きさんになっていて日本語を話した。姉のテスはフィリピン人にしてはえらく真面目で、ちゃんとファーストフードの店で働いていた。時給40円。
右側は、今は、駅の入り口になっているが、当時は1階がレストラン「マブハイ」だった。社長5人に囲まれビールを飲んだこともある。なんだか様子がおかしいと思ったら全員オカマだった。2階は、ディスコ「スターゲイザー」であった。結構格式あるディスコで草履はダメだったが、外国人なので、何故かOK。しかし、こんなところ外国人なんか来ない。男女ワーワー踊ってビール飲んで、一見普通なのだが、何故だか、ショータームがあり、ヌードダンサーがでてきたりなんかするのだが、男も女も、そんなの見ていなくて、はやくショータイムが終わって自分たちが踊る時間を待つことでウズウズしているのが面白い。
下町
左の建物の1階の階段の下に扉を設けた2畳の部屋で新婚生活を始めたアリエル夫妻の部屋にも泊めてもらった。2畳に3人はなかなかきつい。
下町
 アリエルは、結婚してもやっぱり無職のままで、新妻がレストランマブハイで働いていた。
寝ていて、私は、何かにうなされ、起きると、新妻が泣きながら、「マハルキタ、マハルキタ(ILOVEYOU)」を繰り返しながら、アリエルの唇をかんでいた。
 きっと、その前に「ねえ、私たち、これからどうするの!」といって軽い喧嘩をしていたのだろう。でも結局、愛してるわ、で終了なのだ。



糸ひく旅人、マニラ回顧
 初めてマニラに降り立つ前も飛行機の中で子供が泣いていた。今回も泣いている。耳抜きができないのだろう。子供が泣き出した頃、マニラ湾の干潟が見え始めた。
 旨い物がないぞ、というついでにいえば、マニラは観光的なものもほとんどないといえる。少し、スペインの名残のものがあるぐらいだ。フィリピンのガイドブックを見てみたところで、ほとんどが、島々のビーチの紹介で首都マニラは数ページで終わりである。(昨年ブックオフで100円で買ったものによると。てか、バンコク同様ガイドブックはいらんのだけど。)
 じゃあ、何が面白いのか。それは、治安の悪さもあるのだが、アジア唯一のラテン系である。大人しさだけが、取り得で、相手がいろいろ話しでもしてくれないと、沈黙が続くといった私には、楽なお国柄である。韓国もラテンが入っているが、少し暴力的であり、やはり、何でもテキトーというお国柄はアジアピカ一なのではないだろうか。これでも、アメリカの庇護の下、昭和30年ぐらいまでは、日本より経済的に豊かであったのであるが、汚職とテキトーとアジア的トロトロと治安悪化によって、一気に東南アジア最底辺国まで突き進んでいったのである。

 ニノイアキノ国際空港は、アジア一、注意しなければならない空港である。誰もがぼったくろうと、目を輝かせている。かつて、空港警察の人と、仕事が終わったからと、一緒に空港から街に出たのだが、ここでも賄賂要求で(何故賄賂なのだ?何の賄賂なのだ?)揉めに揉めて、でも向こうは拳銃を持っているので、タクシーよりもよっぽど高い金を払って処理したという苦い経験もある。
 また、当時は、フィリピンに行くときは、大抵、機内の隣の席に座ったフィリピン人と友達になり、その家族の家に泊めさせてもらうというスタイルであったが、その日から3食昼寝洗濯付(洗濯はオカマがしてくれる)という優雅な生活になるのだが、何故か、電気代を払ったりするのであった。
 まあ、空港のことはさておき、空港タクシーは、ぼったくってやろうというタクシーがうろうろしているが、それ以前に、正規空港タクシーカウンターでさえ、流しに比べたら3倍ぼったくっているのである。
 そんな訳で、空港から出た瞬間、懐かしいもわもわしたモツの臭いがあった。
 そんな訳で、空港から歩いて、5分程で、前の大通りに出て、流しのタクシーを拾う。市内まで、30分程ではあるが、料金は300円ぐらいである。そして、タクシー運転手は、音楽聴くかい?とか、どこから来たのだとかなかなかいろいろ話しかけてくる中、流れ行く景色に、変わらないなと思いつつ、道と方向も19年ぶりなのにおおよそ覚えていることに気がついた。
 大通りで、信号待ちしていると、ストリートチルドレンがやってくるし、タバコのばら売り、水(水もぺットボトルもあれば、ビニールに入れてくるんだものもある)、ジュース等の飲み物、花の首飾り、軽食を売る人々がひっきりなしにやってくる。タイでもインドネシアでも見られない光景ではなかろうか。
 私は、機内で食べなかったピーナツやお代わりして保存していたパン数個を、そのたびに、渡して自己満足を得るのであった。
 自己満足の彼方に意識があるうちに、ネットで予約したホテルに到着したのだが、予約されてませんと言われる。英語なのだが、何故か、苗字ではなく名前で、それも日本語でサンづけで呼びかけてくることが面白い。仕方ないので、もう宿を変えるが、そこでも、何故か名前日本語サンづけ(他は英語)であった。
 宿を変えるのだが、荷物もないので、次のターゲットの宿はタクシーで行くので、その前に、ブラブラ周辺を散歩してみることにした。
マビニ通りと、その横のデルピラール(通称ツーリストベルトには、かつて、朝まで毎晩飲んでいたのだが、アキノ政権になって、壊滅したのであった。かつて、1杯100円から200円のビールを飲み、10件ぐらい梯子するのであった。店は5時まで開いており、最後は、屋台でビールを飲んでいる間に、日の出とともに、ネグラに戻り、夕方まで寝るのである。非生産的である。極道である。20歳でそんなことをしていては、今後の人生が台無しである。怠け者の臆病者人生の始まりであった。
参照 フィリピン紹介についてと、 フィリピン紹介2について
マビニ・デルピラール

フィリピン名物、トライシクル。いわゆるサイドカーであるが、当時毎年フィリピン経済は悪化していったので、そのうちバイクのトライシクルに比べ、自転車トライシクルも登場。それでも登場当時は、ラジカセ積んで賑やかだったのに、19年ぶりに来たら、まだ、自転車人力トライシクルあった。ラジカセ積んでなかったが、活躍してた。しかし、携帯電話は持ってたりなんかする。

マビニ・デルピラール
かつて、恐喝にもあったことのあるマビニ通り。それにしても、どこのアジアとも変わらずコンビニはどこにでも進出しているのだなあ。

マビニ・デルピラール
マビニ通りに並行する、毎晩通っていたデルピラールも、閑散。飲み屋街はほとんどなくなっている。しかし、両替店は残っている。

マビニ・デルピラール
はじめて、リサール公園に行ってみた。ホセリサールは、フィリピンの英雄であるが、夜な夜な、オカマが出現する有名スポット。というか、大家族に一人は、オカマ(バクラ)がいて、誰も気にしていない、というか、市民権得ている。仕方ないじゃん!だってさ。このあたりは、どの先進国より意識が進んでいる、というか、そんなけオカマが多かったら、もはや、ひとつの、いわゆるピープルパワーです。
 
マビニ・デルピラール
 てか、街角で何かやっていると思ったら、オカマコンテストだったりなんかする訳だよ。
マビニ・デルピラール
ポビットハウス。巨匠フレディアギラなどが演奏するライブハウスで、名の通り、ウエイターは全員小人。こんなの日本じゃできないよね。
マビニ・デルピラール
こうやって道端で、BBQしているので、町中が(空港から)BBQの臭いで覆われている。たっぷり排気ガスを吸っているので、おいしい。おいしいといっておくが、勧められてしか食べたことがない。勧められて食べたことがないのは、バロットと同様である
マビニ・デルピラール
おお、日本料理店「伊勢屋」はまだあった。ここの店員の女の子が注文とりながら、音楽に合わせて腰をひねっていたのが印象的だった着物姿でした。やっぱフィリピンは、ミュージシャンだらけの国である。
マビニ・デルピラール
一番人気店だった「ブルーハワイ」。しかし、アキノが街浄化一掃政策で追い出したというより、多分、アメリカ軍が、クラーク基地やスービック基地を撤退して、閑古鳥になったのかも知れないな。だいたい、その時期と合う。あれだけ、撤退問題で、撤退するとしても何十年もかかるとアメリカは豪語していたのに、ピナツボ火山爆発でクラーク基地が使えなくなったら速効撤退だものなあ。
マビニ・デルピラール
もう潰されてから15年は経過するというのに、結構、残骸は残っていた。
マビニ・デルピラール






バクララン、その下町市場のパワー
 フィリピンには宮廷料理がないのでであるか、これといった有名でうまい飯というのがない。食べ物が楽しみって国ではない(飲み物は楽しみ。ハロハロとか。それにサンミゲルビールも安い。今も最低価格1本数十円。死ぬほど、うまかったのであるが、日本で飲むとそうでもないとうことは、やはり、風土にあっているのか)
 まあ、食にはうるさくない私は、レチョン(豚の丸焼き)を一度つまんだぐらいだった。
 あれは、ビーチで、村の人が結婚式をしていて、飛び入り参加したときであった。レチョンがふりまわれていて、食い、そして、即席カメラマンとなり、正規カメラマンと勝手に同じ位置に立たされるという適当さであった。
 結局、市場では靴下を4足買ったのであった。150円。
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン
バクララン




19年ぶりの再訪(18年ぶりかも、深くは考えない)
 
 初めて飛行機に乗った、初めての海外のTG620便(タイ航空)は、通称、「ヤクザ直行便」として有名であった。1986年には、ヤクザが日本着陸直前で、拳銃の密輸が怖くなり、機内トイレに捨てて、暴発するという事故さえあった。
こべ
 2007年、22年ぶりに乗るTG621便は、まだあった。乗客は、相変わらず、普通の飛行機とはちょっと雰囲気が違う。ヤクザはほとんどいないが、日本にいても、全然もてそうもないおじさんに、水商売外国人に、チンピラまがいの野郎、とにかく、男性乗客率が異常に高い。両隣のおっさんも、窓側はため息ばかりつくおっさん。やたらミンダナオ島のガイドブックを見ているが、そこ行ったよ、と声を掛ける気もなくす程、臭いおっさん。アイル側は、ずっとじっとしているのみのおっさん。おっさんとおっさんの間に、場違いとしかいえないような私(がそう思っているだけで、横から見ると、見知らぬおっさん3人組と見られていると思うと、少し悲しい)
こべ
 帰りも2時間前に、空港についたが、まるで、アフリカやインド的効率の悪さで、チェックインに50分もかかった。一人あたり、4,5分かかっている。前に並んでいるのは、剥げおっさんに、デブおっさんに、チビおっさんに、派手なチンピラシャツを着た二人組みのおっさんに、大量に荷物のあるウォータービジネスっぽいおねえちゃん。イミグレも長蛇の列で、まるで、アフリカやインド的効率の悪さで、出国スタンプを押してもらうまでに60分もかかった。出国の上のプラカードには、自国民、外国人のプレートの代わりに、何故だか、マブハイ(乾杯)と書かれてあった。意味不明であった。







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