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会社を辞めて旅に出た ~いつのまにか雲南定住~

かつて、この地では・・・

かつて、この地では・・・

 当初の計画ではジャヤプラからダニ族の住む内陸のワメナへ飛行機で行くつもりだった。しかし、航空会社に予約しに行ってみると1週間先のフライトまで予約で一杯だ。インドネシアの滞在は4週間しかないので、ここで1週間を無駄にすることはできない。非常に残念だけれど今回はダニ族の村を訪れるのは諦め、ニューギニア島の北東部の島、ビアックまでの航空チケットを買った。とりあえずは移動の足が確保できたので、それからジャヤプラの近くのビーチに行ってみた。浜辺にはゴミが散乱しとても美しいとはいえないが、それでも波打ち際から数十メートル沖合いにはリーフが連なっている。地元の人も時折訪れるのかビーチの端のほうには休憩所のようなものもある。私が訪れた時ちょうど高校生くらいの男女のグループが来ていて、ビーチ沿いに歩いたり、膝位まで海水につかったりして遊んでいた。私も波打ち際を歩いてみたら、リーフ付近には第2次世界大戦の残骸だろう船の一部が赤く錆びついて横たわっている。そんなものがいくつもあるのだ。足元に注意して歩いていたら、薬莢、そして手榴弾までもが見つかった。今から50年以上も前の日本軍と連合軍がこの地で戦っていたのだ。かつて、日本軍が遠くこの地まで侵攻していたなんて今となってはとても信じられない。そして、その不幸な時代に翻弄され、この地で亡くなった人々のことを考えると、なんともやり切れない虚しさと、戦争というものの残酷さを改めて感じたのだった。現在の日本で生活していると、第2次世界大戦のことを考える機会はあまり無いけれど旅行でアジアを訪れていると、そのことについて考えさせられる場所、事件、人等に時々遭遇することがある。場合によってはそれが今まで知らなかったこともあるし、言い換えれば、それは私たち日本人が戦争についての真実を知らされていない(教育されていない)ということもあるのだろう。ビーチからの帰りは、暑さに加えて、戦争の事実を目にした何ともいえぬ疲労を感じたのだった。

 夜はホテルでの食後、インドネシア人研修生達とワールドカップのドイツ-韓国戦を見た。残念ながら1-0で韓国は負けてしまったが、今回の日韓共同開催は両国の成績においても、また今後の両国間の友好のためにも大きな意味があったなと、改めて感じた。そういえば、ドイツ大会(1990年)の時も海外でTV観戦していたな、と思い出した。あれはオーストラリアのシドニーで日本食レストランのアルバイトをしていた時のことだった。宿泊していたバックパッカーズのロビーで、各国からの旅行者と一緒に缶ビールを片手に観ていた。あれから12年が経過し、また当時と同様に長期の旅をしているわけだけだけれども、この間自分は何をしてきて、一体、何を得たというのだろう?そう考えてみると、なんだか無為に過ごしてきたような気がしてきた。また、今回仕事を辞めて12年前と同様に旅に出ている自分とは、何なのか?これでいいのだろうか?自問しても明確な答えは見つからない。いや、だからこそ旅をしているのかもしれない。ある意味、私にとっての旅というものは、自分探しでもあるのだろうから・・・。そんなことをふと思ったのだった。

 ビアックはパプア州(以前はイリアンジャヤ州と呼ばれていた。ニューギニア島の西半分、インドネシア領)では、ソロン、ジャヤプラと並ぶ交通の要所であり、他の島とを結ぶ飛行機やフェリーが発着する。また、ビアックの近くの島ではゴクラクチョウも見られるとのことがガイドブックに書かれていたこともあり、今回訪れることにしたのだ。ビアック到着の翌朝、早速森林管理事務所に行ったが、そこには自然保護区等の情報はなく別の事務所になるとのことで、オフィサーのバイクの後ろに乗せてもらいそこまで連れて行ってもらった。このような親切はとても有難い。まあ、実際彼らは暇そうにしていたし、多少私に興味があったのだろう。しかし、そこでもたいした情報は得られなかった。それでも、今後の訪れるべき場所について、おおよその見当をつけることが出来た。ヤペン島と、マノクワリの近くの森、そしてソロン沖合いの島がいいということだ。まずはビアックから一番近いヤペン島に行くべく旅行会社をあたってみたが、5日後でないと空席は無いという。マノクワリ、ソロンについてもほぼ同様の状況だ。ワメナ行きに引き続き、またしても航空チケットの予約が取れない。パプア州では、道路がまだ作られていなく、移動手段は飛行機に頼るところが大きい。だから、いつも飛行機の予約でいっぱいなのだろう。希望のところへ移動できず全く身動きがとれない。インドネシアの滞在猶予は4週間だというのに困ったもんだ!試しにもう1軒旅行会社ををあたって見ようと思い行ったのがベニーの会社だった。飛行機の予約状況は当然ながら最初のところと変わらず。しかし、ヤペン島へボートで行くバードウォッチングツアー情報を入手した。ツアー内容を吟味し値段交渉した結果、5日間で約300ドル(1人なので割高となる)ということで合意した。300ドルは高いけれども、ワメナへ行けなかったしその往復の飛行機代だ、と考えることにした。長期の旅といえども、かけるところにはお金をかけないと本当の楽しみができないものだから・・・。ただ、ここのところ強風で波が高く明日ボートが出せるかどうか分からないという。その場合は、早朝にこの島の森へ入りバードウォッチングすることにした。

ガイドのベニー  次の日、目を覚まし外の様子を確認するとやはり風が強い。早朝にガイドのベニーはホテルに来て、ボートを出せない旨を説明した。せっかくその気になっていたのに残念というしかない。仕方なく彼と一緒に近くの森へバードウォッチングに行った。そして夜は彼の家に招待され奥さんの作ってくれたインドネシア家庭料理を食べさせてもらった。テーブルの上いっぱいに料理が並べられてあったので、家族みんなで食べるのかと思っていたら、私とベニーの二人だけ。どうやら家族は私達の後に食事をするようだ。これがインドネシアの習慣なのだろうか。食事をしながら彼といろいろと話をしたら、この島にも時々日本人が訪れるという。彼らの殆どが中高年で、かつてこの地で戦った(戦わねばならなかった、というべきか)旧日本軍の生存者とその付き添いの家族ということだった。私は知らなかったが、このビアック島ではかつて生死をかけた激しい戦闘があったのだ。ベニーが案内した日本人の中には、当時の生存者から話を聞いてまとめた「玉砕ビアク島」という本(*1)を書かれた田村氏という人物がいて、後日田村氏がベニーにその本を贈っていた。ベニーにお願いし、その本を借りて読ませてもらうことにした。ホテルに帰り部屋でその本のページをめくると、戦争というものの凄まじさに圧倒される。毎日が死と隣り合わせの異常な時間が流れている。そして、そのことが実際に起こったこの地で、今私が読んでいるのだ。夜10時頃に電気の供給がストップし部屋の電球が消えたけれども、その後も登山用のヘッドランプをつけて一気に最後まで読んだ。日本軍がビアック島の制空権を死守するべく、連合軍の激しい攻撃に立ち向かい、ついには洞窟内に立てこもりゲリラ戦を展開し、無残にも散っていったという内容だった。行間には戦争というものの残酷さや、平時ではとても考えられない異常さで満ち溢れている。ビアック島のその洞窟には今も遺骨や遺品がそのままになっているという話をベニーから聞いたけれども、とても訪れてみようという気分にはなれなかった。本に書かれていたことが、平和な現在の日本で育った私にとって、あまりにも衝撃的で・・・。  次を読む

*1 田村洋三著「玉砕ビアク島」(光人社)


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