スチュワデスが呆れたドクタートヒモイ公式げすとはうす ~世界は基本的に広い~んですけど・・

2023/11/16(木)16:15

カンボと私

簡保でもカンポでもなく、カンプチアである。 カンプチアと私の出会いは、遠く、確か、ポルポトの圧政が終わった頃の頃と記憶する。当事は、まだ明確にいじめっ子いじめられっこガキ大将とまではいかないが、権力者そうでないものというのがある程度ありつつも、ガキ大将的なものがなくなりつつある中学生時代であった。  その彼は、肌が色黒く、貧相な顔立ちと、かなりの痩せ型であり、残念ながら成績も最下位あたりをうろうろしている彼であった。彼のあだ名は、カンボジア難民。今なら人権問題に発展するぐらいだが、多くのクラスメートが彼のことを難民、難民と愛嬌を持って呼んでいた。彼も、はははとは笑っていたが、内心屈辱だったのであろう。そういえば、女性でも色が肌黒く、やっぱり同じように成績が最下位に近かった子もインドと呼ばれていた。彼女は、その後、結局、ぐれて不良になった。  考えてみれば、私はいつも、その中間にいて、子供のときから傍観者であって、勿論、大将に媚をうることもないが、悪口や屈辱的なあだ名で、彼女彼を呼びこともなかった。今思えば、結構、平和主義者のご都合主義者の日和見主義者であった。それは多分、今でも変わらないような気がする。 勿論、カンボジア難民が何のことか分からず、勿論、テレビで映し出された栄養失調の強烈な情景をただ、あれが難民と思ったに過ぎなく、その頃の子供はたいていそう思ったのであろう。政治的背景や何故そうなったのかという疑問もなく、食い物がなくなればああなってしまうのだと思ったに過ぎないが、子供心に腹が出て目や頬が窪んだ、枝のような手足には強烈な印象を残したのであった。  中学一でもないが、それに近い才女が、ある演説で、ポルポトのことを無邪気にそして真剣に語っていた。ポルポト、それは何だ、その後、深く考えなかったが、彼女は、何故だか、学校区内1番の高校には入らず、私と同じ校区内3番目の高校に入学したときは、何故、あなたが、と私は、思ったものであった。  高校時代は、順調にカンボジアとの接点はまるでなかったし、海外との接点もなく、というより、日本語の通じない外国なんて絶対行きたくないとまで思っていtぐらいであった。唯一、歴史の時間でアンコールワットや真臘やアンコールトムをボロブドールやシューリービジャヤを一緒に学んだぐらいだった。 ヨーロッパの歴史が中心の中で、少しだけアジアのれ式がおまけのように数ページ割かれている、そういったことに、単純にバカな私は、アジアには歴史がないのだなと思った程度であり、現在の世界史がまさかヨーロッパ史だということなんかには気がつかなかったのであった。しかし、東南アジアの記述が少ないだけに、アンコールワットとボロブドゥールというキーワードだけは、心の中に深く刻まれた。刻まれながら、まさか、ボロブドゥール寺院に3年後に行くとは思いもしなかった。  大学に入り、空虚で暇になった私は、やはり海外より、軟派にも北海道ドライブやスキーなんかしたいなと思っていたのに、ふとした弾みで入学4ヵ月後に、うっかりフィリピンに行ってしまって以来、はまった。未だにもしかしたらはまっているかも知れない。18歳から22歳ぐらいまでの趣向趣味が一生を規定するといっても過言ではない。  ただ、学生の頃、カンボジアは行くことができなかった。ガイドブックはないし、唯一、英語版のロンリープラネットに数行、ラッキーだったらツアーでベトナムから行けるかもしれないが地雷もあるし、政情不安定でかなり行くのは困難であると書かれていたに過ぎない。 それに、カンボジア難民に愛の手をといった募金活動をしていた最高に冴えない奴らが三ノ宮駅前でいつも募金していたのを思い出す。むかついて一度行ってやった、おまえカンボジア行ったことあるのか。不思議なことに皆、プノンペンに行ったことがると言っていた。あいつらは原理研(統一教会)だったのを私は知っている。それにカンボジアは入国などできなかったのである。入国できるようになったのは、多分1990年代である。一様にやつらは、目の焦点が合っていなかった。  その後、会社人ともなってしまい、それでも時折いろんな書物を読んだりしていると、カンボジアが自由に入れるようになり、バンコクのチャイナタウンの安宿も壊滅状態となり、長期滞在者の多くはカンボジアに行ってしまったということや、市場では1ドルも出せば両手いっぱいのガンジャがほぼ黙認で手に入るとか、物価がとにかく安いという情報が入りつつあった。 知り合いも、ちょこちょこアンコールワットの見学なんかに行き始めた。私は沈黙を続けた。というか、単純に行ってなかっただけなのだが。  昨年末、ロサンゼルスの空港でイミグレ待ちをしていた。アメリカでもここは特に入国に時間のかかる町である。それでも、飛行機を一番に降りたので、即効で、前便のオーストラリアから来た人々の後に並んだ。 後ろに並んだのも、台湾在住の職業不明の日本人で、エクアドルに乗り継ぐらしいじいさんであった。じいさんは、1番に飛行機を降りた私に興味を持ったようであり、何だか話をしたがっていたみたいであった。ついに我慢できず、話してきたのだが、何故だか、私のことを勝手に世界トラベラーと思ったらしく、いきなり、世界中でどこが一番面白かったかと声をかけてきた。おじさんとは並んでいる1時間あまりを話していたが、結局、アンコールワットが良かった、是非行ってみてくれと言われた。何となく、今からロスでレンタカーを借りるという意味不明のじいさんの言葉にリアリティがあった。いつか行くけど、行ってみようと思った。  今回、バンコクに向かう飛行機な中で隣に座ったアメリカ人が、私がカンボジアに行くことを話したら、アンコールワットの素晴らしさを力説し始めた。そうかそうなんだね、と私は思ったのであった。  カンボジア行ったのに、アンコールワット行けずにすみまheん。 2008年カンボジア旅行 カンボジア到着 カンボジアに来た キリングフィールド 小学校が収容所となった プノンペンはナーガだらけ カンボジア国立博物館 カンボジア王宮 ウドンへ 市場から空港へ カンボジアタイgourmetの旅

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