スチュワデスが呆れたドクタートヒモイ公式げすとはうす ~世界は基本的に広い~んですけど・・

2005/04/22(金)00:37

結婚式に参加した

イギリス ウォリック ウォリックのカントリーサイドにあるホテル&スパにいた。 新郎と新郎の父と新郎の仲人のような男と私は同じ服を着た。白いベストにベルトのないズボン、2つ何故か持っているが今までつけたことのなかったカフスボタン、よれよれの幅広ネクタイ。勿論貸衣装で、日本から自分で鉄製メジャーで首周りや足の長さや胸回りを適当に測り、メールしておいたため、概ねサイズは気になるほどではない。少しズボンがずれる程度で、短い足が更に短くなる程度だ。 12時半。午前中は、ひとりゆっくり牧草地帯を散歩した後でも、着慣れない服に緊張する。続々と人は集まり、テラスにある会場に人々は座る。 父は結婚式には来なかった。本当の理由は面倒だからなのだが、参列者には飛行機恐怖症といってある。ついでに、今、船で向かっているので2週間ほど遅れて到着するはずだとも言ってある。 そんな訳で、私は、ウエディング姿の妹と一緒に、テラスの後ろから歩く羽目になった。そういうことは事前に言っておいてもらわなければ困る、しっかり欠席したのに。 仕方ないので、我々は10秒程度予行演習をした。右足から、アンドゥトロワ。 其の甲斐あってか、20メートル近くのロードをたった2回しかドレスを踏むことなく新郎の許に持っていくことに成功した。後ろから着いてくるブライドメイド7人はドレスを踏まなかった。 其の後、私はどこに行くのか聞いていなかったので、何か読み上げられ始めるまで、席を探してキョロキョロしてしまい、一番前の席が一席だけ空いているのを偶然発見し、そこに行った。 そういった訳で、13時半頃に無事式のようなものは終了した。 コメディアンのような写真家が外に連れ出して、二人、家族、ブライドメイド、親戚、友達、とだんだん写る人々を増やしていって時間を稼いでいた。テラスではてんわやんわで椅子を片付け、テーブルを並べていることだろう。 そういえば、朝食をとっている時に、テーブルの真ん中に立ってある文字を読み上げ、「ウィグリィって何だ?」と妹に尋ねると、あきれ果て、「私はウィグリィになるの」と言っていたので、多分彼女は、ウィッグリイ家の人々になるのだと思った。 80人が参加する中、食事会が催される前に、シャンパンで飲み比べのようなものが、私一人で始まった。みなさんは飲み比べはしていないが飲んでいた。何せ私は英語が話せないのでシャンペンで口を塞いで喋っているフリをするしかすることがなかったのだ。 おまけに全然食事は始まらず、やっと15時を越えて、テラスに人々を一人づつ握手や頬キッスをしながら迎えることになった。 生まれて初めて西洋人に「ハンサム」と言われた。其の女性は90歳であった。やはりそのぐらいの年齢にならなければ私の渋さが分からないのかも知れないと確信した。 丸テーブル10個程を前にして、壇上に一列に新郎新婦にそれぞれの両親(私は父の身代わり)に日本で言う所の晩酌人の6人が全員に向かってさらし者になり、晩餐会は始まる。司会というものが存在していないので、乾杯の音頭なく、適当に食事は始まりだした。そして、食事半ばで適当に人々は席を離れあちこちで話をしはじめて、適当に立ち食い立ち飲み屋となり、新郎や新婦や私が、コース料理のメインはすっかり冷めていた。 18時頃になり、ようやくたったひとつのイベントである新郎によるスピーチがあった。彼はスピーチのことで頭がいっぱいで、きっと前の日から眠れなかったに違いない、全く言葉が出ず、何も考えてきていないのが丸分かりであったが、そこは愛嬌で許すことにした。スピーチには晩酌人男性にもあり、彼は原稿を用意してきており、前の日から飲みすぎて今日の式を二日酔いで気分悪く迎え、スピーチの時間が近づくにつれて緊張しはじめて、煙草を吸いに行った。煙草を吸うといってもちっとも戻って来ず、戻ってきては私に、「おい、もうスピーチの時間は終わったかい?」と少し緊張気味に尋ねるのであった。何時頃にスピーチをしなければいけないというのが分からなかったので、彼はきっといつか大臣が署名するいつかの死刑を待つ死刑囚の気持ちであっただろう。執行されるのは明日か数年後か分からないという精神状態である。そんな彼も、来年はICUに留学するので、きっと私にいじめられに関西にも来るであろう。隈なく、彼は日本語ででもスピーチをしてくれて素晴らしかった。特に緊張をほぐすためにスピーチの途中でワインをイッキ飲みしたのが不健康でなかなか良かった。 やっと、晩餐会は4時間程で終わり、皆さん、また庭やロビーでブラブラし始めた。勿論片手にはアルコールを持っている。仕方ないので、私も片手にまだアルコールを持ってすることもなくうろうろしたり、庭先にいた孔雀を追いかけたり、うろうろしたり、あるいはうろうろしたりした。 20時頃からディスコタイムが始まり、決して踊らない新郎が新婦と踊りだした、ていうか強制。既に酔いが回っていたのか新郎の目が少し危なくなり、妹は会って初めて夫に恐怖を感じたと素直な感想を述べていた。その後すぐに、アニキは新婦と踊るのが習慣だと騙され妹と踊ることになった。妹の手を30年ぶりに握った。細い手であった。少年時代をふつふつと思い出す、筈はなかった。次に手を握るのは私が死んだ時であろう。そういえば、写真を撮るときも無理矢理コメディアンカメラマンにポーズを取らされこれまた30年ぶりに母の手を握った。ゴツゴツした手であった。少年時代をふつふつと思い出す、筈はなかった。次に手を握るのは私が死んだ時であろう。 とにかく、テーブルでアルコールがなくなれば、気がついた人が順番に皆に酒を振舞うという伝統的方式を守った。残念ながら記憶力が素晴らしい私は、ウエイターの仕事をしたこともなかったので、注文を聞いて、バーカウンターまでいって、注文とは違う適当なものを注文し、皆に喜ばれたと思う。 誰かが24本入り箱に入ったスペイン産シガーを持ってきた。既に3年近く煙草を禁煙している私であるが、シガーならいいだろうということで、一本もらい、シガールームに行った。昔、貴族では食事の後、男だけでシガールームにしけこんで、それなりの話をするという風習があった。そんな感じで、私は、男達とシガーを楽しんだ。普段は単なる精神的貴族なのであるが、このときばかりは実質的貴族になったと錯覚した。 30分ぐらいかけてシガーを吸って、すっかりこのシガーはハバナ葉をカナリア諸島で栽培したという事実を学んだ。 ディスコタイムは進み、夜は更けていき、だんだん人はおやすみをいいながら部屋に引き上げていく。今日、妹に言われた命令はただ一つであった。 「お兄ちゃんは最後までおらなあかんで」 もうディスコタイムは終わりですとDJが言ったときには、私を含め数人が踊っているだけで、テラスには誰もいなかった。そういう訳で深夜零時半にディスコ時間は終了した。 後は、バーでのおしゃべりタイムだけだ。バーでは普段煙草を吸わない新郎もシガーをフカシ、新郎の父も私もシガーをフカシていた。ここは禁煙ですといっても、新郎父はにやけながら、まあ今日ぐらいいいじゃないといい、いいことになった。 後は、眠気と戦うのみである。しかし、まだアルコールは続き、既に2時は越えていた。 そういった訳で、結婚式は多分無事終わった筈である。

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