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会社を辞めて旅に出た ~いつのまにか雲南定住~

あの娘はいま

あの娘はいま~パギナパン・スンバルムリャ

 パプアニューギニアを出てからは、インドネシアのパプア州(旧イリアンジャヤ)、スラウェシ島と移動して来て、今は南スラウェシのマカッサルにいる。インドネシアビザも残すところ今日を含めて4日しかない。宿の近くの旅行会社に行き、ルートをいろいろとあたってみたところ、マレーシア・サバ州のタワウに抜けるのがやはり最良のようだ。幸い今日の午後にはカリマンタン(ボルネオ島のインドネシア領)のバリクパパン(*1)行きと、明日のバリクパパンからタラカン行きの飛行機の予約が取れた。タラカンからはヌヌカンを経由してマレーシアのタワウへとボートで渡れる。このルートは12年ほど前、マレーシアからインドネシアへと今回の逆ルートで移動したこともあるので不安はない。というか、以前訪れた所が現在どのようになっているのか、そちらの方に関心がある。

メルパティ航空の機内食
メルパティ航空の機内食
 翌朝、マカッサルの空港へ行くべく、ホテルの近くの大通りで空港行きの大型バスを待ったが一向に現れない。昨日チケットを買った旅行会社のお姉さんの話では、15分おきに通っていると言っていたのに・・・。しばらく待ったが、飛行機の出発時間に遅れる可能性が出てきたため、やむなく手を上げてタクシーを止め、空港までの料金交渉をする。37000ルピア(有料道路料金1000ルピアと空港駐車場代1000ルピアを含む)で手を打つ。本来ならば数台交渉してから、相場を推測して乗るのだが今回は別だ。空港に着くとまだ少し時間があったので、インドネシア出国までの分としてT/C(トラベラーズチェック)を両替しておくことにした。マカッサルの空港には銀行のほかにマネーチェンジャーもあって、当然マネーチャンジャーの方が僅かに両替レートが良い。1万円のT/Cで710,000ルピアだった(手数料無し)。

バリクパパンのワルン
バリクパパンのワルン
 カリマンタンにはこれまで2回訪れたことがあり、以前にバリクパパンに泊まってたことがあると思っていたが、どうやら私の勘違いだったようだ。いずれも、通り過ぎただけらしい(*2)。だから、空港から町の中心部に着いても、さっぱりこの町の記憶が甦らない。私の記憶では、フェリーのデッキから見た海岸沿いの石油コンビナートだけ。大きい煙突のようなものがあり、その先には燃え盛る炎が遠くからでもはっきり見えたことを覚えている。
 手持ちのガイドブックを読んでみると、第2次大戦中、バリクパパンは石油確保の戦略的地域として日本軍の侵略を受け、その後オーストラリアが229人の犠牲者を出して占領したとのこと。東南アジアの各地にはこのような暗い過去が横たわっていることが多い。その度になんといえばよいのか、肩身の狭い思いをする。実際、過去に日本は近隣のアジア諸国に侵略したのだから、そのように感じるのは、まあ当然のことと思う。だが、欧米人は過去のアジアやアフリカ、中南米を占領したことについてどのように感じているのだろう?ちょっと気にかかるところだ。

 バリクパパンには1泊だけして、翌朝、メルパティ航空でタラカンへと飛んだ。メルパティとはインドネシア語でハトの意味。確か、インドネシア国営のガルーダインドネシア航空の子会社(?)だったはず。ちなみにガルーダとは、伝説上のワシの形をしたような神鳥。メルパティとはネーミングが何ともという感じで、またそれがハトというのもちょっとユーモラス。
偉大なる指導者
左側が「偉大なる指導者」、右側はスカルノ。
 飛行時間は僅か1時間でタラカンに到着。まだお昼頃だったので空港から港へ直行し、さらにヌヌカンへボートで渡ることにする。チケット売り場で出発時間を確認すると午後2時発とのこと。昼食を食べて日記をつけるには手ごろな待ち時間だ。近くの食堂に入りランチ休息とする。その食堂の壁には、「偉大なる指導者」という字の入った写真が額縁に入れられ飾ってあった。それはケネディとスカルノ元インドネシア大統領が並んでいるものだった。今でも、スカルノの人気は衰えず、人々に聞いてみると、殆ど皆、彼は良かったと答えるほど。彼の場合、インドネシア独立の際の指導者でもあり、その後の初代大統領にもなっていることが大きく影響しているのだろう。ただ、ジャワ島以外の、独自の文化を持つ島々の元々の住民にとっては少し疑問があるのかもしれないが・・・。

 ヌヌカン行きのスピードボートは30人乗り位の中型ボートで、エンジンを後ろに3機並列に据え付けている。さすがスピードボートと呼ぶだけのことはあるなと感心。以前はスピードボートなどは無く、木造船だったため、海岸からそう離れて進んでいないのに船体がひどく揺れ、船酔いに悩まされたものだった。確か7、8時間くらいはかかったと記憶するが、今回は僅か2時間でヌヌカンに到着した。今夜はここヌヌカンに泊まることにする。12年ほど前の記憶を頼りに港から歩き出すが、そのあまりの変わりように全く分からない。大体こんな港なんて記憶にないし、当時舗装道路だってなかった。仕方がないので道路脇の商店で近くの宿を教えてもらった。ホテル・スルタンという偉そうな名前の宿で1泊50,000ルピアだった。前回は5,000ルピア位で泊まれたのに、今では50,000ルピアかと溜息がでる。12年前の5,000ルピアといえば約2、3ドルで、現在(2002年当時)の50,000ルピアは約6ドルだ。単純計算で宿代が2倍になったといえる。宿に限らず、他の物価も以前と比較し相対的に上昇したなあ、と感じた。

 宿でサッとマンディ(水浴び)をしてちょっと休息後、町の探索兼夕食に出る。今ではヌヌカンは舗装道路をベモ(乗り合いハイエース)が頻繁に走り、人口も何倍にも増加している様子で、町と呼べる規模に発展している。とりあえず、ホテルの前の道を、港とは反対方向に進むベモと同じ方向に歩いていく。しばらくすると賑やかな広場に出た。歩道上には露天商が衣類とか雑貨を多数広げていて、人々はそれを楽しむかのようにゆっくりと歩いている。まあ、いわばインドネシアのウインドウショッピングだな。そして夜になると食べ物の屋台も店を開く。私の好物、テンペゴレン(大豆を発酵させ固めて、スライス上に切って油で揚げたもの)があったのでそれを買う。買ったついでに屋台のオバチャンに、以前泊まった宿の名前を告げ、どこにあるのか聞いてみると、ここからすぐ近くにあるという。

 その宿の名は「パギナパン・スムバルムリャ(*3)」といって、当時たまたま1週間ほど行動をともにしたオーストリア人と泊まったのだった。彼は欧米人旅行者には珍しくインドネシア語をある程度話せ、そのホテルで働いていた10代後半の可愛らしい女の子にヒマを見つけては話しかけていた。彼女はくりくりとした瞳の明るく、ちょっとシャイな女の子だった。その頃カタコトでしかインドネシア語を話せなかった私は、隣で彼らの会話を聞くだけだ。なんとも寂しい思いをしたのを覚えている。これをきっかけに、私はインドネシア語を話せるようになろうと決意し、本屋でテキストを買って1日10単語ずつ覚えていった。1ヶ月位で旅行するには特に困らないようになった。そしてインドネシア語を話せるようになると更に旅は面白くなり、ますますインドネシアという国が好きになっていった。
 あの娘は今もあの宿で働いているのだろうか?今の彼女はどんな様子なのだろうか?結婚していて子供も数人いるかもしれない。教えられた宿への道を歩きながらそんなことを考えていた。だが、宿へ着くとかつてとは様子が違い、入り口のちょっとしたテラスもないし、入り口の正面に見えていた堂々とした2階へ続く階段も見当たらない。建物自体も全然別に見える。そして、あの可愛らしかった彼女もいなかった。残念ながら彼女の名前を覚えていなかったので、フロントの男に彼女のことを尋ねるわけにもいかなく、ただ「この宿は1泊いくらですか」とだけ尋ねてそこを後にした。宿への帰り道は少しばかり足が重く、「あーあ、この12年間にヌヌカンは本当に変わってしまったんだなあ」と改めて感じたのだった。


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*1 ボルネオ島のインドネシア領カリマンタンは、東と中央と西の3つの州に分けられ、バリクパパンは東カリマンタン州の州都。タラカンは東カリマンタン州北部のマレーシア国境に近い島。ヌヌカンはマレーシアサバ州との国境の島。

*2 最初の時はフェリーでタラカンからバリクパパンまで乗り、バリクパパンからはサマリンダまでバスで移動し、クタイ国立公園とマハカム川中流域を訪れた。2回目も飛行機でジャカルタからバリクパパンに降り立ったらすぐにサマリンダへと向かいクタイ国立公園を訪れた。いずれもバリクパパンには泊まらなかった。

*3 パギナパンとはインドネシア語で、宿とか旅館の意味。私の経験では安宿、それも現地の人が殆どで旅行者が泊まっているのはあまり見かけたことがない。ロスメンも宿の意味だが、私の感覚ではロスメンよりもちょっと格下のような感じがする。本当のところは分からないけれど・・・。



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