スチュワデスが呆れたドクタートヒモイ公式げすとはうす ~世界は基本的に広い~んですけど・・

2023/11/16(木)16:44

宮崎県宮崎市下北方町越ケ迫6146の場合 埴輪公園、八紘一宇

そこにはにわ園はある。ナニワのロッキーとは、赤井選手であったが、ここでは、ハニワのロッキーである。 太古の昔は、ロマンである。太古の昔がロマンであったことをこれから、長々と書こうとしたのだが、ついつい、宮崎市内にある平和公園内にある埴輪を求めてやってきたときに、埴輪との出会いを思い出したのであった。 小学生の頃は、勿論、郷土史のようなところから始まり、地元、区、市、県、日本、世界と学年を追うごとに習う範囲が広くなり薄くなっていくわけだが、区の地理歴史であるからにして、それは、小学校2年のときのことである。 それに、私は、ボーイスカウトの子会社、カブスカウトにネガティブで引っ込み思案で消極性活発な私の根性を直すために強制的に母親から押し付けられていたので、駅は離れているが、地元の古墳とか見に行っていたのである。余談ではあるが、10年後ぐらいの高校1年のとき、この近くに住む同級生の子と付き合ったこともあるぐらいである。  そのカブスカウトでの話であるが、緊張した私は、隊の表彰か何かで、皆の前に出てくるよう隊長に呼ばれたのであるが、やはり緊張した私は、右手右足が同時に出て歩き、それを指摘され、大変恥ずかしい思をしたものである。 しかし、後年、それは、恥ずかしいことではないということが判明し、憤慨するほどではないが、なんだよーと思っているのである。実は明治時代になるまで、日本人は同じ方の手足を出して歩いていたのである。その後、飛脚の走りのようになんば走りで有名になったが、元来そもそも、多くの日本人が狩猟の民ではなかったので、誰も走る必要がなかったのである。 それに、和服がたわみにくい、武士なら刀が緩みにくいので、同時手足出しのほうが都合が良かったようである。走るのは飛脚とか駕籠屋とか特殊技術を持った人たちだけであった。どうやら、西洋式軍隊式様式が明治以降導入されて、今の歩き方(走り方)になったようだ。ちなみに、火事とかどうしても、一般の人が走らないといけなくなったシーンには、バンザイして走ったようである。おー、バンザイ! ついでにいうと、女言葉が出来たのも、明治以降、女学校が出来てからであり、昔は男女の言葉に差はなかったのであった。そういえば、昔、時代劇では、会話の中に男言葉喋っている女がいるなあと思っていたが、それは、正しいのでありますわな。 しかし、ナンやかんやいっても、埴輪については、専門家ではないので、もう言うことがなくなってしまいました。というか、埴輪についてはまだ何も言及していないような気がしてきた。 でも、埴輪たちの画像がいっぱい余っているので、あとは、眺めてよろしく、またきて三角。まあ、一応、関西からわざわざ来た甲斐はあったと思う。 とにかく、埴輪(信楽焼)と八紘一宇のコラボレーションで決め! 2008年宮崎旅行 高鍋大師 新富町・芝桜、都城・人形浄瑠璃資料館 都城・陰陽石 日南市・鵜居神宮 サンメッセ日南 宮崎市・埴輪公園

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