スチュワデスが呆れたドクタートヒモイ公式げすとはうす ~世界は基本的に広い~んですけど・・

2023/10/25(水)23:00

エジプトイン刑事博物館、戦争博物館 残虐な欧米

中国で偽札をつかまされたことを恨んでいるのもあるけど、エジプトでパンツをやぶかれ、金をふんだくられた恨みみあるけど、これは、個人的なあくまで一個人の不良旅行ガイドのせいなので、紳士としての私は不良国家を糾弾し、国家を陥れるような真似はしないのである。 ヨーロッパとは、貧困な土地であり、恵まれたオリエントの地からすると、惨めで、陽が短く、冬が長く、権力者は奴隷を働かせて搾り取るといった歴史を繰り返してきた。羨ましい肥沃な土地を、冒険心を持って開拓にでかけたって美談は当たり前だけど、ウッソ、で、欲望を満たすために、自分たちが楽をするために侵攻したに過ぎない。 オリエントからは、胡椒やグローブ、なつめやし、樟脳、サフランなどの香辛料から染料、生糸や麻の繊維、陶器、宝石、珊瑚、真珠までもが輸入されてきた。それに対し、ヨーロッパから輸出できるものは、羊毛や皮その他チョトだけで、オリエントの人々は、大してヨーロッパから欲しいものなんてなかったんだ。売るものがなければ、売るものは、奴隷しかない。ヨーロッパの奴隷は、文明国にどんどん運ばれていった。勿論、現在のヨーロッパでは、サラセン(イスラム教徒たち)にさらわれたと教えているのがほとんどだ。スラブとスレイブは同じ語源だ。ジェノバやベネチアン商人は、ダマスカスやバクダッドにどんどんヨーロッパ人奴隷を送った。ヨーロッパの歴史書にはお上品に黒海貿易と記してある。 そして、ついに、何世紀かかけて、ヨーロッパ人はアラブ商船を爆破したりして、どんどん、オリエントに進出していった。勿論、ヨーロッパの教科書には、アラブ人が手を引いていった場所をヨーロッパ人が出かけていったとお上品に書かれている。 中国は、中華思想にて、時代によっては自分の国土をどんどん増やしたのではあるが、さすがに、アフリカやヨーロッパやアメリカまでは、領土を広げようとは思わなかったようだ。どこかの宗教と違って、中国の哲学書にも、出かけていって子孫を増やして大地を征服せよなんて書かれてなかったのである。 アメリカに行って~、先住民を虐殺して~無知で未開な人々にヨーロッパの道具の使い方を教え、ヨーロッパの編み物を教え~、なんて私たちは、感謝してもらいたいぐらいだわー。 メイフラワー号がやってきて~、冬が越せずに死にそうになったところを先住民に助けてもらったのに、いつのまにか追い払い、虐殺しつつも、麻疹百日咳コレラなんかを順調に輸出しちゃって、バッタバタ~。 自分たちで持ち込んだ病気でバタバタ死んでいくと、神がこの土地をわれわれに与えてくれるために先住民は死んだのじゃ、と神を称えたりなんかしてね。 19世紀最初、ついに、アメリカ本土からヨーロッパ人がやってきた!温和な気候で上半身裸の女性に、裸体はよくないと、宣教師が着せたのがムームーだ。そんなことより、こいつらがきて50年もしないうちに、50万人の人口が5万人になっちまったわ。 そして、日本に来たか、ペリー、おっとどっこい、ペリーは喜望峰を回り、インドや沖縄を経て、日本にやってきた。開国をそれまでロシアから始まり、ヨーロッパ諸国が何度も何度も迫ってきたのを断ったり、追い払ったりしてきたのであるが、ついに開国だ。 日本が鎖国に固持していたのは、不安だったから他ならない。怖かったから他ならない。幕府は何が怖かったのか。漠然とした不安ではない。有名な話であるが、幕府は、鎖国当初から、世界の情勢を知っていた。平戸に唯一入港を許していたオランダから毎年、江戸まで世界情勢を報告させていたのであった。幕府は世界情勢に詳しかった。そして知っていた。ヨーロッパの蛮行を。通商条約なんか結んだら、最初は友好的に見えても、その後、あの大国仏教のふるさとのインドや中国(清)がどうなっているか知っていた。開国したら、あれらの国のように植民地化されるのは分かっていたのである。かといって、列強に策は、幕府にはなかったので、ズルズルとにかく、延ばしに延ばす、それしかできなかったのであった。 例えば、インド、ヨーロッパ本土でもワーテルローの戦いでナポレオンが大敗した年に、ほぼインドでもイギリスがフランスを追い出した。そして東インド会社がイギリスで必要なだけの綿花を栽培するようにし、自主性が高く豊かだったインド農民を日雇い労働者に落としいれ、土地を追い払い、繊維手工業をぶっつぶし、イギリスの機械紡績を導入、綿花価格も勝手に決められるようになったのであった。 勿論、イギリスの教科書は、格調高く、イギリスの進んだ紡績技術の機械化によって、インドは大変な打撃を受けた」と書いてあるだけだ。 インドを完全に掌握するまでにイギリスは300年かかった。だから、最初、友好的でも何百年もたつとえらいことになると、幕府は知っていたのである。300年前は、インドは文化も戦力もヨーロッパに勝っていたというのにである。 例えば、中国。結構、ヨーロッパ人は今でも、中国人は伝統的にアヘンを吸引してきた歴史があると思っていたりなんかする。 何がどう嬉しいのか、たまたまイギリスに送られてきた、茶に、イギリス人ははまりまくった。その後、綿や木綿より需要が大きい市場になってしまったのであるが、中国人がイギリスから欲しいものなんかなーんmなかったので、仕方なく、銀で払っていた。おまけに陶器や工芸品にもイギリス人ははまってしまった。こうなれば、大赤字である。 中国皇帝も、自分たちは世界一だと思っていたので、大国インドがどんな目にあっていたか気にもしなかった。知らなかったかもしれない。 そして、有名な、インドでアヘンを作って、中国に売り込み、中国から茶や工芸品をイギリスに持ち帰るという三国間の貿易をやりはじめたわけである。こんなことではいけないと、アヘン倉庫を燃やしたのに激怒したイギリスは、あれよあれよのアヘン戦争。 それから先は、日本はどうなったのか、私の気が向くまで待て、って誰も待ってない。 そういうわけで、エジプト刑務博物館、戦争博物館の説明を終わります!   2008年夏旅行 成田→コペンハーゲン →カイロ→ミュンヘン→香港→深セン→香港→マカオ→香港→大阪の1週間 コペンハーゲン エロティカミュージアム コペンハーゲン観光 カイロへ ピラミッドでやられた スフィンクスは何を見ているのか ピラミッド観光 ミイラの作り方 エジプト刑事博物館、戦争博物館 カイロの高台に立つシデタル カイロ ハーンハリーリ カイロ 死者の町 カイロ ワックスミュージアム カイロ コプト教 エジプト gourmetの旅 人生7不思議4つ目、パラレルワールド ドイツのベッカム ミュンヘンのなにこれ ミュンヘン フリードリヒの町 ミュンヘン 狩猟博物館 ミュンヘン教会 BMWメルセデスアウディのミュンヘン ミュンヘン裏通り・・・ 銀行で元に換えたら偽札つかまされた 銀行で元に換えたら偽札つかまされた雑感 シンセン 中国ニセ5000年の悠久の歴史を2時間で辿る シンセン 中国を一周 シンセン ヨーロッパ シンセン アフリカ 大陸 シンセン アジアオセアニア シンセン アメリカ 大陸 シンセン フェイクチャイナを思う シンセンナイト 香港 便所レストラン 香港 マダムタッソー1 ・香港 マダムタッソー2 マカオ観光案内 マカオの夜 オマケ

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