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2010年01月19日
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2010年01月17日
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2010年01月16日
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2010年01月15日
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■先取り学習厳禁の理由は「もったいない」からです。数百、数千、数万の思考回路を作ることが出来るチャンスを、出来合いの回路(解く手順)をコピーして手順の反復が出来るようにして、肝心の自在に使える自力で作り出す思考回路は一切作れない環境に時間とお金をつぎ込んでるのですからね。やっているのはコピー回路という最も単純で原初的な回路の強化(思考の硬直化)です。これほど「もったいない」ことはありません。そして、それが「ガラスの自信」となっている。本人も保護者も指導者も、その壊れやすさと壊れた時の重大な悪影響を知らない。■もちろん、予習も厳禁です。準備学習を丁寧にすることが大事です。→予習と準備学習の決定的な違い※ただし、機能的な学習障害がある場合にのみ「緩やかな先行学習」が必要となります。<2008.10/14...記事再録>●先取り学習をしてはいけない本当の理由は「学校の授業で~」などという(大事なことではあるが)消極的な理由ではなく、思考力養成に致命的なダメージを与えるからです。人間の脳の熟成部位は順番が決まっており、低次機能から高次機能へと熟成部位が移動していく。つまり、高度な問題を高次機能で処理する(考える)ことで高次機能が始動し、高次機能回路(高度な思考力)が定着する。ところが、(高学年で使うべき手法を何の工夫もなく低学年に流用する)先行学習は高次機能が稼働可能な状態になる前に高度な問題を与えるので、処理は低次機能で処理せざるを得なくなり高度な問題なのに低次機能で処理することになる。外見的には高度な問題が解けるので(実は解いているのではなく解法や手順のコピーにしか過ぎないので応用は効かないし単なる低次機能の反復に過ぎない)「頭がよくなっている」という勘違いをする。といろが、頭の中では低次機能の強化をしているわけだから、自然に高次機能が熟成するタイミングであるにも関わらず、低次機能での処理が続いてしまい高次機能を始動させることなく臨界期を過ぎてしまうことになる。そして、本当に高次機能が稼働していなければ対応できない場面になって初めて高度な思考力が育っていないことに気付く。※本当の学習障害がある場合にのみ厳選された少量の先行学習は有効であるが、通常行われている予習的先行学習は脳内進化を妨げる危険学習である。<参考>http://homepage.mac.com/donguriclub/brain-logic.htmlより抜粋出典:NEDO海外レポートNO.933, 2004. 6/16-22【産業技術】ライフサイエンス:画像研究で脳の発達過程を解明(米国)論理的思考や問題解決を司る脳の中枢は最後に成熟する部位であることを、最新の研究が画像で明らかにした。4 歳から21 歳の被験者を対象に、10 年に渡って磁気共鳴画像化法(MRI)で正常な脳の発達を調べる研究で、国立精神衛生研究所(NIMH)とカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(UCLA)は前前頭皮質などの脳の“高次機能”中枢は青年期まで完全には発達を終えないことを明らかにした。5 歳から20 歳までの被験者の15 年間に及ぶ脳の成熟を数秒に圧縮する時間差撮影の三次元の動画は、おそらく使用されない神経接続が十代で廃棄されるのを反映して、大脳皮質の活動組織である灰白質が後頭部から前頭部へ向かって徐々に縮小することを明らかにしている。大脳皮質部位の成熟は、(大脳皮質が)関係する認知や機能発達において画期的な出来事が起こる年齢で確認される。NIMH のNitin Gogtay 博士、Judith Rapoport 博士、UCLA のPaul Thompson 博士、Arthur Toga 博士と研究員らは、成熟の順序がだいたい哺乳類の脳の進化と一致することも示唆している。この研究は2004 年5 月17 日の週の米科学学会会報オンライン版で発表された。「統合失調症のような神経発達障害で見られる脳の変化を解明するには、脳の正常な発達過程についてもっと良く理解することが必要だった。」とRapoport 博士は説明する。研究員らは、健康な13 人の児童と十代の若者を成長にあわせて2 年に1 度、10 年間に渡って(MRI)スキャンを行った。そのスキャン結果を全てまとめて登録し、脳の解剖学的な特徴群を利用して、灰白質[ニューロンとその樹状突起] の盛衰を視覚化し、全てのデータを合成し5 歳から20 歳までの脳の成熟を示す動画となるマップを作製した。出生直後の18 ヶ月間に過剰産生によって灰白質が急増した後、使用されない神経回路が廃棄されるにつれ、(灰白質は)恒常的に減少すると長く考えられていた。その後、 1990 年代後半に今回の研究の共同執筆者でもあるNIMH のJay Giedd 博士らが思春期の直前に灰白質過剰産生の第二波があり、その後、使用されない神経回路の廃棄の第二回目が十代(女子は11才、男子は12才)のうちに起こることを発見した。今回の研究で、最初に成熟する部位(脳の最前部及び最後部など)は感覚の処理や動作など最も基本的な機能を担う部位であることが分かった。空間知覚や言語に関連する部位(頭頂葉)がそれに続き、さらに高度の機能[感覚からの情報の統合や論理的思考、その他“高度”機能を司る部位(前前頭皮質)]は最後に成熟する。■早期の知的系統的学習が無意味であり弊害をもたらすということ。■幼児・児童期の単純思考の徹底反復は様々な思考モデル(思考回路)養成の妨害となるということ。■つまり、思考回路の破棄が行われる12才直前に抽象思考が完成する。しかし、熟成部位の順番はプログラムされているのだから抽象思考を早期にさせてはいけない。抽象思考の基本は情報のリダクション(省略・縮小)なので思考モデル(思考回路)を使わないことになるので、具象回路から抽象回路に変換するための素になる回路が少なくなってしまうからである。見かけは格好良いが実は大変なそんをしているのだ。だから、文章問題を線分図などの記号ではなく絵図で丁寧に描いて解くことが非常に大事なのだ。具象思考を十分に経験し味わう時間を転換期(最長でも最終思考モデル(思考回路)刈り込み期の12才)ギリギリまで伸ばす方が思考回路は数多く確保されるのです。具象思考回路を(基本的で万能なその人の一生の思考ベースとなる)抽象思考回路に転換させる時期は 9-12才である。この間は「具象思考」「具象思考回路を抽象思考回路へ変換」「抽象思考回路の試運転」等が同時に行われるので大脳皮質の厚みはピークになる。そして、回路が固定され、12才以後は不要な回路・使われなかった回路は破棄される。これからが本当の思考が出来る時期になり、情報を多量に入力してもいい時期になる。もちろん、高速思考も必要ならば練習可能です。従って、様々な思考モデル(思考回路)を12才までに作る環境を与えずに最も単純で何の新しい思考モデル(思考回路)も作り出せない「暗記・暗算・高速反応」特に高速単純計算を幼児・児童期にさせていては最低の思考モデル(思考回路)しか育てられない。知識量やスピードは思考モデル(思考回路)が固定する12才以降に入力すべきものなのです。<参考ページ>子供の才能を殺さないために親が読む本(1)子供の才能を殺さないために親が読む本(2)※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
※今日の日記「究極の思考形態って?」は後日、清書予定です。■思い通り(イメージ通り)に動かない体を思い通りに動くようにする必要があるときに要求されるのが反復練習。つまり、自在に操れないものにしか適応してはいけないのが、反復練習。多くは、体の制御に関すること(スポーツや楽器演奏練習)です。 思い通りの動き=視覚イメージの動き、これは「お手本」の動きだということ。つまり、これ自体の反復は不要。思考は視覚イメージの操作なので常に完璧に制御されます。思うように動かすことができます。ですから、反復は全く必要ない。つまり、複雑で繊細で多種多様な思考回路網を作るべき成長過程での思考での反復は無用ということ。できた、回路網を使ってする思考や記録を再現しやすくする方法は全くの別もの。■究極の思考形態を無理なく育てる方法 明確に分かる硬直的で理論的な思考回路網は簡単に(機械的に練習でも鍛えれば)出来ますが人間らしい判断力を含む思考力養成は教育の優先順位を守らないと出来ません。感情を育てることが根幹に来るからです。また、感じることによる回路の育成は機械的な練習では不可能だからです。■小脳自動思考を意識的に稼働できる状態で思考できる思考形態以上の進化はない。なぜならば、これ以上の進化は認識形態の変化を要するからです。認識形態の変化とは感覚器官の構造事態の変化を意味しますから、人類ではなくなるということです。ですから、こういう意味でもこれ以上の進化はあり得ないのです。これは数億年前(カンブリア紀)の大進化(カメラ眼の誕生:機能的に思考が可能となる)と同等の変化を要するということであり、それは人類ではなくなる(新人類誕生)ということである。...だから、必然的にあり得ない。新しい感覚器官がニョキニョキと出てくるというようなものだからね。■選択的に無意識を意識化する(できる)場合、そのコントロールは感情が受け持っています。操作自体は自動的に(進化の結果として持っているプログラムに沿って)出来るようになるのだから、大事なこと(教育しなければならないこと:意識的に育てなければいけないこと)は、それを意識的に行うことと感情でのコントロールを意識することですから、その感情自体を安定した納得のいくものに育て上げて満足を味わえるようにしておく必要がある。 私達が理論と呼んでいるものは、実は、自然の理(自然の法則・自然界で人間が感得できる動きから学べることだけ)のことなので、半自動的に修得も出来ますし、意識的に鍛えることも出来ます。しかし、その力を高度に繊細にコントロールする豊かな感情はタイミングと時期を見極めながら育てないと非常に育成が難しい。<中略>だから、両眼視が確立し、強固に固定してから視覚イメージを自在に操作できるようになるまで(視考力を活用して十分な思考回路網を作成し終える12才まで)は、感情の育成を阻害する行為(特に異常な学習手法)は絶対に避けなければならない。■危険な時期に、出来るようにしなければいけないことがある(社会のシステムとして設定されている場合が多い)としても、感情を麻痺させる(鈍感にさせる)ような手法は使ってはいけない。ところが、現在は、この異常な手法が0才から横行している。感情を阻害しなくても同等以上の成果を出せる効果的な手法が今までは無かったので、諦めていた人もいるだろうが、今は「どんぐり倶楽部」に全て揃っている。だから、既存の手法を「今まで使ってきたから」と言う理由にならない理由で使い続けるのは、怠慢という生半可なことではなく犯罪に等しい。■思考をコントロールする感情、感情をコントロールする複合感覚、その中でも最も優れた制御力である違和感、この違和感を丁寧に育てることが「人間らしい判断力を含む思考力養成」の最大の鍵である。一行で書くと「自分の違和感に自信を持てるように育てる」となる。これが「無意識を意識し、自信を持って実行できる」ってこと。■よくある勘違い:視覚イメージだけを鍛える(右脳教育)...なんてのはアンバランスで無味なこと。悪影響が増大する。12才を過ぎて視覚イメージ操作を手段として使うのはOK。※図形パズル、数字遊び...勘違いの温床。やっている図形や数字の処理が速くなるだけ。思考力養成には悪影響。なぜなら、思考力養成にはスピードが天敵だから。子供が好きだから...これは、スピードへの憧れにすぎない。(不可能へと向かう)スピード感による快感の欲求。麻痺感覚への憧れ。崩壊感への入り口。■12才までは「楽しければ~(どんな方法でもいい)」は非常に危険な判断基準です。やっていること、手法そのものがどういう影響を与えるのかを必ず検証すること。感応を麻痺させる作用がある場合には絶対に採用してはいけない。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
2010年01月14日
■究極の思考形態とはどのようなものなのか、興味がありませんか。実は、その一端は全ての人が経験しています。ただ、殆どの人はその究極の思考形態を持っているにもかかわらずコントロールできないでいます。つまり、天才と呼ばれている人も凡人も実は同じ能力を持っているにもかかわらずコントロール方法を知っているのか知らないのかの違いに過ぎないということです。まずは、下記の天才達の思考形態を見てみましょう。驚いたことに、どんぐり問題をしている子供の思考と同じであることが分かります。■結論から書きます。小脳思考の稼働を大脳が選択的に出来るようにすること。つまり、無意識領域で行われる超高速処理を意識的選択的に稼働させることが出来るようにするということです。こう書くと分かりにくそうですが、将棋の長考、哲学の道の散歩、閃きを待つボ~ッとした時間、漠然と考えながら入る長風呂、そうです、「どんぐり」で言うところの小脳思考ですね。意識できない処理を意識的に使うのですから、相当な体験的な確信と自分(自分の脳内で起こっている反応を感じる感覚)を信じる自信がないと意識的にはできませんが、実は無意識下では誰もが普通にしていることですから、難しくはありません。「あ、閃いた!」となる状態を自在に作れるようにするということです。「12歳までに『絶対学力』を育てる学習法」に「ヒラメキの構造」という見出しで扱っています。実は、「どんぐり方式」は、この究極の思考形態を自然に育てることができるよに仕組まれています。今までは、偶然の環境に頼るしかなかったのですが、どんぐり理論を知れば、誰でも無理なく・無駄なく・効果的にこの究極の思考形態を自然に育てることができるんです。もちろん「教育の優先順位表」も、この観点から作られています。●下記引用文を見て下さい。「ALBERT EINSTEIN IN BERN:青春のアインシュタイン(フリュキガー著/東京図書)」より■p.30_上17-下2「多くの場合、記号(言葉)がなくても思考は進められるもので、無意識のうちにさえもかなりの程度までそれができるということは、じぶんにとって、いまや疑いのないことです。」...この記述は、アインシュタインが67歳のときに書いた「自伝ノート」の中に記録していたものです。【糸山注:お分かりのように、どんぐり理論(Itoyama_Theory)の<小脳思考>のことですね。究極的に行き着くところ(気付くところ)は全く同じなんですね。...事実ですから。※個人名を使うのは好みではありませんので、英語でも<どんぐり理論>は<The_Acorn_Theory>と表記したいところですが、<The_Acorn_Theory>という言葉はJames_Hillmanが「The_Soul's_Code」で使っていますので、ここでは<Itoyama_Theory>と書いてあります。】■p.32_下18-p.33_上13いったい「思考」とは何か? 感官に印象が刻印されるさい記憶像が表出するからといって、それはまだ「思考」とはいえない。【糸山注:そう、ここまででは視覚イメージの再現ですから「理解する」までです。】 そのような像が、1系列をつくって、その1系列の環のおのおのがもう1系列の環を喚起するといったところで、まだ、それは「思考」ではない。しかし、ある像がそういう多くのヶ入れるに繰り返し現れるとき、それ自体関連のない諸系列に結びつくことによって、まさにその像がそういう諸系列を配列する如何として収まることから初めて、それは思考となるのである。【糸山注:どんぐり理論(Itoyama_Theory)の<分かる><考える>のことですね。<判断する>と<視覚イメージ再現→感情・感覚再現>までは言及していませんが、「思考」に関しては非常に精緻に考えられています。】 このような要素が、思考手段になり、概念になるのである。この自由な連想、すなわち、「夢」から思考に移行するのは、この「概念」がそのさいに演じる多少とも支配的な役割によって特徴づけられる、と私は考えている。そのさい、ある概念が意味として把握でき、再生できる記号(言葉)と結びつかねばならない、ということまでは必要とはしない。しかし、もしもそうなっていれば、思考というものがそれ(言葉という視覚イメージ再現記号)によって伝達可能となるわけである。【糸山注:ルーチン&サブルーチン&視覚の類推作用→永久脳の働き、「言葉のトリガー理論」の説明ですね。→ですから<幼児・児童期>には言葉はゆっくりでいいので、視覚イメージのよる思考力養成のみが(副作用もなく)有効なのです。】「ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)」...1965年にノーベル物理学賞受賞■p.43_7-p.44_7...視考力を活用した思考力養成の重要性が分かる逸話 MIT時代、僕はいろいろないたずらをするのが好きだった。あるとき製図のクラスで、一人の学生が雲形定規を取りあげて、「この曲線に何か特別な公式でもあるのかな?」と言った。僕はちょっと考えてから「むろんだよ。その曲線は特別な曲線なんだから。そらこの通り」と雲形定規をとりあげて。ゆっくり回しはじめた。「雲形定規って奴は、どういう風に回しても、各曲線の最低点では、接戦が水平になるようにできているんだよ。」 こうなるとクラスの連中が一人残らず自分の定規をいろいろな角度に持ち、この一番低い点に鉛筆をあてて回しはじめた。そして確かに接戦が水平だということにはじめて気がついたのである。みんなこの「発見」に沸き立ったが、誰もがとっくにかなり進んだところまで微積分をやっていて、「どんな曲線についても、極小点(最低点)での導関数(接線)はゼロ(つまり水平)である」ということは知りぬいているはずなのだ。ただそれを実際に当てはめてみることができなかっただけだ。言うなれば、自分の「知っている」ことすら知らなかったということになる。 これはいったいどうしたことなのだろう?人は皆、物事を「本当に理解する」ことによって学ばず、たとえば丸暗記のようなほかの方法で学んでいるのだろうか?これでは知識など、すぐ吹っとんでしまうこわれ物みたいなものではないか。※MIT:マサチューセッツ工科大学(英語: Massachusetts Institute of Technology)...ほぼ毎年、ノーベル賞受賞者をだしている米国マサチューセッツ州ケンブリッジ市にある名門大学「ご冗談でしょう、ファインマンさん(下)...解説 by 江沢洋」■p.326_7-p.327_2 ダイソンは、ファインマンについてこう書いている。 F・J・ダイソン『宇宙をかき乱すべきか』鎮目恭夫訳、ダイヤモンド社、1982年77,80頁。 ーー彼は量子の世界で何が起こっているかを頭に思い描くことができた。その絵姿から、方程式を経ずに答えを書き下すことができたのだ。【糸山注:視考力を活用した思考ですね。】<中略> ーー私はケインズがニュートンについて語った次の言葉を思い出していた。「彼の特異な天分は、頭の中の問題をすっかり解ききるまで休みなく考えつづける能力にあった。彼の直感の力は他の誰のものよりも強く、長く持続した。それが彼を偉大にしたのだと思う。」【糸山注:小脳自動思考のことですね。】※私は散文詩でこう書いています。...これは私が20代に考えていたことです。鮮明に覚えていますが、確信したのは千葉の船橋駅の前を歩いているときでした。【判断しない】散文詩「言葉の贈りも言葉の贈りもの」より 自分の基準で判断出来るまで 判断しないでいることが 本当の力なんじゃないかな だから 迅速に処理することは 一見力があるように見えるけれども その基準が他人の基準だとしたら そんなのは力でも何でもない※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■さっぱり、やっぱり、おちゃずけでしょ!よりどんぐり倶楽部...11 25, 2009...「良質の算数文章問題」どんぐり頭の中...12 15, 2009... 「良質の算数文章問題」頭の中...............2009/11/24...「デンタくん」※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■今日はブログを紹介します。Springboard■ここで書かれている「ザワザワとする感じ」は、まさに違和感のことですね。 違和感実験は、ギターなどを調律(調弦)するときの波の揺れで誰でもハッキリと認識できます。オシロスコープなら見ることも出来ます。その違いを自力で感じて、その感じを信じること。これが「本当の力」です。ここを大事に育てることが本道です。■真摯な現場の先生には頭が下がります。どんぐりころころ小学校...公立小学校絵に描いて考える算数...教室割り算の学習...公立小学校スイスでどんぐり at homeトルコでどんぐり at home※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
2010年01月13日
■小学校では「テストがあるから、やる」...は「書き」ならば、禁止です。厳禁です。言語道断です。...言い過ぎ?■小学校で学ぶ漢字は1006字です。1006字を毎日1文字だけ覚える(読める、意味が分かる、書ける)とすると1006日です。1ヶ月に20日間漢字学習を毎日1文字だけするとしても50ヶ月程度です。つまり、4年ちょっとです。1日1文字で...ですよ。さらに、漢字読本を使えば1年分が10分程度で、読みも意味も覚えますし、「イメージフィックス法:image-fix」をつかえば、1回も書かないでも書けるようにもなります。■ところが、学校の小テストで熟語のテストがあるから熟語も全部書けるようにしようとしている人がいます。読みと意味までならば許容範囲ですが、「書き」は×です。非常に危険です。これ(テストがあるから~)は、家庭で親が「お粗末3点セット」の一つを強化していることになる(実は親が「させる」ので宿題よりも悪影響が大きい)からです。上手にストレス無く覚えさせることはもちろん出来ます。そういう方法もあります。...それでも、不要なことはさせない方がいい。本当に必要なことなのかどうかを見極めることが大事なんです。「テストがあるから」ではなく、見極める。 すべきことをする。 すべきでないことはしない。「できるから、する(させる)。便利だから使う。」 ってのは、まず疑ってかかるべきことが殆どです。 マリオネット症候群になりますよ。■また、「イメージフィックス法:image-fix」は、危険回避のために最低限使って下さい。日常生活で活用できないもの(子供の遊びの中にないもの)を暗記という全く思考力養成に役立たない(貴重なエネルギーを浪費させる)ことに使うのは禁止です。幼児・児童期に大事なのは、暗記(最も単純なコピー回路の強化)ではなく思考(視考力を活用した多種多様な思考回路網作成)が全てなんです。■覚える方法など、いくらでもあります。単語用、熟語用、諺用、それぞれに最も効果的な方法があります。が、幼児・児童期には<キケン>なので公開していません。最も危険度の低い、1単語を覚える場合に最も効果的で最も応用の利く「イメージフィックス法:image-fix」だけを公開しているんです。■さらに、幼児・児童期には「楽しければ何をやってもいい」というのは異常だということは「砂糖を入れて甘くすれば、アルコールを飲ませてもいい」というのが異常なことだと分かる程度には分かるでしょう。 ところが、「楽しく徹底反復」「楽しく大量暗記」と言われると「ラッキー」なんて思ってしまう。根本的に「すべきこと・すべきでないこと」を確認する必要があります。「楽しく思考回路作成の邪魔をしましょう」ということですからね。 あ、チンプンカンプンな場合はどんぐり倶楽部の掲示板の過去ログをご参照下さい。※なお、漢字の「書き」について、最も無理なく無駄なく効果的な学習方法は3年生から始めることです。理由はHPに書いてあります。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
2010年01月12日
■小学校時代に「どんぐり倶楽部」で育った高校生が、アルバイトで小学生に「良質の算数文章問題」を添削してあげる。そして、大学受験の費用を貯金する。添削をしてもらっている小学生は中学生になった段階で「良質の算数文章問題」を全て終えているので添削をする資格を持っていることになる。この間には何のロスもない。経済的にも教育的にも大いなる貢献だけがあり、世界中で活用できる。FAX1台、あるいはPC1台あればできること。※もちろん、大学生でも主婦でも入院していても海外からでも、山の中からでも...OK。仕組みは既に出来上がっているんだからね。...もちろん、費用はゼロ...だって「どんぐり倶楽部」だから。※在宅での仕事にもなる、ハンディキャプがあっても老人でも、1枚の添削に何時間かかっても成り立つシステムである。EHD_System(Educational_Home_Doctor_System)育てるんだぁ...ウフフ。もう出来てるからね。教育の永久循環システムです。EHD※「どんぐり倶楽部」知性と感性だけでなく手に職までつけてくれるんです。それも、楽しみながらね。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■下記は、幸いにも、外から見える症状が出たので、対応(どんぐり倶楽部に辿り着くこと)ができましたが、症状が出なくても頭の中では、同じ事が起こっています。必読です。■我が家が宿題をさせない理由 ...「どんぐり倶楽部」だから...当たり前です。■日本は事情が違う?...同じです。人間の進化形態は何千年も変わっていませんからね。全国統一小学生テスト・決勝戦(四ッ谷大塚)※ですが、中学受験は極力反対(最悪、しなければならない場合は「健全な受験方法:どんぐり方式」)でする。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
2010年01月11日
■HPのトップにも書いてあるとおりに、どんぐり倶楽部の理想の子供像は「幼く・賢く・逞しく」です。<カコログより>2008年06月04日……………………………………………■18才の成人式(文責:どんぐり倶楽部・糸山泰造) 2008.06.02...長男の18才の誕生日(糸山家では成人式)をした。 本人は何年もかけて覚悟をしていたようなので、動揺することもなく普通に「有難うございます」という。 誕生日のお祝いと、成人式の「支度金」を渡す。 下の娘(中1)が「これって、早く独り立ちしろってことだよね?」なんて、軽く厳しい念押しをしたりしている。子供達は、それぞれに「独立」を意識している。※支度金は高校卒後に本人が独立するために自由に使える限定資金である。 郵便局の学資保険を使ったもので18年間の想いと共に積み立ててきた 贈り物である。 どう使うのかは本人次第である。 子育てはココまで。 見事なまでに「幼く・賢く・逞しく」 育ってくれました。I thank you very much. I really enjoyed being with you for 18years. ……………………………………………………………………………………………<追記>彼は現在、国立大学1年生...もちろん塾には一切行きませんでした。 自分の資金で受験し、入学し、引っ越し、生活しています。 今年、他の大学を受験するそうです。スカラーシップを狙っているようです。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
2010年01月10日
■スローフード運動の核は「正しい味覚の育成」です。同様に教育では感味力養成が第一に来ます。感じること・味わうことが、出来なければ自力で判断できないからです。 人間らしい判断は安定した情緒と正しい感情がベースとなって思考を働かせ判断を下すという流れが必要だからです。人間らしい判断を混乱させる情報が氾濫している中ではより一層強固な、ベースが必要です。感味力養成が急務なのです。その上で必要な教育の核は「正しい思考力の養成」です。 正しい思考力は幼児期の確かな視覚イメージを必要とします。さらに、思考力はそのイメージの移動・変形・連想・比較というイメージ操作までを必要とします。これは視考力を育てないと出来ません。 簡単お手軽な様々なファーストフードを食べていては正しい味覚を育てられないのと同様に簡単お手軽な「読み・書き・計算」では思考力は育てられないのです。また、幼児期の強い刺激が異常味覚を育てるのと同様に、幼児期の無用な脳の活性化は異常脳を育てます。 正しい味覚を育てるには、確かな味覚イメージを必要とします。正しい思考力は幼児期の確かな視覚イメージを必要とします。さらに、思考力は、そのイメージの移動・変形・連想・比較というイメージ操作までを必要とします。これは視考力を育てないと出来ません。●効果的な学習の原則は「Slow-in & Quick-out の原則」です。入力をゆっくりすると、出力は速くなるのです。「味わう教育」はまさに Slow-in のことです。幼児期は「味見」ではなく「味わう」ことが大事なのです。教育も同じです。■競技練習と教育~Fast food VS Slow food~ 競技練習と教育とは全く異なります。ところが、教育という名の下に、競技練習ばかりをさせている人達がいます。これでは教育は出来ません。教育は教育として、競技練習は競技練習として教えるべきです。 入試は競技です。ですから、作戦と技が必要になります。しかし、それはキチンと作戦をたてて必要な技を身につけるように指導すれば、教育を侵害するものではありません。問題が発生するのは、競技のための作戦や技を教育と同一視する場合に起こります。商業的な教育機関では、この「競技練習と教育のすり替え」は意図的に行われており、保護者を混乱に陥れています。 指導者は競技練習と教育を混同してはいけません。もちろん保護者も同様です。教育とは何かを一人一人が自分の言葉で理解し、自信を持って子供と接することが必要です。さらに、学校の先生であれば、小中に関係なく、教育と競技練習のどちらにも精通しておかなければいけません。そうでないと、子供がおかれている状況を正しく把握できないからです。これは時代の要請なのです。時代によって求められる先生像は異なるのです。教育も知らない、競技練習も知らないでは論外ですが、子供と接する立場である以上は、子供たちを取り巻く時代の要請や保護者の要請に対応できなければいけません。 トラクターの目的は畑を耕すことにあります。タイヤの下は高速道路やサーキットではなく畑でなければいけません。一方、スポーツカーのタイヤの下が畑では、いかに優れた性能を持っている車でも速く走ることはできません。それどころか、畑にとっては迷惑であり、ひいては畑自体を使い物にならなくしてしまいます。もちろん、トラクターは考える学習、スポーツカーは反射式学習です。 ご存知のように、よく耕された畑では豊かな作物を収穫できますが、スポーツカーで荒らされた畑では豊作の望みはありません。それなのに、子どもにスポーツカーを与えて畑を耕せと言っている人がたくさんいるのが今の教育界の現状です。 スポーツカーを与えられた子どもは、仕方なくスポーツカーを使うために畑を固めて走りやすくするでしょう。ところが、その畑では何の作物も収穫できず、花一輪さえも咲かないのです。異変に気づいたときには、畑はカチカチに固まっていて、修復が難しい場合が多いのです。ただ、そんな場合でも畑自体は限りない回復力を持っていますから、諦めずに耕せば、少しずつですが畑は応えてくれます。 スポーツカーを自力でトラクターに改造できる子供はいません。ですから大人は子供にスポーツカーを与えてはいけないのです。 時代は刻一刻と変わっているのです。この変化を子供の教育に有効的に利用するためには保護者と教師の工夫が必要なのです。工夫次第で教育の場は劇的に変わるのです。「私たちはスピードに束縛され、習性を狂わされ、家庭のプライバシーにまで侵入し、ファーストフードを食べることを強制されるファースト・ライフというウィルスに感染しています。そこで、ホモ・サピエンスは聡明さを取り戻し、我々を滅亡の危機へと追いやるスピードから、自らを解放せねばなりません」これは、パリのオペラ・コミックで発表された「スローフード宣言」の一部です。1989年にイタリアの片田舎ブラという町からはじまった「スローフード運動」が今世界の注目を浴びているのです。「ファースト・ライフというウィルスのワクチンはスローフード」とスローフード協会の会長、カルロ・ペトリーニ氏は言っています。 このウィルスは教育界にも害を及ぼしているようです。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■もちろん、理由があります。ですが、その理由がいい理由とは限りません。特に教育方法に関しては、思いこみのオンパレードのようです。■「これだけ長く続いている方法だから、いい方法なんだ」「いい方法だから長く続いているんだ」...なんて勘違いをしていませんか? それは、その方法に代わる新しい方法、あるいは、その方法よりも効果的な方法が、今まで無かったってことに過ぎないようですよ。 漢字を何回も書いて覚える...ありえません...「イメージフィックス法:image-fix」なら、誰でも1回も書かないで覚えられます。 単純計算の徹底反復が基礎学力だ...ありえません...「デンタくん」なら誰でも、5分で無限暗算が出来るようになります。 読解力養成は読書に限る→沢山の本を読まないと読解力は育たない...ありえません...「絵コンテ読解」誰でも5分で読解力を身に付けられます。■「どんぐり方式」を知れば、「教育格差」なんてのも全く関係なくなります。そもそも、そんなものはない。つまり、大きな勘違いだってことが分かります。●学歴は財産にはならないが、 教育は財産となる。 そして、 教育とは教えることではなく、 工夫をさせることである。 従って、 教育格差など存在しない。 少なくとも 最も効果的な家庭教育には お金はかからない。 楽しく工夫させること。言葉の贈り物より※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
◆コーヒーブレイク◆...なのでコーヒーの話です。●毎朝飲んでいるコーヒーは“太陽の雫”というブレンドコーヒーです。 大事なのは最初のアロマドームです。これで、今日の味が90%決まってしまいます。■アロマドームを御存知ですか? ドリップコーヒーを入れる際に行う最初の初期設定が十分に出来たかどうかのお知らせです。コーヒー豆(挽きたての粉)に少量の熱湯を優しく注いで...待つ...すると、香り立つ柔らかなふっくらとしたコーヒー豆のドームがムクムクと沸き立ってくる。ふんわりと、はちきれんばかりに出来たら、それがアロマドームです。 アロマドームが出来れば、誰でも美味しいコーヒーを飲めます。 ですが、この初期段階でアロマドームをつくれなければ(初期設定を間違ってしまうと)、そこからは、どんなに修正しても本来の味は取り戻せません。 見かけはコーヒーですが、肝心の味は泥水のようになってしまうこともあります。 アロマドームは人間で言えば「絶対学力」にあたります。※「絶対学力」とは「人生を楽しむことが出来る、感味力に支えられた高度な理解力・深い思考力・人間的な判断力」を指します。初期設定ですので0-12才で設定は完了します。……………………………………………………………………………………写真の主のブログ...これが「裏の畑」なんですよ。いいなぁ。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■全科目に利用できる万能力・視考力 この視考力こそが何にでも(全科目に)利用できる万能力なのです。言葉の機能を正しく理解し、キチンと時期と手順を守って指導すれば、特別な訓練を要せずに誰もが十分に思考力養成を出来ます。 視考力を活用するには意識的な練習が必要です。「漠然とイメージできる」ことと「明確なイメージを描ける」こととは全く異なります。同じ力(視考力の中のイメージ再現)を使ってはいますが、応用力は雲泥の差です。だから練習が必要なのです。■イメージ再現=理解(算数)→イメージ操作(解く)■イメージ再現=鑑賞(国語)→イメージ操作(創作:作文)■イメージ再現=お手本取り込み(体育)→イメージ操作(体現)■イメージ再現=味わう(音楽)→イメージ操作(創造:作曲) 視考力を活用することで、多種多様な思考モデルを最も効率的に作り出すことができます。しかも教科に関係なく同じ力を使ってできるのです。例えば「算数:式の変換」「国語:行間を読む」■当然ですが、計算練習をいくらやっても思考力は育ちません。計算は思考ではなく作業なので思考力養成には全くならないのは当然です。作業なので結果は自動的に出ます。ですが、それは手順通りに反復作業を実行したというだけで、結果が何を意味するのかはイメージで考えるのです。作業は手順の反復なのでいつでも修得可能です。しかし、考えるには幼児・児童期に小脳に蓄えられているはずの思考モデルが必要なのです。■どうして「思いつく=絵図が頭の中に出てくる」という現象が起こりえるのでしょう。どうして「絵図で考える=分かり易い」のでしょう。 絵図だから...ですね。では、どうして「絵図だと分かり易いのでしょう」 ココがポイントです。 なぜ、文字や数字ではダメなのか。 絵図(イメージ)で考えているからです。イメージへの変換が苦手な人は「分からない」と思ってしまうのです。ですが「絵図思考:小脳思考:イメージ思考: Visual Thinking」は人間が常に行っている根本的な活動ですから100%誰でも超高速で出来るのです。つまり「分からない」と言っている人は「言葉や数字などの記号をイメージ化する練習」が足りないだけなのです。 ですから、言葉を操る前に豊富な原形イメージを体験吸収させて、言葉を扱うようになったら言葉からのメージ再現を丁寧にする時間を与えて、イメージ操作(イメージの移動・変形・連想・比較)を楽しむことが大事になるのです。こうすることで高度に抽象化された記号を自由自在に正確に操作することが出来るようになるのです。 手の指の絵図を使う(実際に手を描いてよ~くその絵を見る)と簡単に出来ます。数式は意識しません。絵図の移動・変形・連想・比較だけです。これは思考(イメージの移動・変形・連想・比較)そのものです。ですから、視算は思考力も養成できる唯一の計算方法なのです。■「視算の力」絵図は「気付き学習:脳内進化」の宝庫です。 23-8=5*3「にじゅうさん ひく はち は ご かける さん」って言える?...ピンとくる? 式の変形って習ってないから分からない...??? 確かなイメージ(絵図を描いてもいい)があれば簡単ですよ。ところが、多くの人は計算式を計算式のままで変形しようとします。式が基本?表記が簡単だから?簡単=基本ではありません。 計算では23-8=15しか考えられませんね。考えようともしません。数字しか目に見えないのですから工夫しようとも思わないし、視覚イメージで考える小脳思考が始動できない。 つまり、同じ「23-8」をしていても楽しく思考できる方法と出来ると分かっている計算を無駄に時間を使って反復しているという全く違う時間を過ごすことになる。 もちろん、いつまでも視算の練習をしているわけではありません。暗記項目も増える高学年では時間もとれません。だから低学年でジックリと体に(脳に)染み込ませて(思考モデルをコピーして)おく必要があるのです。この最も貴重な時間を、全く役に立たない(必要ならば高学年ですべき)暗記・暗算・高速計算に時間を使っている(使わせている)指導者が主流です。これでは、考えられない子が主流になるのも当然です。■計算ならば暗算を代表とする応用の利かないスキルアップ(習熟)ではなく応用の利く基本である筆算を丁寧に正確に出来ればいいですね。こうすることで反射思考の弊害(副作用)を最小限に抑えられます。タイミングを見誤ったスキルアップ指導は確実に子供の頭の進化を妨害し短絡的思考を助長する最も危険な行為となります。■感味力を育てる-全教科で視考力を活用する-「分からん帳」で小中を連携させましょう。■「受験」という教科を設定しましょう。分析演習とプランニングの練習です。相手の分析・自分の分析・対策・計画・演習・本番・反省・修正・再演習※「結果は次のプランの材料に過ぎない」ことの実感・高校受験という体験学習が非常に魅力的な科目になります。■「言葉のトリガー理論」を基本に反復を避け多種多様な思考モデル作りに専念し乳脳を健全な永久脳に育て上げましょう。■形だけの小中一貫ではなく具体的な繋がりを持たせるには「分からん帳」が有効です。「質問ノート」や「間違い記録ノート」として初見で解けなかった問題(教科書もテストも全てを対象とする)だけを、書き写すのではなくコピーして(切り抜けるものは切って)貼り付けた自分専用の弱点を集めたノート(問題集・参考書に変身する)小6は「分からん帳」推敲学年です。思い出作り学年ではありません。中1-2は入力学習方法修得時期です。中3は分析・対策方法修得時期・社会適応の演習■中高一貫は危険(飛躍的な成長チャンスを失わせる)-緊密な小中一貫が理想的●具体的な教育再建の理論と手法-4~ヒトを人間に育て上げる~■試案■小学校*クラス編成は学年別に人数を変えて全体でバランスをとる。高学年での集団授業と内容に対応できる習慣と学習方法を教える。・小1(10人)【礼儀・団体行動・多くの読み・少ない書き】※学習方法「分からん帳」※出来ることではなく分かることが大切であることを理解させる。※速さを求めない。・小2(20人)【加減】※この時期までに60人クラスになってもいいように受講訓練をする。※速さを求めない。・小3(30人)【加減乗除】※抽象思考への移行が出来るようにサポートする。※速さを求めない。・小4(40人)【応用】※抽象的なことを目で考える練習をする。※速さを求めない。・小5(50人)【応用B】※複雑な問題を忍耐強く考える力を養う。※速さを求めない。・小6(60人)【応用C】「分からん帳」演習を兼ねての総復習(終わらなくてもいい)※中学生活を意識させる。※思考は大人であることを意識させる。■※合計で210人(クラス平均35人となる)※テスト学期毎に前学期の教科書内容から問題を出して確認・家庭学習の参考とする※虫食いではなく全ての重要事項をテストする↓努力を正確に反映させる。取り(確認)こぼしのないテスト↓「分からん帳」に入れておくとテストだけで全範囲での個人の弱点ノートが出来る。【小ー中を具体的に結ぶ方法】 架け橋となる「分からん帳」 自己紹介文:保護者挨拶文:を添えて「分からん帳」提出→「分からん帳」をみれば、個人(全生徒)の本当の学力、具体的な弱点、自己評価、家庭内位置、などが具体的に分かり、すべきこともハッキリする。授業の組み立てや進度の検討、誰に注意すべきか、等も見えてくる。中2「分からん帳」を中学用に作成する長期休みのテキストも利用する中3「分からん帳」を消化する。仕上げは高校受験。高校受験を利用して材料集め、分析、対策、計画、実行、反省、再計画、実行、仕上げ。を体験する。この方法が社会での戦い方の基本となる。■中学校※頭の鍛錬期(身体の鍛錬期は高校)【クラス編成】在籍クラスの構成は自由。名前順でも月齢順でもいい。【 授 業 】科目別の完全習熟度別講義を実施。上位講義クラスでは中1から高校入試問題までを扱う。【 テスト 】学期毎に受講クラス変更テストを実施する。テストは「分からん帳」の材料にもする。【学習 方法】「わからん帳」に統一。添削専任の先生を配備(外注可)。【 進 度 】中3の7月までに全内容を終える。中3の夏休みを使って自分の進路を決定させる。進学を希望しない者も受験はする。●「言葉のトリガー理論」の理解、視考力を活用した指導、「分からん帳」と「受験科」の正規導入で事態は一変します。何の負担も変更もなく本当の学力を身に付けさせることが出来ます。豊かな感性も効果的な学習方法も同時に身に付きます。社会への対応の仕方も仕上げの受験では体験できますので、進学する場合にも社会に出る場合にも効果抜群です。●初期設定が完了する12才以前にはしてはいけない致命的で大きな勘違い1.早ければ早いほどいい(先取り:予習)×→進化妨害をする最悪の「予習」と進化を加速する最良の「準備学習」の違い2.速ければ速いほどいい(スピード学習)×→考えない頭を育てる応用の利かない「高速計算練習」と考える頭を育てる応用自在の「視算」3.多ければ多いほどいい(知識の集積が思考になる)×→単純な思考モデルの反復でしかない「知識の集積」と多種多様な思考モデルを作成する「味わい学習」4.処理速度(結果にたどり着くの)が速ければ判断力がある×→正常な感情に基づく健全な違和感がなければ人間的な判断はできない。●貧弱な評価基準に合わせた力の養成は貧弱な力しか養成できないのは当然である。同様に表面的な力しか評価できない基準に合わせていると表面的な力しか養成できないのは当然である。どんなに優秀だと評価されても評価基準自体がお粗末では実態のない飾りにすぎない。●基準にしてはいけないこと1:IQ2:脳の活性化(大脳)3:スピード4:暗記暗唱高速計算これらは全て考えない力(貧弱な学力)の養成となる※豊かな学力は味わい教育と思考力を活用しなければ楽しく簡単に実現可能である※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■年齢(進化過程)を無視した無意味な習熟は脳内進化を妨害する。※就学前:感情教育(人間的な判断の基盤となる:これがないと人間としての仕上げが出来ない)...もちろん「情緒の安定は最優先」※小学低学年:理解※小学中学年:思考※小学高学年:判断※中学生 :知識:自己確立※高校生 :社会を知る:順応性を高める※ :社会適応■判断力の養成(正しい自分の判断基準作成)が終わる12才までは見せない教育が大事です。■今までは統一理論(全教科に共通して育てるべき力とは何かという意識)がなかったので科目間でのスムーズな連携が出来ませんでしたが、このようにイメージ再現・操作が全教科に共通の力を育てるという統一理論が在れば全科目を通して一つの力の養成が可能になります。小中を繋ぐ具体的で効果抜群の学習方法は「分からん帳」作成です。学力の架け橋。特にに言葉→イメージ再現は中心となる大きな核です。この言葉→イメージ再現が確実に出来るとどのような表現も瞬時に出来る。変換すべき素のモノが確実に見えている場合は表現方法は無限出てくる。■「読み」「書き」「計算」を徹底すれば、「考える力は自然に育つ」と言う人がいます。しかし、「考える力」は考える練習をしなければ育ちません。そして、人間らしい判断力を含む思考力の養成には12年間を要します。これが「本当の学力」です。・「読める」とは発音できると言うこと・「分かる」とは発音からイメージしたものを見ることが出来ると言うこと・「考える」とはイメージしたものを頭の中で移動変形させることが出来ると言うこと 頭の中でのイメージの移動変形は、人間が出来る最速の反応です。 ですから、時間的にはゆっくり考えていても、実際に処理されている内容(イメージの移動変形)は複雑で多様です。そして、これらのイメージの移動変形の中から状況にあった(設問にあった)解決方法(答え)を選択するのです。人間の思考過程はこのようになっています。ところが、多くの人は言葉を知っていれば「分かる」と思い込んでいます。ですから、いつまでたっても考える力の養成ができないのです。人はイメージで考えているのに、伝達手段の中心は言葉となっています。そこで、言葉そのもので伝えたいことが伝わると勘違いしているのです。実は言葉はイメージを導くキッカケ=引き金でしかありません。ですから、このことに気付かない限り、「伝える力・理解する力・考える力」を養成することはできないのです。私の主宰する「どんぐり倶楽部」では、これを「言葉のトリガー(引き金)理論」と言っています。「できる」という結果ではなく「分かる」という過程そのものが大事だというのは、道徳的なことではなく学力養成に不可欠だからです。思考力養成には学習の過程で修得される、様々な思考モデルが必要不可欠なのです。様々な思考モデルは「具体的に悩むこと」によってのみ修得できます。ですから、答えではなく過程が大事なのです。子供に自信を持たせるために「できる」ようにするだけの人がいるようですが、大変お粗末な教育だといえます。「分かる」ことを実感させることで自信を持たせるのです。そのためには「分かる」とは具体的にはどういうことかを知っていなければ指導できません。知らない人は「できれば分かる」「できているから分かっている」と、トンチンカンなことを平気で言います。「読み」「書き」「計算」をどんなに徹底しても、それだけでは考えられるようはなりません。少なくとも12才未満での「10の補数(足して10までの一桁どうしの足し算も含む)と九九」以外の高速計算練習は厳禁です。高速計算のような暗記には思考モデルは何一つありません。暗記は「一対一対応」の再現練習だからです。そして、計算に使う思考モデルは「10の補数と九九」しかありません。詳しく見ても使っているのは「10までの足し算と九九だけ」という貧弱で数少ない思考モデルしか使っていないのです。ですから、どんなに高速に多量の計算問題を解いても、やっていることは10までの足し算と九九の反復ですから、思考力の素になる多様な思考モデルは修得できないのです。これだけでは、当然のことながら、思考力は育ちません。 多量の知識を与え、多量の高速計算練習をさせて「これだけ勉強しているのに、どうして考える力が育たないのだろう」と首を傾げる人がいますが、考える練習をしていないのですから思考力は育ちようがないのです。 非常に多くの問題を解けば、中にはイメージ操作(視覚イメージを再現し、移動・変形・連想・比較すること)をする子も偶然に出てくるので、その子は考える力を得ることができます。しかし、これは偶然です。最初からキチンと「考えるとはどういうことか」を教えれば子供達は100%考えることができるようになります。偶然に頼って教育をすべきではありません。思考とは様々な思考モデルを組み合わせて比較検討するものです。この時に使うことができる思考モデルの種類の多さが思考の豊かさになります。多様な考え方が豊かな思考を可能にするのは当たり前のことです。 人間が具象物を使って、思考モデルを作り出せるのは通常9才前後までです。そして、9~12才で、それまでに作って蓄積していた思考モデルを使って抽象思考をします。ですから、9才までにどれだけ多様な思考モデルを蓄積することができるかが思考力養成の鍵になります。 思考モデルは問題を解けるか解けないかではなく「どうやれば解けるかな」の「どうやれば」と迷っている時、いかに具体的に迷うことができるか、考えることができるかで決まります。 この「具体的に迷うこと」そのものが思考モデルを作っていることだからです。ですから、答えが合っていても間違っていてもキチンと考えたのであれば思考モデルはできています。思考モデルをキチンと増やすには具体的に迷う・考えることが重要だということです。 ところが、頭の中だけでは漠然としていて自分でも何をどう考えているのかよくは分かりません。そこで、考えていることを絵図で描き表すのです。すると自分が考えていること・考えていないことがハッキリします。また、考え自体も「絵図を見ること」でドンドン発展していきます。これが思考モデルを飛躍的に増加させる効果的な方法です。私が主宰する「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」を絵図で解く重要な意味がここにあります。 0~9才の間に思考モデルを作らなければ手遅れになってしまうのに、この時期に思考モデルが何も入っていない暗記や貧弱な計算をさせている教育者や保護者が大勢います。こうなると、思考モデルは子供自身が生活の中から獲得したものだけになってしまいます。残念ながら、これでは、将来(9~12才)の十分な思考力養成に必要な思考モデルとしては極端に不足しています。 また、子供の日常生活における「具体的に迷うこと」は、殆どが行動で解決できる場合が多いので意識には残りません。頭ではなく体で(経験で)処理することが多いので意識的な思考とは(視覚イメージを使う点では同じですが)異質だからです。 「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」は驚くほど多様な思考モデルを養成できます。同じ問題でも描く絵が違うということは考え方が違うということです。また、間違っても、どんなに時間がかかっても確実に思考モデルは増えていきます。悩みながら絵を描く、絵を見ながら考える、そしてまた絵を描く。どんどん思考モデルは増えていきます。こうして思考力の素を作っていくのです。数多く問題を解くことよりも数少なく丁寧に具体的に悩むことが重要なのです。これは、体験学習などでも同じです。たくさんの浅い体験よりも、少なくても深い体験の方が格段に優れているのです。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■3つの力を育てる時期と方法 教育の第一義は「進化途上のヒト(子供達)を人間に育て上げること」です。「人間」であるためには人生を楽しむことが出来るように「高度な理解力」「深い思考力」「人間的な判断力」を持っていなければなりません。そこで、これらが具体的にはどんな力であり、いつ、どのようにして育てるべきなのかの理論と実践方法を紹介します。 まず、教育を考える時に最低限必要な項目を確認します。1:感じることが出来なければ力があっても反応できないので感味力養成が重要。2:私達は言葉で理解したり考えているわけではなく、イメージで理解したり考えているので視考力養成が重要。3:多種多様な思考モデルが高度な思考を可能にするので12才までは単純思考モデルしか使わない高速多量学習は禁止(特に9才までの高速計算練習は厳禁)する。 そして、人間の性成熟年齢である12才までに「感味力・視考力」を活用して豊かな感性と本当の学力である「理解力・思考力・判断力」(高度な思考)を養成します。 人間の得意技は、視覚イメージを操作する視考力ですから、この視考力を教育に活用することが教育再建の鍵になります。 私達の文化は記号文化(イメージを文字や数字でシンボル化して表す文化)なので頭の中まで記号で考えていると思っている人も多いようですが、伝えていること、記録していることはイメージです。ですから、私達が気をつけるべき最大のポイントは「言葉→イメージ再現」「イメージ再現→イメージ操作」をする視考力なのです。■人間であるための高度な思考に必要なのは知識やスピードではなく、多種多様な思考回路(思考モデル)なのです。 知識やスピードは十分な思考回路を育て上げた後で、その回路を応用するときに与えるべきものです。この順番が逆になっていたり、同時並行的に出来ると考えていては失敗してしまいます。12才までに人間の条件である高度な思考機能を始動させることが出来なければ、正常に(健全に)感じることや考えることが出来なくなり、短絡的思考が行動と直結してしまいます。■歯が乳歯から永久歯へと進化する時期に脳も乳脳から永久脳に進化します。乳脳の主な仕事は様々な思考モデルを作り永久脳への正常な進化を約束することです。この時期の一時的な記憶量の優秀さはこの思考モデル作成のための能力であり暗記をするための力ではありません。ここを勘違いするとしてはいけない時期にしてはいけない学習を強要し正常な永久脳への成長を阻害します。機能的な発達を阻害されてしまうと自分の意志とは関係なく感じること・考えることが出来なくなってしまいます。様々な思考モデルを作るべき時期に、その能力を使って暗記暗算高速反応という最も思考モデル養成とはかけ離れた作業をさせられてしまうと、当然、貧弱な思考モデルしか使えない貧弱な頭になってしまいます。硬直的で応用の利かない短絡的思考しかできない子供大人の出来上がりです。■人間の得意技である視考力を自在に使えなければ深い思考力は獲得できない。■感じられない(感味力不足)+考えられない(視考力不足)=人間的な判断ができない(異常行動)←ALD■「全ての子供達に基礎学力を」と言いながら、学力とは全く無縁の「暗記・暗算・高速反応」を奨励している。これでは、どんなにお題目が良くても内容がお粗末なのだから結果は悲惨なものだ。現状を見れば一目瞭然である。■「短絡的思考(深く考えられない頭)」の温床は幼児・児童期のスピード学習にある。味わうことなしに健全な感情は発達しないし、健全な感情のないところに正しい人間的な判断は現れない。どんなに力があっても、感じることが出来なければ反応できないのと同じだ。感じる機能を麻痺させられては何を鍛えても繋がりはしない。■どうして視考力養成をしなければならないのか。人間だから。高度な思考には鍛えられた視考力が絶対条件なのだ。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■ショートショート:シコウリョク様「限りなき夢追い族」と呼ばれる部族がK山に、「果てしなき夢追い族」と呼ばれる部族がM山にいました。 両部族の守り神は同じで、それぞれの山の頂上には翼の形をした守り神を祭っていました。 長い間、両部族は空を飛ぶことを夢見ていました。 空を自由に飛び回ることに憧れていたのです。 両部族とも、真剣に努力していました。「限りなき夢追い族」の長は「速く走れるようになれば飛べる」と信じていました。 一方、「果てしなき夢追い族」の長は「高くジャンプすれば飛べるようになる」と信じていました。 時には両部族間で言い争いも起こりました。「もう少し速く走れれば空を飛べるんだ。もう少しで飛べるんだ」「もう少し高くジャンプできれば空を飛べるんだ。もう少しで飛べるんだ」 お互いに譲りません。この争いが起こってから、すでに数十年がたっていました。 そこへ、通りすがりの男が空からフワフワと降りてきました。 両部族は言い争いをしていて、その男がどこからやってきたのか気がつきませんでした。 その男は言いました。「君たちは空を飛びたいのかい」 すると、両部族が口をそろえて言いました。「当たり前だ。それが夢なんだ」 その男は不思議そうな顔で、「じゃあ、なぜあの翼を使わないんだい」 と山頂に飾ってある守り神を見上げました。 両部族ともいっせいに笑い出しました。「あれは我々の守り神であるシコウリョク様だ。何にも知らないんだな。よそ者は帰ってくれ」「あれはお祭りのときにだけ使う神聖なものなんだ。何にも知らないんだな。よそ者は帰ってくれ」 そう言って、両部族はまた走ったりジャンプしたりという練習を始めました。 この光景をジッと見ていた子供が男に近づいてきて、真剣な目をして言いました。「僕、空を飛びたいんだ」 帰りかけていた男は、その子に守り神を指さして言いました。「あれは翼というんだ。あれを使えば、ほんの少しの助走と、ほんの少しのジャンプで、空を飛べるんだよ」 男は、そう言ってスゥーッと空へ帰って行きました。 子供たちは、その男が翼を使って軽々と空に舞い上がるのをしっかりと見ていました。 そして子供たちは大急ぎで家に帰りました。どの家にも翼は祭られていたからです。 そうなのです。空を飛ぶには翼が必要だったのです。■視考力の芽生え「お父さん、10より大きくなったらどうすると? 足使うと?」「足ねえ。足でもいいやろうけど、ちゃんと曲がらんっちゃないと?」「そうかな? ん~(と、自分の足の指を折ったり伸ばしたりしてみて)、そうやね。よう曲がらんね。どうすると?」「どうするとって。指は10本しかないしなぁ。そうだ、ハムちゃんに指使わせてもらったらどうかな」「やだ」「どうして」「だって、噛むもん。ギーとか言って噛むんだよ。この前も、頭ナデナデしてあげようとしたら噛まれたもん。ココ。痛かった~」「お腹空いてたんやないと? よ~くお願いすればいいっちゃないと? 手ぐらいかしてくれるやろ」「やだ」「じゃあ、お父さんから頼んであげようか?」「ん~。(しばらく考えて)あっ、ダメやん」「何が?」「だって、ハムちゃん5本ないもん。指」「そうなの?」「ないない」「でも一応、頼んでみようか。ないよりあった方がいいっちゃないと?」「ダメなの。10本ないと使えんと」「そうなんだ。じゃあ、特別にお父さんの指5本だけ貸してやろうか?」「何で5本なん?」「右手はお仕事で使うから、左手だけ。どうかな」「5本かぁ。5本じゃあねぇ」「ダメかな」「あ、いい。バイバイ」「どうすると」「絵を描くからいい」「そう。できたら見せてね」「うん、いいよ。(机に向かって色鉛筆を出しながら)ウサギさんの手にしよっかな。カメさんの手にしよっかな」と、彼女は10より大きい数で困ることはなくなりました。※ちなみに、ハムスターは前足の指が4本で後足の指が5本、ウサギは前足の指が5本で後足の指が4本です。たしかにウサギさんの方がいいみたいですが、カメさんはどうでしょうか。 視考力の芽生えです。自分から絵を描いてみようとすることが視考力を使えるようになる第一歩なのです。重要なのは、「文字情報を見たときに、絵図にしてみれば分かりやすいから絵を描いてみよう」と、自然に思うようにしてあげることです。このように、切り換える力をつけてあげないと、方法を知っていても使えないことになります。だから、文章を読んで絵にするまでの過程がもっとも重要なのです。次に、その絵を使って「目で考えること」が重要なのです。どんなに優れた技を持っていても、いつ、どのように使って良いかを自分で判断できなくては宝の持ち腐れです。どんなにいい道具を持っていても、使うべき場所が分からなければ有効利用はできないのです。 ※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
2010年01月09日
■「10の補数と九九」以外の計算は暗算ではなく筆算でして下さい。(数日前の記事と部分的に重なります) よく、「いつまで指を使って計算しているの?」という言葉を聞きます。絶対に言ってはいけません。この言葉は、無知で貧弱な考えから出た最低の言葉です。教育者失格の証と言っても過言ではありません。 ところが、私は小学校の先生からこの言葉を聞いたことがあります。 文字通り呆れて言葉もありませんでした。教育の何たるかを、算数の何たるかを、計算の何たるかを、全く知らない教育のド素人の言葉です。そこには教育者としての教養を微塵も感じさせることがない殺伐とした教育観を感じるばかりでした。 現実問題としても、大学の入試でさえ計算をするときに指を使ってはいけないという決まりはありませんし、これほど子供の成長を損なう言葉はそうそうありません。指を使わないで計算できる必要は皆無なのです。もちろん、自然に指は使わなくなりますが、「指を使わせない」ようにすることとは全く違います。「指を使わせない」ことによる弊害は多岐に渡り、心・頭・体の隅々にまで悪影響を及ぼします。場合によっては一生残る傷を刻み込みます。 大袈裟に言っているわけではありません。心して聞いて下さい。 幼児・児童期の「指折り算」は健康面でも学習面でも非常に有効で大切な学習方法なのです。私は「大事な大事な指折り算」と言っています。「指折り算」は、あらゆる数や計算の概念を理解するときの最も根本的な自信の素になります。この自信を大事に大事に、出来るだけ長く持つことが、自信と余裕と満足と人間としての進化を約束するのです。「おいおい、たかだか指折り残で何を大袈裟な事を」と思われる人も多いでしょうが、ちっとも大袈裟ではありません。人間が「計算」をできるようになったのは、両手の10本指のお陰です。数式は簡略化された記号に過ぎません。実態のない(十分に感じることが出来ない)記号は自信にはならないのです。「指折り算」が圧倒的に優れているのは、体(頭)が自然に最も効果的に納得するための体感ができるからです。ですから、「指折り算」のことを「体感計算」とも言います。体感計算は飛躍的な計算力を約束するだけでなく、確かな感覚を味わうことができますので感情も安定します。人間にするための教育だから、体感が重要なのです。そして、その確かな体感さえあれば、その感覚をイメージに置き換えることは簡単に出来ます。すると、誰もがイメージ操作は超高速でできますので、計算も何の練習もしなくても超高速で出来るようになるんです。 計算の最重要項目である「10の補数」を体感計算で修得してイメージ計算まで来ると、今度はイメージを使って九九を有効利用する「三角視算表(三角計算・トライアングルナンバーズ)」に移ります。この二つをマスターすれば、あとは筆算だけで計算練習は終わりです。 何百題もの問題を解く必要は全くありませんし、タイムを競う必要も全くありません。筆算ができれば「10の補数と九九」以外の暗算は、全て不要なのです。不要と言うよりも弊害になるのでしてはけないのです。どんなお題目(自分を越える、自信を持たせる、達成感を得る)を掲げても実際に子供に与える影響は実際に子供がしている作業に左右されますので悪影響は逃れられません。その上に、「楽しく」なんていう小細工が付いてしまうと、「楽しく悪影響を与える」ことになってしまいます。 反対に、筆算は小1の一桁同士の足し算から教える必要があります。当然、指折り残で計算することになりますが、「筆算」という形は見せておく必要があるのです。「計算はどんなに簡単な計算でも『10の補数と九九』以外は筆算でする」という基本姿勢が大事だからです。このことを一年間かけて体で覚えることが出来るように環境設定するのです。 このような周到な準備が、自然に何の抵抗もなく計算力を高める仕組みなのです。先を見越した準備は、単純な前倒し学習とは全く異なり、子供の興味と才能を健全に活用できます。 私は目と指を使う日本伝統の計算機であるソロバンは好きなのですが、そのソロバンでさえも、使うイメージ操作が極端に単純なので思考力養成にはなりません。また、計算過程の記録を残すことができませんので計算練習には使ってはいけません。さらには、中学以降(「どんぐり」では小4くらいから)の計算の全てで使う分数計算(整数も小数も分数で考えると計算のルールが1つになる非常に優れた計算の考え方)は全く出来ません。出来るようになっている算盤が在った時代もありましたが今は使われていません。(→不要だからです。)※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■私は「算盤」が大好きです。機能美さえ感じます。今でも素晴らしいものと思っています。ですが、幼児・児童期(思考力養成期)の学習に(構造理論以外の実用としての)「算盤」は不要(使ってはいけないし、習熟させるのは厳禁)だという結論に達しています。...「何を大げさなことを~」「計算するときに便利だからいいじゃない」と言われそうですので、ここで検証しておきます。ここでは、物としての算盤ではなく、その先にある算盤暗算で説明します。算盤を持ち歩く人はいませんので、こちらの検証が理にかなっていると思います。「そろあん」とか「フラッシュ暗算」とか呼ばれているようですが、視覚イメージを中途半端に使った、思考力養成期には危険な計算方法と言えるでしょう。この10種類の視覚イメージが算盤で使う形です。これ以外にはありません。つまり、10個の視覚イメージを非常に単純なルールに従って(自由な動きは許されないまま)操作することの反復作業しかしません。ですから、当然ながら、せっかく視覚イメージを使っているのに、視覚イメージの自由な操作や、新しい操作をすることで生まれる新しい思考回路は微塵も生まれません。というよりも、反対に新しい回路を作り出すエネルギーを消費し、生まれにくいような考えない習慣を強化してしまいます。さらには、表面的な効率アップ(速度追求)のために1珠と5珠の間接変換を使う(1珠×4→+1→5珠)ことで、視覚イメージの最大の武器である1対1対応の自由性(柔軟性・応用性)を削ってしまい、硬直した単純計算だけを高速ですることしかできないものになってしまっています。これでは、思考回路網を張り巡らせるために用意された時期には使えません。これが、算盤という「考えなくても誰でも計算の結果が自動的に出てくる道具」が持っている宿命的な「学習における欠陥」です。ですから、好きでも教えないのです。指算盤も全く同様の動きで両手で99までを表現できますが、使いません。使うのは、誰でも何処でも直ぐに体感しながら使える体感計算・指折算(→デンタくん)です。■昔の算盤は下記のように1珠と5珠の直接変換を使うものもありました。...算盤好きなので実物も見てきました。佐賀県の小城羊羹の店の2階にある博物館に陳列してあります。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■「分かる」から「考える」へ 「この子は考える力がない」などと言いますが、考える力のない子はいません。考えることができない子は考える方法を教えてもらっていないのです。これは教える方の責任です。誰もが考える力は持っているのに、使い方を教えてもらっていないのです。また、小学校の時に、この「考える方法」を教えてもらっていないと「考えることができない頭」のままで一生を終えることにもなりかねません。この意味でも、小学校教育の見直しは最重要課題なのです。 「分かる・理解する」とはイメージ化したものを体感して納得するということでした。つまり、イメージを作ることができれば分かるのです。ですが、分かっても考えていることにはなりません。考えるとは「イメージを操作すること」です。つまり、「考える」とはイメージを変形したり比較したり順番を変えたり見方を変えたりすることなのです。そして、このイメージ操作を頭の中だけでしようとすると、大きな個人差が出ますが、イメージを書き留めると個人差は限りなく小さくなります。計算と同じです。難しい暗算(983008÷26=37808)では、できるできないに個人差が出ますが、筆算ならば誰もが簡単にできます。頭の中でイメージを維持しながら操作する必要がないからです。この「イメージを維持しておく」という力は大量のエネルギーを消費しますので相当の訓練を要します。ですから、大きい桁の暗算などができると、一見「頭がいい(凄い)ように見える」のですが、記録することができる現代人にとっては不要なことなのです。特技や趣味や芸事として身に付ける分には異論はありませんが、学校で学習させるようなことではありません。学習させるべきは記録の仕方(算数なら筆算の書き方)なのです。 簡単に整理すると「分かる」とは、頭(体)が納得(体感)できるイメージを作り上げることであり、「考える」とは、そのイメージを操作して移動や変形をさせていくということ。ですから、数学や体育などの区別無く、全ての学習では「イメージ化の練習」と「イメージ操作の練習」が必要であり効果的なのです。さかだちが「分かる」とは逆立ちしている状態の体感イメージを持つことができることであり、さかだちが「できる」とは、その体感イメージを自力で再現できるということです。自力で再現するには練習が必要ですが、それは必ずしもその時にできなければいけないことではありません。体感イメージ(自分だけのお手本)が大事だからです。これさえあればいつでも自分で練習できるからです。小学校時代には「できる」ことが重要ではなく「分かる」ことが重要な理由の一つです。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
2010年01月08日
■もう一つのイメージトレーニングを紹介しましょう。これは体操などでよく使う方法です。今までにやったことのない動きをする場合に理想的な状態を体で先に体感してイメージを確立してから練習するという方法です。この方法は、逆上がり(鉄棒)、開脚跳び(跳び箱)、逆立ち(マット運動)など全ての運動に有効です。逆立ちを例にすると、まず、先生が補助しながら理想状態(逆立ちして足を揃えて伸ばして静止させた状態)を作り、その時のイメージ(体感イメージ)を頭(体)の中に定着させるのです。生徒には、このイメージを再現するような動きを追うように指導します。これが最も効果的な指導方法です。どうして、この理想的な体感イメージを持つことが最も効果的かというと、それは最も確実な自分の「お手本」を常に持っていることになるからです。練習しながら、このイメージ(お手本)に自分の状態を近づけることで逆立ちは簡単にできるようになります。小学校2年生の子が、1時間ほどでピタリと逆立ちして静止したときには驚きましたが、確かな体感イメージを持たせれば難しいことではないのです。自分が持っているお手本の体感イメージを再現できるように体を動かすだけでいいのですから1人でも正しい練習ができるのです。反対に、この正しい体感イメージがないままに練習すると何百回何千回と練習しても一向に上達しません。自分のお手本がないからです。お手本は常に参照できるところである頭(体)の中になくてはいけないのです。漢字の練習の時も、瞬時に正しいイメージ(字形と筆順)を確認できるようにお手本は常に真横に置いておく理由と同じです。 体感イメージを利用できるのは、もちろん体育だけではありません。体を動かすことなら何にでも(指先のことでも)応用できます。「毛筆」なら、筆を持った生徒の手に先生の手を添えて一緒に筆を動かすことで体感イメージを作ることができます。字を綺麗に書かせたいのなら家庭で手を添えて指導すれば簡単に上達します。「音楽」なら、タクト(指揮棒)を持った手にカラヤンが手を添えて指揮をしてくれたら私達は限りなくカラヤンを体感できるでしょうし、タクトの存在理由も分かるでしょう。「工作」ならノコギリや彫刻刀を一緒に動かせば力のいれ具合や角度の付け方なども体感イメージとして伝えることができます。「家庭科」なら一緒に鍋を振ったり針を動かしたりすることでお手本となる体感イメージを残せます。どの教科でも体を動かすものには、まず、理想的な体感イメージを意識的に持たせるようにすることが最も大切なことなのです。この個人別の「お手本」を一人一人に持たせることが教育者の責務です。何かができる、できないは別の話なのです。余談ですが、実はその人にピッタリの素敵な笑顔でも、理想的な笑顔をしているときの体感イメージを持って練習することで、その素敵な笑顔を修得できるのです。演劇の世界などでは古くからなされている一般的なことです。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■イメージトレーニングと無意識の行動 次に無意識の行動にイメージトレーニングが大きな影響を与える理由を考えてみましょう。 無意識の行動とは視覚イメージの後追い行動です。頭で瞬時に再現された視覚イメージを体が真似しているのです。ですから、意識よりも素早く反応できるのです。無意識と言うよりも体が視覚イメージの後追い(真似)をしている現象なのです。視覚イメージの再現速度は人間の反応の中でも最速ですので様々なパターンを瞬時に再現できます。ですから、刻一刻と変わる状況にもトレーニング次第で瞬時に対応できるようになるのです。「無意識の中にも視覚イメージありき」ということです。体はイメージを追う(真似る)習性があります。ですから再現イメージは理想的なイメージであることが必要ですし、正確で現実的な方がいいのです。反対に失敗のイメージややってはいけないイメージを再現していると無意識に反応するときには、その悪いイメージを真似てしまいます。これが悪いイメージトレーニングをしてはいけない理由です。このことは子供の教育方法や一生の考え方にも大きなヒントとなります。特に十二歳以下の子供に反面教師は通じない、してはいけない、見せてはいけないということの理由の一つにもなっています。 咄嗟の判断という言葉も同じです。言葉の上では「判断」といいますが意識的な判断とは異なり、体が反応したことを意味しています。何に反応したかというと視覚イメージにです。この「体は視覚イメージの真似をする」という習性を利用すると、瞬間的に反応しなければならないスポーツなどでは絶大な効果を発揮します。また、咄嗟の判断でとった行動は覚えていないことが往々にしてありますが、意識される前に再現された視覚イメージに従って体が反応するのですから当然のことです。 野球で言うならば、内角ストレート高めのストライクゾーンに意識的にヤマをはっていた打者が、予想外の外角低めのボール球にでも正確に反応してヒットを記録することができる場合があります。意識外の行動ですから無意識の領域ですが、イメージトレーニングとそのイメージ通りの行動を再現できる(真似できる)運動能力を育てていれば難しいことではありません。これらのことは古くから言われていることで新しい理論でも何でもありません。私の愛読書である「葉隠」に至っては三百年前に書かれた優れたイメージトレーニング指南書です。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■見せる教育・見せない教育 教えるだけ、見せるだけが教育ではありません。「見せない教育」もまた、「見せる教育」と同じように重要なのです。特に視覚イメージは、良い方向にも悪い方向にも絶大な影響力を持っていますので、悪い方向に影響を及ぼしそうなものは「見せない」ようにすることも必要な教育となるのです。時期としては、判断基準を作る過程にある小学生の時期が最も注意を要するでしょう。「分かる」ということは、「イメージできる」ということでした。ということは、再現してほしくない、あるいは肯定してほしくない映像(視覚イメージ)を見せなければ、どんなにそのイメージを喚起するような言葉などによる情報が入ってきても、「イメージできない」のだから「分からない」のです。また、イメージは言葉を添えられていなくてもココロに保存されますから、とくに児童期に与えるイメージには注意が必要です。つまり、「初めにイメージありき」なのです。そして、ココロに保存されたイメージに対して、言葉は後から無限に添えることができるのです。ですから、順番を間違える(先に言葉だけを覚えさせたりする)と、時間の無駄になるだけでなく、教育をしているつもりが教育のチャンスを潰していることにもなりかねないのです。 この「目に入ること」の重要性と危険性を十分に認識していないと、とんでもない的外れの教育をしてしまうことになります。というのも、視覚イメージは言葉を引き金として再現されることが多いのですが、視覚イメージと言葉は一緒に保存されているわけではないからです。視覚イメージは言葉と切り離されて保存されているのです。ですから、教育の現場では視覚イメージが一人歩きする場合があることを考慮しておく必要があるのです。子供に判断力が育っていない段階で悪い例を見せると、悪い例の「悪い」がなくなって、ひとつの「例」として保存されてしまうからです。言葉よりもイメージのほうがより直接的であり、影響力が強いためです。花を大切に育ててほしいということを伝えるつもりで、「花の茎を折ってしまうと枯れてしまいます。だから、花を扱うときはやさしくしましょう」と言いながら、茎が折れている写真と花が枯れている写真を見せ続けると、茎が折れているイメージ、花が枯れているイメージが言葉から切り離されて、保存(肯定)されてしまうのです。 さらに、最近の幼稚で残忍な犯罪を考えると、幼児期に育てるべき判断力を育てられていない状態で12歳を過ぎてしまっている子供大人が異常に多いように思われます。考える力を育てることができないと、判断力は育てられません。そして、判断力がないままに大きくなって活動範囲が急速に広がると入力される情報が急激に増加しますので「見せない教育」は通じません。すると、判断できないものを歯止め無く目にする(入力する)ことになります。判断力のない状態では見たものやイメージしたものは善悪の区別無く頭(心)に保存され何の抑制もなく再現されます。そして、体はその再現イメージを無意識に真似するのです。最悪のイメージトレーニングです。このような危険防止のためにも幼児期での「考える力」の養成は急務であり教育の原点でもあるのです。今の子供たちを見ている私の実感としては、小学校五年生くらいまでに、この力を付けてあげないと手遅れになると感じています。そういう意味でも小学校時代に育てるべき力は判断力の素となる「考える力」なのです。言い換えるならば小学校時代に育てるべき力は、小学校時代に目にするものに対する判断力ではなく、「見せない教育」が通じない中学以降に急激に増加する情報(恐怖映画や種々雑多な漫画や雑誌も含む)に対する判断力の素となる「考える力」なのです。小学校時代にこの力を育てられないと拠り所のないままに一生を過ごすことにもなりかねません。自分の価値基準(判断基準)がなければ他人の価値基準(判断基準)を使うしかないからです。この意味でも、小学校時代の教育は一生を左右するほどに大切なのです。 アシュレイ・モンターギュ『暴力の起源』(The Nature of Human Aggression, 1976)の中に興味深い記述があります。「ロッド・プロトニクによると、現在のところ攻撃的反応を学習する機会のなかった動物に対する脳刺激で攻撃的反応を発生させた実験はないという。(中略)リチャード.D.サイプスの130の異なった社会についての調査によると、好戦的行動が認められるところでは、戦闘的スポーツが典型的に認められ、戦争が比較的まれなところでは、戦闘的スポーツが欠落している傾向がある。」 全ての教育者は、注意深く参考にすべき貴重なデータだと思います。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■体は頭の真似をする 私達の頭は、見えたものをまずは受け入れるようにできています。なぜなら、見えているものを受け入れなければ、瞬時に反応したり、行動したりすることができないからです。判断するのは、受け入れた後の意識的な選択になります。判断をする前に目の前のものを受け入れるのは、危険回避(生命維持)のためにも必要なことなのです。したがって、それが実物ではなくても、目に入れば実際にある物だと思ってしまいます。ですから、実際にはない物でも合成写真などを見続けていると、「あり得る」「あっていいはずだ」「あって当たり前だ」「絶対にある」「あるべきだ」「なければならない」ということにつながっていく可能性を持っているのです。最近でも、人が空を飛ぶ場面を見続けた子供が家の屋根から実際に飛んでしまって大怪我をしたというニュースがありました。これは単純に真似をしただけかもしれませんが、頭(体)が「人間は空を飛べる」ということを受け入れた結果による行動かもしれないのです。また、入力量を多くすると、意識しないうちに「していいんだ→すべきだ→しなくてはならない」となることも容易に推測できます。よく、映像は頭の中に焼きつくといわれますが、これは「人は目で見たことを無意識のうちに受け入れてしまうようになっている」からなのです。そして、それが原形イメージとなり、その後の反応の素になるのです。だからこそ、豊かな原形イメージを育てなければいけない時期に暴力的な映像を見せてはいけないのです。子供が目にした映像は、好むと好まざるとにかかわらず受け入れられ、原形イメージとしてココロに保存されてしまうからです。アメリカなどでは子供に暴力シーンを見せないように制限しています。これは立派な教育方針です。日本にも「子供の前でみっともない」という言い回しがありますが、この感覚は非常に大切なのです。見ることができるからといって、すべてを見せていいわけではないのです。ちょっと確認してみましょう。例えば、私達は長い間ずっと目の前にあった物がなくなると、「どうしてないの?」と思います。「あるのが当たり前なのに」「あるべきなのに」「なければならないのに」という感覚が生まれていたからです。この長い間目の前にあった物が花だったら素敵ですが、それが拳銃だったとしたら、ゾッとします。(この場合の拳銃と同じ位に危険なことが幼児期の高速学習・特に高速計算です。速さを求める学習は、実は考えない訓練・判断しない訓練をしていることになるからです。考えずに条件反射的に処理しないと速くならないからです。)※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■学力の素 学力の素と言うと何か商品のようですが学力の素はどこにも売っていません。なぜなら、学力の素はタダだからです。学力の素は体験的に入力されたイメージだからです。学力の素は言葉だと言われますが、表面的な言葉と読んでしまうととんでもない誤解を生みます。そこには深い意味が隠されているのです。言葉だけを独立して覚えても意味がないし使えないのは前述の通りで、イメージに添えられた言葉でなくてはイメージを再現できないので使いものになりません。次の図表を見て下さい。10個の要素を持っている情報はココロで10個に分けられて保存され、連絡網で結ばれます。ところが2個の情報しか持っていないならば2個です。もちろん体験的情報は多数の要素を持っているので多数の情報網を作ることができます。知的情報とは雲泥の差です。このように体験的学習は格段に多量の情報を分解してイメージ処理しているのです。 イメージできない言葉は理解できない分からない。だから、豊富な言葉がタグのように付いている原形イメージを育ててあげることが学力の基礎となる。「教育は言葉を添えて目で分からせる」例えば「雲があるね」ではなく「フワフワっとした綿飴みたいな雲がポッカリ浮かんでいるね」と言ってみる。 このようにして、豊富な言葉を添えた原形イメージを蓄積することが「分かる・理解する」ことの基礎になるのです。そしてココロを作るのです。体験が大切だと言われる理由は原形イメージを作り出す最も効果的な方法だからなのです。そして、体験を効果的に学力の素に変換するには言葉を添えてイメージの再現性を高めておくことが必要なのです。この再現力を私達は学力と呼んでいるのです。ですから「学力」は豊かな言葉を添えて様々な体験をさせることで育っていくのです。入力にも出力にも言葉はよききっかけとなるのです。体験が同じでも豊かな言葉を添えることで計り知れない応用が利くようになるのです。なぜなら、人は言葉を最も頻繁に使うからです。特に勉強するときには基本の基本となるのです。ですが、だからと言って、目に付くところに漢字表や年表などを置くことは止めて下さい。目に付くところには花や素敵な写真を置いておくことが大切です。すると、説明しなくても花がないと寂しくなり花を大切に思うようになるのです。これが教育です。計算や漢字ではココロを育てる教育はできないのです。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■言葉のトリガー理論 「言葉はイメージを導くための引き金(トリガー)である」というのが「言葉のトリガー理論」です。私達の頭の中にあるのは言葉ではなくイメージだということです。言葉は本体(感情再現or感覚を伴うことが出来る視覚イメージ)を引っ張り出す記号に過ぎない。・本体は原形イメージであり、原形イメージは、五感で再現できる感覚を伴っている再現可能な豊かなイメージでなければならない。・トリガーだけを、どんなに増やしても、豊かな原形イメージがリンクしてい(再現できる状態で)なければ全く意味がない。また、物理的にも高速多量の入力は不可能である。 つまり、高速多量に入力していると思っている知識はトリガーだけという思考の源にはならないモノだけということだ。 だから、幼児・児童期の知的系統的教育は「百害あって一利なし」なのである。 逆に、言葉というトリガーが少なくても(極端な場合にはゼロでも)本体が豊かであれば(感じ味わうことを意識していれば)それらを表すトリガーは、後から幾らでもリンクさせることが出来る。重要なのは、どれだけ深く繊細に感じ味わうことをしてきたか、そして、意識してきたか(これが味わうということ)である。・読解力とは、視覚イメージと言葉(国語なら日本語、算数なら式、理科なら実験や自然)を自分が納得できるレベルでリンクしているかということである。・雨が降った:y=ax+b・大粒の雨が降った:y=2x+b・大粒の雨が一粒降った:y=2x+3・大粒の雨が私の額に一粒降った:y=2x+3(0<x<5)※どちらも情報再現(殆どは視覚イメージ再現)のための記号(手段)である。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■算数的内容の理解方法とは「視覚イメージの細部:単数の視覚イメージを細部に注意して見ている」を意識することです。そして、イメージ操作を加えます。イメージの移動・変形・連想・比較ですね。このイメージ操作を算数の言葉にしたのが計算式です。文章→計算式ではすぐに行き詰まってしまいます。文章→絵図(絵図の変形)→計算式は何にでも応用が利きます。……………………………………………………………………………………………■国語的内容の理解方法とは「視覚イメージの流れ:複数の視覚イメージを細部に注意することなく流している」を意識することです。すると、細部に注意しないことで流れを意識しやすくなるのです。「内容」と呼ばれているのは「流れ」のことです。ですから、国語の読解力とは視覚イメージを操作ではなく再現とその移り変わり(流れ)に重点を置くことなのです。……………………………………………………………………………………………■使う能力(視覚イメージの再現と操作)は同じですが注意すべきポイントが違うのにポイントのシフトをしていないからです。ギアチェンジをしないで山道と高速道路を走ろうとしているから効果が現れないのです。■楽しい「どんぐり倶楽部」の「良質の算数文章問題」という中間形(プラットホーム)を知っていると修飾の少ないの数学にも修飾の多い文学にもどちらにも簡単に移行できます。視覚イメージは思考のプラットホームなのです。ですから、どんぐり倶楽部には国語の問題はないのです。テスト用(受験用)には設問解釈という学力を点数に変える方法を別に学習しますが、これは学力養成ではありませんので不要な人はしないほうがいいです。……………………………………………………………………………………………<表現力も全く同じ力:視考力を使います>視覚イメージの言葉などでの説明が表現力です。ですから、要約する場合なら視覚イメージを簡略化してその簡略化した視覚イメージの説明をすればいいのですし、長文ならば視覚イメージを細部まで表現すればいい。感情なら人物の視覚イメージを良く見て説明すればいいのです。変化させるのは言葉ではなく視覚イメージなのです。言葉は視覚イメージの説明に過ぎません。説明する対象を変えれば説明の仕方は当然変わるのです。それなのにイメージをそのままにして表現だけいじってもそれは言葉の言い換えであるだけです。つまり、表現力養成とは実は、豊かな視覚イメージを味わうことなのです。すると、伝えたいことが出来たときに、その伝えたい豊かな視覚イメージをどうやって表現するか・変換するかを自力で工夫します。それが、表現形式となります。既存の表現形式を試すこともあるでしょうが、最終的には作り出す必要があります。そして、そのためには、豊かで確かな自分の視覚イメージが必要なのです。従って、本当の表現力養成もまた、感じること、味わうこと、視覚イメージを再現して楽しむこととなります。全ては一つの力・視考力養成につきるということになります。もちろん、感味力の保持は大前提です。……………………………………………………………………………………………算数と国語+α...使うのはみんな同じ力※日本ブログ村に参加してみました。このブログが参考になりましたら、下記のバナーを3カ所1クリックお願いします。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
2010年01月07日
■幼児教育で使われている教具の最大の欠点は量産品であるということに集約されます。 つまり、教える方や販売する方にとっては都合のいいものですが、受けとる方(子供自身)にすると、自然物と比べて格段に貧弱な個性のないモノであるということです。これは、子供の同時並行的に進行する進化の中でも、最も大事な多くの種々雑多な具体物から共通点を見いだして統合してゆくという帰納法をマスターする思考回路作成のチャンスを奪ってしまう危険性があるということです。 一目見ただけで整然と分かるように、初めから整理されていなければ受け付けない(思考対象にしない)という致命的な「(ゼロからの自力での)思考を億劫がる癖」を育てる可能性が大いにあるのです。 基本的に、生きた日常生活の中の遊び(テレビゲームなどの人工的な遊び[特に人工的に時間を制御されているもの]は除く)を通して生き生きと吸収できることを、「教具」を使ってさせる積極的な意味(敢えてすることのプラスの意味)は厳密に考えると一切ありません。 これ(表面的なデキルデキナイでは結果的に同じ現象になること)が、本当の「遊び」の中でなされる場合は、自力での「気付き」と「発見」の連続の中で、楽しみながら豊かな感覚と同時に応用の効く本当の力を獲得していきます。大切なのは、自力での「気付き」と「発見」なのです。例えば、大きさが違う石でも何個か分かること(に気付くこと)が大切なのに、同じ大きさの物でしか数が分からなくなる危険性を持たせることに意味はありません。ですから、基準をブロックやドットや玉(珠)などにしてはいけないのです。※もちろん、十分に「遊び」の中で味わった後ならば、整理する意味で教具を使うことは効果があります。しかし、これは日本の小学校で十二分になされていることですので、家庭学習では全く必要ないということになります。必要なのは、整理するための授業の前にキチンと遊ぶこと、つまり、先行学習ではなく準備学習となる「本当の遊び」を味わっておくということです。■「どんぐり倶楽部」には「不要なものは作らない」という不文律があります。例えば「九九表」にしても「どんぐり倶楽部」では「三角視算表」という36個しか使いませんし、漢字の練習に使う「塗り絵漢字筆順帳」も1年生用しかありません。不要だからです。幼児・児童期には、不要なものを使って、貴重な時間の浪費をしている暇はありません。何といっても、一生使う思考モデル(思考回路)を作る時間なのですからね。※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
■「数量感覚を育てる」というお題目をよく耳にします。これは「本当の数量感覚を感じる」にしなければ勘違い教育の先駆けとなってしまいます。悪くすると、似非数量感覚が育ってしまい本当の数量感覚は使われなくなってしまう可能性さえあります。「何を言ってるんだ?」...でしょうか。 簡単に検証できますので、今この場で検証してみましょう。今回は数量の「数」を見てみましょう。 勘違いの発端は、私たちが、物を触れば、個数が分かるとか、見れば個数が分かるとか思い込んでいることにあるようです。 私たちは触っても、見ても、個数は分からないのです。ここでいう「分からない」は実感できないという意味です。幼児・児童期の学習は体感学習でなければ意味がありません。というどころか、全ての基礎となる感覚養成ですので、この感覚養成が勘違いをベースに育てられてしまうと限りない弊害を招くことになります。 では、まず、「触れば分かる」の勘違いを検証しましょう。私たちの感覚(触覚)の中では、認識する(対象を判別する)点においては、指先が最も優れています。敏感さから言うと粘膜ですが敏感すぎても意識的なコントロールが出来ないので認識することにおいては劣ります。そこで、指先を使った実験です。「触れば分かる」...本当でしょうか。物があるのは分かります。その材質もかなり高度に分かります。記憶にある物でしたら一部分を触っただけでも全体を再現することも出来ます。ですが、個数は...分かりません。触って分かるのは 1.寒暖 2.圧 なんです。この2点においては非常に高度な分析が出来ます。「1.2.から→痛み」も感じることが出来ますが、今は検討対象にはしません。従って、凸凹や材質の差異は分かります。ですが、個数は...分かりません。 では、検証します。箸か鉛筆か爪楊枝を5本ほど用意します。目を閉じて、指先で材質や表面の凸凹を確認します。よく感じることが出来ると思います。では、数本をまとめて、指先に当ててみて下さい。何本が当たっているのか分かりますか?感じますか?...無理です。感じるようには出来ていないからです。通常は10本の爪楊枝で検証します。全く分かりません。「分かる」と言う人の場合でも、よく説明してもらうと、数を感じているのではなく、押されている面積から受ける圧と一本当たりの面積から受ける圧を比べて大体「~倍なので~本かな」という具合です。 次に、「見れば分かる」の勘違いを検証しましょう。これも爪楊枝を使います。本来は、竹籤の長さを変えて10本作って使う方がいいのですが、今の時代は竹籤が手に入りにくいので爪楊枝にします。数本を目の前に並べます。何本か見て分かりますか?殆どの人は「分かる」と言うでしょう。では、右側に数本縦に並べて、左側に数本横に並べて、置いたものを見て下さい。。何本か見て分かりますか?...数えていませんか?...つまり、分からない、感じられないということです。...無理なんです。感じるようには出来ていないからです。 ところが、確実に分かる(感じる)方法があるんです。そう、指そのものを使う(感じる)ことです。人間の部位で10を感じることが出来るのは指だけです。逆に言うと、指が10本だったので10進法が出来たのですから、指だけが唯一の数を感じることが出来る部位であることは当然であり自然なのです。 ところが、教育界ではどうでしょうか。「いつまで指を使っているの」という、幼児・児童期には絶対に使ってはいけない禁句をよく耳にします。勘違いが常識化しているからです。 まずは、御自身で検証してみて下さい。※ちなみに、私自身は、一度感覚を失い、その感覚が再生する(再度発現する)過程を2002年~現在まで毎日実感していますので気付いたまでです。<関連記事:指折算:他のブログより>驚き!感激!■もちろん「指折算」は「デンタくん」に進化し、必要ならば「横筆算」も瞬時に進化します。「指折算」→「デンタくん」→「横筆算」<関連記事:日記より>※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
<どんぐり倶楽部の掲示板より>■「百玉そろばん」について……………………………………………………………………………………………[2247] 投稿日:2006/02/07(Tue) 00:07 [関東] いつも掲示板を読ませていただいています。幼稚園年長の男の子の母親です。お忙しいところすみませんが、先生のご意見をおきかせくださると有難いです。「百玉そろばん」がうちにあるのですが、どんぐり問題の数が多くなってくると、絵ではなく百玉そろばんを使って考えたがりますが、例えば<0MX89:年長さん向け...どんぐり問題>赤い花と白い花があります。合わせるとみんなで24本あります。また、赤い花は白い花より6本多いです。では、白い花は何本あるのでしょうか。という問題で、最初に24個の玉を用意しておいて、その玉を何度も動かして組み合わせてみて、9と15という組み合わせにすれば一方が6多くなる、ということに気付くという具合です。私としては、楽しんで絵を描いてほしいなあ・・と思い、答えを出すことを急かしたりしているつもりはなく、「答えではなくて絵が大事なんだよ」と言っているのですが、息子は、答えを早く出したい、絵をたくさん描くのが面倒、そんなにたくさん絵を描かなければいけないのならやりたくない、という感じなので、ついついそろばんでやらせてしまっています。(問題を考えること自体は好きな様です。絵を描くことにはあまり興味がないようで、ごくたまに描く程度です。工作は大好きでほっておいても自分でしょっちゅう何か作っているのですが・・)。ちなみに、今まで、息子に早期教育に関するものや公文などはやらせていません。こういう場合、絵に描かずにそろばんを使っても問題ないでしょうか。それとも、やはり絵を使って解かせたほうがいいのでしょうか。絵を描いて解くのが面倒、という状態は年長児として問題ありでしょうか・・・(私の接し方が息子をそうさせてしまっているのでしょうか・・・)。<返信&アドバイス>※日本ブログ村に参加してみました。 このブログが参考になりましたら、お手数ですが、下記のバナー3カ所を1クリックお願いします。※どんぐり倶楽部の公式サイトは下記よりどうぞ
2010年01月06日