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2020/01/17(金)23:03

【ブログ】25年と1日前の夜

時事ネタ&流行モノ(428)

1994年12月1日から1995年2月28日まで、 私の履歴書のその部分には、”無職”になっています。当時は、バブル経済がはじけて不況の波が押し寄せてくる頃だったが、3か月以内に再就職できると思っていたので、ハローワークにもいかず、新聞や専門誌などの求人募集だけで勝負をしていた。当時は横浜の横横の日野ICの近くに住んでいた。(実はサリン事件などで世間を騒がせたオウム真理教が行った坂本堤さん殺害事件の舞台になった洋光台の近く) 1995年1月16日午後11時頃、翌日の面接に備えて早めに就寝した。毎朝テレビを見ながらだらだらするのが習慣になりつつあったので、翌朝はテレビを見ないでばしっと一日を始めようと思って。 そして17日、テレビを見ないで面接先に向かった。洋光台の駅に「京都~姫路間の新幹線運休中」の張り紙を見て、以前にあったパンタグラフのトラブルで架線でも切れたかと思っていた。 阪神淡路大震災の事を知ったのは、面接先だった。 当時はまだ携帯電話を持っていなかったので、帰宅して大阪の実家に電話した。両親をはじめ親族全員は無事だったようだ。それまで経験した事のない揺れを感じ、飛び起きたとの事。その後、大阪の友達などなどに連絡を入れたが、とりあえず無事との事だった。当時、京都や奈良、和歌山には知り合いはいたが神戸方面は誰もいなかった(厳密には西明石あたりに居たが疎遠になっていて連絡が取れなかった)。テレビで映し出される火災の映像よりも、芦屋付近でぶっ倒れている阪神高速にショックを受けたのを覚えている。神戸西宮線(今は3号神戸線)は、遊びに行くのによく利用していた。その下の国道43号線も使う事があった。そんな思い出の場所が無残な姿に…。その年の9月、オリックスブルーウェーブが優勝争いをしている神戸の街を訪れた。滞在中に優勝できなかったが、その後西武球場で優勝したのだっけ? ただ、三宮が埃っぽかった印象があった。壊れたままの箇所があったり、復興へ向けた工事を行ってたりという事情があったのかもしれない。通行止めもいくつかあった。 数年後、ある花見の席で、ボランティアで現地入りしていた人の話を聞く機会があった。火事場泥棒的な話とかが横行していたらしく、何件かをそういうのを阻止したらしい。あれから25年、街はすっかり復興し、平松愛理さんは新しい「部屋とYシャツと私」を出し、ヴィッセル神戸は天皇杯を制覇した。それでも癒えない傷があることを、忘れてはならないと思う。 最後にひとつだけ雑学を…水道のレバー式の蛇口、それまで上から下にすると水が出たのを、この震災をきっかけに、下から上に引き上げるようになった。あと、ガスメータの非常停止の仕組みも震災きっかけだったと思う。 次の25年に向けて…、災害に負けない自分たちになっていきたいと思います。25年前の阪神淡路大震災に向けて…

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