論語:子貢が曰く、如《も》し能く博く民に
子貢《しこう》が曰《いわ》く、如《も》し能《よ》く博《ひろ》く民《たみ》に施《ほどこ》して能《よく》く衆《しゅう》を済《すく》わば、如何《いかん》。仁《じん》と謂《い》うべきか。 何《なん》ぞ仁《じん》を事《こと》とせん。必《かなら》ずや聖《せい》か。堯《ぎょう》も其《そ》れ猶《な》お諸《こ》れを病《や》めり。夫《そ》れ、仁者《じんしゃ》は己《おの》れ 立《た》たんと欲《ほっ》して人《ひと》を立て、己《おの》れ達《たっ》せんと欲《ほっ》して人《ひと》を達《たっ》す。能《よ》く近《ちか》く取《と》りて譬《たと》う。 仁《じん》の方《みち》と謂《い》うべきのみ。(雍也第六) <訳>子貢《しこう》が[仁のことをおたずねして]もし人民にひろく施《ほどこ》しができて多くの人が救《すく》えるというのなら、いかがでしょう。仁といえましょうか。」といった。 先生はいわれた、「どうして仁《じん》どころのことだろう。 強《し》いて言えば聖《せい》だね。 堯《ぎょう》や舜《しゅん》でさえ*、なおそれを悩《なや》みとされた。そもそも仁《じん》の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行き着きたいと思えば、人を行き着かせてやって、[他人のことでも自分の]身近にひきくらべることができる。[そういうのが]仁のてだてだといえるだろう。」 *堯や舜でさえ:堯・舜は古代の理想的な聖天使。<こころ> クリックお願いします。m(_ _)m 人気ブログランキングに参加しています。 どんぐり学園の公式ホームページはこちらです。