遺言的に。
死ぬといふことに恐怖を感じるのは、死ぬと先がどうなつてゐるか分からないからであり、自分がこの世にいなくなるといふことが怖いからである。もし、死んで永遠に樂しい時がくるといふことが判明したら、皆、喜んで死んでいくであらう。まあ、多分、死は、物理的に何かが殘るとしても、意識はなくなつて、無であらう。路傍の石と同じであるかと思ふ。
そもそも死を意識したのは、人間が、時間といふ概念を身につけたから他ならない。犬猫はせいぜい多少過去のことは覺えてゐても、未來を考へないだらうから、死を恐れることはないだらう。生存本能はあるが。私のをぢいちやんも死は怖くない。もう過去も未來もなくなつたアルツハイマーの人だから、死ぬといふことが分からない。子供の頃、年寄りの人たちは、死に向かつていくことをもう人生逹觀して、少しも怖くないんだと思つてゐた。しかし、いくら年をとつても怖い物は怖いといふことが分かり輕いショックを受けた。
インドのガンジス河では、燒かれてゐないガスでブヨブヨになつた屍躰が時々流れてくる。その上に烏が乘つてゐたりなんかもする。子供や病氣で死んだ人は人生を全うしなかつたといふことで燒かれないのである。
私の自殺の齒止めのひとつに、もし自殺して人生を全つとうしなければ、罰を受けるのではないかと考へることにしてゐる。無にもならず、天國地獄にもいかず、何か暗闇に永遠に閉ぢ込められるのではないかと考へるのである。ああ、自縛靈のやうな感覺だらうか。意識がありながら永遠はたまらないから。
人々の死に樣はどうであらうか。少し調べてみた。
源頼朝・・・夜這ひしやうとして、癡漢と間違へられ殺される。
一休さん・・・「死にとうない」といつて坐つたままご臨終。
徳川家康・・・テンプラに當たり食中毒(すでに癌だつた)さういへば、ブッダは毒キノコ。
カント・・・「これでよい」といいあつさり死亡。
詩人プーシキン・・・妻の浮氣相手と決鬪、敗れる。
モオパッサン・ニィチェ・・・狂死。
勝海舟・・・風呂上りにブランデーを飮み腦卒中。
ローザルクセンブルグ・・・自分が設立したドイツ共産黨當局により虐殺。
リルケ・・・女性におくるバラをいぢつてゐるうちにトゲがささりそれが原因で急性白血病・・・ほんまかいな。
宮澤賢治・・・何妙法蓮華ゲーキョウを唱へながら死去。生涯童貞。
ボニィ&クライド・・・「俺たちに明日はない」のとほり。
キュウリィ夫人・・・職業病。(白血病)
赤木圭一郎・・・撮影所のゴーカートで遊んでゐる時に、頭をぶつけ死亡。和製ジェームスディーン。
ガガーリン・・・ミグ25運轉中に墜落死。(初めて宇宙に行つたのに・・・)
ナタリィウッド・・・醉つてボートから轉落。
フヂコFhujio・・・ペンを持つたまま死んでゐた。
ニカウさん・・・薪を採りに行つたまま行方不明。
アインシュタイン・・・時世の言葉がドイツ語だつたので、アメリカ人の看護婦は分からなかつた。
ギヨエテ・・・「もつと光を」といつて亡くなつたが、部屋が暗かつたらしい。
2003年4月の日記より
日本人は年間90萬人あまりが死ぬ。
飛行機墜落で死ぬのは22人(H10)
風呂場で足を滑らせて死ぬのが3000人
浴槽内での居眠り等の溺死が3200人
海水浴での溺死1500人
プールでの溺死26人
海外での殺人被害は18人
國内犯罪被害者は1350人
階段から落ちて死んだ人690人
蛇口からの熱湯に接觸してショック死120人
農藥等有害物質の不慮の中毒560人
自然の高温や爆風等980人
交通事故13000人
自衞隊の殉死2人警察官4人
癌275000人
心疾患140000人
腦血管疾患138000人
肺炎78000人
自殺23000人
腎不全17000人
水不足0人
食糧不足78人(35歳以下は0人)
自宅での臨終148000人
それにしても、新撰組の死亡原因の第一位は切腹である。
哲学的に
死ぬ(またメタフォリックで申し訳ないが)ということに恐怖そのものを感じるのは、死ぬと先がどうなっているか分からないからであり、アイデンティティーの崩壊した自分自身がこの世にいなくなる(またメタフォリックで申し訳ないが)ということが怖いからである。もし、死んで永遠に楽しい時がくる(またメタフォリックで申し訳ないが)ということが判明したら、皆、喜んで死んでいくであろう。まあ、これは今後のさらなる研究によってほぼ明らかになるであろうが、死は、物理的に何かが残るとしても、意識はなくなって、無であろう。路傍の石と同じであるかと思う。
そもそも死そのものを意識したのは、戦争機械が、時間(またメタフォリックで申し訳ないが)という概念そのものを身につけたから他なりえない。犬猫はせいぜい多少過去のことは覚えていても、未来そのものをフレームの制約を自明のものとして思考しないだろうから、死そのものを恐れることはないだろう。生存本能はあるが。私のおじいちゃんも死は怖くない。もう過去も未来もなくなったアルツハイマーの人であるから、賢明な読者ならご推察の通り、死ぬ(またメタフォリックで申し訳ないが)ということが分からない。子供の頃、年寄りの人たちは、死に向かっていくことそのものをもう人生達観して、いささかわずかではあるがも怖くないんだと思っていた。だが本稿の論旨に照らし合わせてみると、いくら年そのものをとっても怖い物は怖い(またメタフォリックで申し訳ないが)ということが分かり重力の魔を逃れてかろやかに逃走している凡庸な日常に垂直に切り立つ衝撃そのものを受けた。
インドのガンジス河では、焼かれていないガスでブヨブヨになった死体が時々流れてくる。その上に烏が乗っていたりなんかもする。子供や病気で死んだ人は人生そのものを全うしなかった(またメタフォリックで申し訳ないが)ということで焼かれないのである。
私の自殺の歯止めのひとつに、もし自殺して人生そのものを全っとうする方策をとらねば、罰そのものを受けるのではないかとフレームの制約にしばられて思考することにしている。無にもならず、天国地獄にもいかず、何か暗闇に永遠に閉じ込められるのではないかとフレームの制約にしばられて思考するのである。ああ、自縛霊のような感覚だろうか。意識がありながら永遠はたまらないから。
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