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人生3万日しかない(土曜日)

2014.06.11
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カテゴリ:哲学
戸田山和久『哲学入門』読書ノート(1)の続き。

4.情報の自然化

シャノンの情報理論を持ちだして情報量から情報内容への展開をしているが、あまり意味があるとは思えなかった。次の引用コピペだけで十分だろう。

情報の流れとしての自然
世界に対峙しそれを認識する主観という図式を廃し,「情報の流れとしての世界」という見方を提案
こうした世界のもとでは,この世に起こるさまざまな現象はすべて情報の担い手として見えてくる.しかもそれは,特定の解読者に解読してもらうことを必要としない.ドレツキは,情報の発信者,解読者という心をもった主体の存在を前提せず,出来事をじかに情報の担い手と考え,出来事の継起を情報の流れとして捉える.太平洋上のある場所で台風が発生したという出来事は,それじたいで,その場所の気圧が非常に低いという情報を担っている.このことはまったく客観的な現象だ.この情報はさまざまな他の出来事へと流れ込む.付近の島が逃げ出すという出来事に流れ込み,人々が漁船をしっかり結びつけるという出来事へと流れ込み,それからさらに,他の人々が非常食を点検するという出来事へと流れ込む.自然界ではこのように出来事から出来事へとたえず情報が流れている.(戸田山二〇〇二,八四-五)(pp.56-57)


要するに、解読者を前提としない情報、出来事から出来事への流れを情報と捉えるのだ。これは(実は俺も)以前から考えていた。

全てはコト(モデル)、コトだけれどそこからモノ(物理的実在)は切り出して理論を構築しようということ

俺は現象、全ては主観。戸田山哲学と現象学(真理より道理、実在より現象)がここに見事につながったのである。

5.表象(志向性)の自然化

論理が(俺には)煩瑣すぎて追えなかったので、コピペに頼ろう。

志向性の2つの特徴
(1)「について」性
(2)間違い可能性
ドレツキの情報理論は、(1)だけに着目したもの
ドレツキ的な意味で情報を伝える記号を自然的記号と呼ぶ。
しかし、自然的記号は生物にとっては使い勝手が悪い。条件付き確率が1っていうのが厳しすぎる
そこまでは厳しくないが、偶然の一致でもないような緩やかな「つながり」がいい
局地的反復自然記号というのが、生物にとっても使いやすい
ドレツキは、局地的反復自然記号を生みだすメカニズムによって生じたのが志向的記号と考える
これに対して、ミリカンは記号消費者の観点を入れなければならないとする
記号消費者のために真なる表象を生みだすのが、志向的記号生産者の機能・目的となる
結果として、自然的記号を生みだすことになるが、それは目的ではない
消費者という視点を導入することで、ターゲット固定問題や抽象的な対象の表象の問題が解決できる
自然的記号は、入れ子状になってて色んな情報を同時に運んでるけど、志向的記号は、消費者が利用するために作られるので、消費者が利用したいものだけを担っているから。
伝統的哲学は、因果性を原理とする物理世界と志向性を原理とする精神世界を分けてきた
→志向性を自然界の中に入れる(自然化)


しかし、志向性をうまく自然化できているのか否かようわからん。生き物の表象は志向性を持っていると端的俗流理解に留めておこう。ところで、ミリカン『意味と目的の世界』の訳本があって、

本書のポイントは、自然主義の記号論にあり、人間の言語をモデルに記号を考える従来の発想に対して、著者は、原始的な生物もまた記号を用いて生命活動を営んでいると考える。たとえば、ある種のバクテリアは酸素の多い海水が苦手なので、細胞内の磁石が示すN極の方向へ動くことによって、酸素の少ない深い海へ移動できる。この場合、磁石のN極の方向と、酸素の少ない海水とは、因果関係で繋がっているわけではないので、この磁石は酸素の少ない海水のありかを「表象する(表現する、指示する)」原始的な自然記号として機能している(p61)。我々は人間のいない原始の地球では、自然の因果関係だけが働いていると考えがちだが、そうではなく、原始的な生命の中のある要素が、他の何か別の要素を「表象する(表現する)」記号として働くことがありうるのだ。このように考えれば、原始の生命から動物を経て人間の記号や思考活動に至る全体が、「表象(表現)」の進化論として捉えられる。

と感想記事もあるので俺の俗流理解でも大きな間違いではないだろう。

6.目的の自然化

この章も具体的理解できなかったのでコピペで済ます。
201406160719_1437_iphone.jpg

「オシツオサレツ表象」(ミリカン)=記述面と指令面が一体化している表象
記述面と指令面の分化
「準事実的表象」
(1)同一の対象を記述する表象(複数の知覚から同一の対象であることがわかる)
(2)空間的配置
(3)時間的配置
目標の表象と知覚表象を比べるために、同じコードを使うようになる

「ダーウィン型生物」「スキナー型生物」「ポパー型生物」(デネット)
ポパー型生物のようにシミュレーションするためには、否定形が使える表象が必要(ミリカン)→文に似た構造が必要


7.自由の自然化

決定論(というか端的に言うと唯物論)と両立させるための自由の「デフレ化」

(1)理由によって行為する(生き物は皆、目的・理由を持っている)
(2)行為に先立って行為を検討できる自己コントローラー(因果性を構造化)
(3)反省的に行為を検討できる<人間のみ>これが他行為可能性の実体。一般に言われている他行為可能性は自由に必要ない(例:ルター「これ以外のことは私にはできない」

201406170811_7605_iphone.jpg

8.道徳

ここで、「自己」登場。ドーキンスの「延長された表現型」を援用。これをググって次の記事コピペ。生命の

本質はDNAであり、生命体はその乗り物に過ぎず、DNAにとって単なる表現型でしかないそうです。その上で、表現型としての生命体が利用する外部環境を延長された表現型と命名しました。人間が鳥になれない腹いせに作った飛行機がまさにこの延長された表現型です。

そして、デネットの提案→我々の自己を、延長された表現型の一種と考えてみよう。(そうか、西田幾多郎の「場所」も延長された表現型の一種か)。

物語的自己:自己が先にあってそれが物語を語っているのではなく、話が自己をつくる

そして、責任。自己と呼ばれる組織化を経由している行為が、責任ある自由な行為。

要するに、<社会の中で組織化された責任と自由を纏った物語>が<自己すなわち心>と言える。

ここで八木神学想起。

私は人間とは「身体である人格、人格である身体」だと考えている。これは人間という現実性の二面である。ここで身体とは単なる肉体のことではなく、こころとからだの統一体としての身体のことである。キリスト教も仏教もともに人間を身体として把握してきた。人間の本質は滅び行く肉体(悪の原理)に閉じ込められた神的で不滅の実体であるとか、その現代版と考えられる把握、つまり人間の本質は自我であるとか、このようには決して考えてこなかった。身体は自我を生かす道具ではなく、自我の単なる容器でもない。自我は身体の一機能である。意識し、選択する機能である。それぞれの状況で何を選択するかは身体・人格の全体性から決まるので、単なる自我が自分勝手に決めるものではない。
自我が自我自身にのみ関心を抱き、自我だけが自我を動かす唯一の現実となるとき、単なる自我とそのエゴイズムが成立する。


結論は得意の人生方程式。

 心(延長された表現型)=自我(損得、好き嫌い、善悪、理非)+自己<愛>(苦楽、美醜、虚実)

単なる自我とそのエゴイズムを乗り越えて心(延長された表現型)は真の自己に目覚める。それが愛=信仰である。





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Last updated  2014.06.19 08:18:04
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