スチュワデスが呆れたドクタートヒモイ公式げすとはうす ~世界は基本的に広い~んですけど・・

イギリス ウォリック

 ウォリックのカントリーサイドにあるホテル&スパにいた。
新郎と新郎の父と新郎の仲人のような男と私は同じ服を着た。白いベストにベルトのないズボン、2つ何故か持っているが今までつけたことのなかったカフスボタン、よれよれの幅広ネクタイ。勿論貸衣装で、日本から自分で鉄製メジャーで首周りや足の長さや胸回りを適当に測り、メールしておいたため、概ねサイズは気になるほどではない。少しズボンがずれる程度で、短い足が更に短くなる程度だ。
12時半。午前中は、ひとりゆっくり牧草地帯を散歩した後でも、着慣れない服に緊張する。続々と人は集まり、テラスにある会場に人々は座る。
父は結婚式には来なかった。本当の理由は面倒だからなのだが、参列者には飛行機恐怖症といってある。ついでに、今、船で向かっているので2週間ほど遅れて到着するはずだとも言ってある。
そんな訳で、私は、ウエディング姿の妹と一緒に、テラスの後ろから歩く羽目になった。そういうことは事前に言っておいてもらわなければ困る、しっかり欠席したのに。
仕方ないので、我々は10秒程度予行演習をした。右足から、アンドゥトロワ。
其の甲斐あってか、20メートル近くのロードをたった2回しかドレスを踏むことなく新郎の許に持っていくことに成功した。後ろから着いてくるブライドメイド7人はドレスを踏まなかった。
其の後、私はどこに行くのか聞いていなかったので、何か読み上げられ始めるまで、席を探してキョロキョロしてしまい、一番前の席が一席だけ空いているのを偶然発見し、そこに行った。
そういった訳で、13時半頃に無事式のようなものは終了した。

コメディアンのような写真家が外に連れ出して、二人、家族、ブライドメイド、親戚、友達、とだんだん写る人々を増やしていって時間を稼いでいた。テラスではてんわやんわで椅子を片付け、テーブルを並べていることだろう。
そういえば、朝食をとっている時に、テーブルの真ん中に立ってある文字を読み上げ、「ウィグリィって何だ?」と妹に尋ねると、あきれ果て、「私はウィグリィになるの」と言っていたので、多分彼女は、ウィッグリイ家の人々になるのだと思った。

80人が参加する中、食事会が催される前に、シャンパンで飲み比べのようなものが、私一人で始まった。みなさんは飲み比べはしていないが飲んでいた。何せ私は英語が話せないのでシャンペンで口を塞いで喋っているフリをするしかすることがなかったのだ。
おまけに全然食事は始まらず、やっと15時を越えて、テラスに人々を一人づつ握手や頬キッスをしながら迎えることになった。
生まれて初めて西洋人に「ハンサム」と言われた。其の女性は90歳であった。やはりそのぐらいの年齢にならなければ私の渋さが分からないのかも知れないと確信した。

丸テーブル10個程を前にして、壇上に一列に新郎新婦にそれぞれの両親(私は父の身代わり)に日本で言う所の晩酌人の6人が全員に向かってさらし者になり、晩餐会は始まる。司会というものが存在していないので、乾杯の音頭なく、適当に食事は始まりだした。そして、食事半ばで適当に人々は席を離れあちこちで話をしはじめて、適当に立ち食い立ち飲み屋となり、新郎や新婦や私が、コース料理のメインはすっかり冷めていた。
18時頃になり、ようやくたったひとつのイベントである新郎によるスピーチがあった。彼はスピーチのことで頭がいっぱいで、きっと前の日から眠れなかったに違いない、全く言葉が出ず、何も考えてきていないのが丸分かりであったが、そこは愛嬌で許すことにした。スピーチには晩酌人男性にもあり、彼は原稿を用意してきており、前の日から飲みすぎて今日の式を二日酔いで気分悪く迎え、スピーチの時間が近づくにつれて緊張しはじめて、煙草を吸いに行った。煙草を吸うといってもちっとも戻って来ず、戻ってきては私に、「おい、もうスピーチの時間は終わったかい?」と少し緊張気味に尋ねるのであった。何時頃にスピーチをしなければいけないというのが分からなかったので、彼はきっといつか大臣が署名するいつかの死刑を待つ死刑囚の気持ちであっただろう。執行されるのは明日か数年後か分からないという精神状態である。そんな彼も、来年はICUに留学するので、きっと私にいじめられに関西にも来るであろう。隈なく、彼は日本語ででもスピーチをしてくれて素晴らしかった。特に緊張をほぐすためにスピーチの途中でワインをイッキ飲みしたのが不健康でなかなか良かった。

やっと、晩餐会は4時間程で終わり、皆さん、また庭やロビーでブラブラし始めた。勿論片手にはアルコールを持っている。仕方ないので、私も片手にまだアルコールを持ってすることもなくうろうろしたり、庭先にいた孔雀を追いかけたり、うろうろしたり、あるいはうろうろしたりした。

20時頃からディスコタイムが始まり、決して踊らない新郎が新婦と踊りだした、ていうか強制。既に酔いが回っていたのか新郎の目が少し危なくなり、妹は会って初めて夫に恐怖を感じたと素直な感想を述べていた。その後すぐに、アニキは新婦と踊るのが習慣だと騙され妹と踊ることになった。妹の手を30年ぶりに握った。細い手であった。少年時代をふつふつと思い出す、筈はなかった。次に手を握るのは私が死んだ時であろう。そういえば、写真を撮るときも無理矢理コメディアンカメラマンにポーズを取らされこれまた30年ぶりに母の手を握った。ゴツゴツした手であった。少年時代をふつふつと思い出す、筈はなかった。次に手を握るのは私が死んだ時であろう。

とにかく、テーブルでアルコールがなくなれば、気がついた人が順番に皆に酒を振舞うという伝統的方式を守った。残念ながら記憶力が素晴らしい私は、ウエイターの仕事をしたこともなかったので、注文を聞いて、バーカウンターまでいって、注文とは違う適当なものを注文し、皆に喜ばれたと思う。
誰かが24本入り箱に入ったスペイン産シガーを持ってきた。既に3年近く煙草を禁煙している私であるが、シガーならいいだろうということで、一本もらい、シガールームに行った。昔、貴族では食事の後、男だけでシガールームにしけこんで、それなりの話をするという風習があった。そんな感じで、私は、男達とシガーを楽しんだ。普段は単なる精神的貴族なのであるが、このときばかりは実質的貴族になったと錯覚した。
30分ぐらいかけてシガーを吸って、すっかりこのシガーはハバナ葉をカナリア諸島で栽培したという事実を学んだ。

ディスコタイムは進み、夜は更けていき、だんだん人はおやすみをいいながら部屋に引き上げていく。今日、妹に言われた命令はただ一つであった。
「お兄ちゃんは最後までおらなあかんで」

もうディスコタイムは終わりですとDJが言ったときには、私を含め数人が踊っているだけで、テラスには誰もいなかった。そういう訳で深夜零時半にディスコ時間は終了した。
後は、バーでのおしゃべりタイムだけだ。バーでは普段煙草を吸わない新郎もシガーをフカシ、新郎の父も私もシガーをフカシていた。ここは禁煙ですといっても、新郎父はにやけながら、まあ今日ぐらいいいじゃないといい、いいことになった。
後は、眠気と戦うのみである。しかし、まだアルコールは続き、既に2時は越えていた。
そういった訳で、結婚式は多分無事終わった筈である。

事象
朝は、何時に起きたかよく憶えていないが、朝食を採ったのは9時半頃だったように思う昨日の結婚式で昨日のうちにどなたが帰ってどなたが宿泊したかは定かでない。
妹からの昨日のたった一つの命令は「お兄ちゃんは最後まで寝ないで残っておくこと」ということであり、本日のたったひとつの命令は「お兄ちゃんは最後まで皆さんを見送ること」ということであった。もう2度と、私には命令することはないであろう。年功序列型によりそういう謀反はあまり喜ばしいことではないのである。そういった訳で、徐々に人々はホテル&スパを後にしてゆく。


背景
新郎の父方もBMWの7シリーズを転がして、ノルウエー人の愛人を乗せて帰って行った。このノルウエー人、式には赤い刺繍入りのノルデック民族スタイルの服を着て現れ、腰には、大きな鍵と鏡をぶらぶらさせて歩いており、詳しい説明を30分ばかり講釈を受けたが、今覚えていることは、本当は剣もぶらさげるのだが、飛行機のセキュリティーチェックにひっかかったので持ってこれなかったということだけであった。


妹の家1
妹の家2
ラ妹の家3










経過

全員が去っていったのは昼過ぎであった。
宿の支払いに妹が、「私のカード何か使えないからお兄ちゃん代わりに払って」といわれて、キャッシディスペンサーよろしく自動的に支払った。それが妹の巧妙かつアクドイ常套手段であることに気がついたのは、カード支払い代金が20万円を突破していることに気がついてからであった。
結婚式で初めて私が泣いた瞬間であった。
新郎の車には荷物が乗り切らないので、一時的に母のベンツのRV車と交換して、近隣を散策するおとにした。新郎と妹、日本からかけつけてきてくれた妹の友達Yさんと、母。昨日の残りのウエディングケーキだけは乗り切らず、Yさんのひざの上にケーキを乗せて近郊に出発。ただでさえ、腹がいっぱいなのに、ケーキ臭をかいでさぞかし気分が悪くなったであろうが、まあ、そこは愛でたいという事で我慢してもらう。








原因

凡そ20分たらずで到着した街はストラトフォード・アボン・エイボンという小さな町で、シェークスピアゆかりの地という所である。エイボン川のほとりの桜が咲く駐車場に車を停め、前払いでお金を入れ、レシートを車の窓に貼り付ける。川沿いには遊覧船の他に細長いボートがあり、老後を船上で過ごす人々もいるといっていた。これでヨーロッパ中を巡るというが、ドーバー海峡をあれで渡る訳?と疑問に思ったが、思っただけであった。ところで、シェイクスピアの家を目差して、チューダー朝の町並みを歩く。チューダー朝といえば、ローマカトリックからフン無視してヘンリー8世がイギリス国教を打ち立てたという内輪もめの時代であったが、上流階級に砂糖が流入して虫歯が増えた時代でもあった。その建築の特徴といえば、木造で化粧梁を見せたまあいわば御伽噺のような造りである。
シェークスピア博物館とその横の生家は、父母から子供達までの一生を詳しく説明したものであり、出口には土産屋になっており、ここを通らずして出口無しの血のイニシエーションの場となっていた。チューダー朝風パブで昼食を採ってから、また車に乗って10キロ程進む。









対処

街を出て2,3分で緑の草原になる。
そして大学の街ウォーリックに着く。スーパーマーケット横の駐車場に車を停め、前払いでお金を入れ、レシートを車の窓に貼り付ける。日曜の午後は少し駐車料金が安いようである。そこから歩いてウォーリック城に向かう。TO LETとTOLETと何度も見間違える。
外から見た城は廃墟のようであるが、まだ伯爵が住んでいるという噂を聞いた。妹達は先日も来たので、近くのパブかカフェで90分程待っているという。城の見学に90分もかかるだろうか危惧したが、中は歴史や調度品や当時の姿のマダムタッソー製作の人形などを再現していて、暮らしぶりが分かった。牢屋や拷問室や武器製造室などまでもが再現されておりなかなかマメであった。問題はすべての出口には土産屋になっており、ここを通らずして出口無しの血のイニシエーションの場となっていたことぐらいであった。

総括
そんな訳で、何故かあっという間に90分は過ぎ、雨もまばらに降り、我々は車に戻った。店は午後5時前であるがすっかり閉まっており、駐車場には車がほとんどなくなっており、歩いている人も心なしか少なくなっていた。
カーナビを駆使してコベントリーの街外れの空港に向かう。カーナビの言うとおりに走っていると、郊外になり心配になってくる。彼自身も心配になり、車を停めて、もう一度セットした。どうみても裏道を通っている感じである。いくら私が人生裏街道だといってもねえ。空港に到着すると、駐車場になっており、ここからバスに乗っていくと言われ、直接空港にいくなら、この地図の通りいきなさいと守衛に渡され、また来た道を引き返した。
空港建物はまさしく倉庫であり、車寄せのない空港で、急いで荷物をおろして、バイバイと慌しく別れた。ポケットに手を突っ込むと、最後に妹にくれてやろうとしていた祝い金に手があたった。仕方ないので私の祝い金にする。
チェックインカウンターではパスポートを出しただけで、搭乗券発行であった。ネットでしか予約できないシステムになっており、母と私は、即席で作った倉庫の中に設置されたいい加減安そうな椅子に座ったのであった。そうして待つこと、1時間、タラップよりトムソンフライドットコムという飛行機に乗ったのであった。
勿論飛行機はいきなり故障で、なかなか飛ばなかった。




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