パパが選択してきた治療*****************************************以下に記述する事は、最後の瞬間以外、すべてパパが考えて判断を下したことです。 パパは、すべてにおいて、自分に自信を持って対処してきました。 治療方針から、投与される薬のすべてに置いても、先生と相談し、判断をしていました。 すばらしい闘いぶりだったと思います。 ***************************************** ◎2003年12月クリスマス ・腰の痛みが抜けない事を訴えるようになる ・医者に行く事を勧めたら、「学年末に人間ドックに行こうか、、、」と話していた (そういえば「今年の冬はやけに寒い」と言っていたのを思い出す) (パパ曰く、「このころ微熱が続いてたんだね」) ◎2004年1月6日、7日 ・市内の日赤病院にて内科検査 ◎2004年1月14日~26日(13日間) ・検査結果、腎臓に尿がたまっている事がわかる → すぐに入院 ・日赤には泌尿器科がないために、泌尿器科がある病院に転院することを勧められる ・週一で泌尿器の先生が日赤に来ており、その先生が別の日に通っている病院を紹介される (その先生は、個人病院を開いているが、入院施設が整っていないとのこと) ◎2004年1月26日~2月21日(27日間) ・救急車で搬送される ・パパの通勤学校のすぐそばのF病院へ入院 ===縁のない病院の様であった===(詳細はまたの機会に) ・たまった尿はとりだす ・尿管の一部が詰まっている事が判明 ・「そのつまりがなぜなのか?」の問いに、「そんなの知らん」の解答 ・逃げるように「退院宣言」をして退院 (別の病院の紹介状は、かいてもらうことは怠らないパパ。。。お見事) ★3月より隣市の市立病院への入院の手配済み ◎2004年2月25日~28日(計4回) ・連日、半日をかけて直接栄養の点滴を4~5本うつ (脂肪分やミネラル、糖質など。。。だったかな?) →これをうつととても元気になれたので、とてもお気に入りであった ★担当してくださった先生が、とても親身になって話をしてくれて、 本来なら入院先が決まっている患者にそんなことはしないのだが、元気が出るからと、点滴してくれました ◎2004年3月1日~29日(29日間) ・隣市の市立病院へ受診 (待合室で椅子に座っていられないほどの、疲れを訴え寝かせてもらう) ・この病院で行う事 「あらゆる検査をし、消去法で原因の追及」 ・中旬 告知 ●パパ以外への告知:余命一ヶ月 ●パパへの告知:余命は告げず、悪性のがんであることのみ (余命はつげるつもりであったが、当人がそれを問わなかった) (しかし、告知の前に、最悪であった場合は余命2~3ヶ月と聞かされていた) (おそらく、パパが余命を問わなかったのは、それを頭に置いたからだろう) →この病院での治療、静岡がんセンターへのセカンドオピニオン、、、 選択可能である事を伝えられ、迷わずがんセンターへのセカンドオピニオン申し込み ◎2004年3月19日 外泊許可 ・午前中~静岡がんセンターセカンドオピニオン ・裾野の自宅へ帰宅 裾野一泊 ◎2004年3月20日 ・朝 近所の稲荷神社へお参り ・三島、沼津のお墓参り ・富士の実家のお墓参り ・午後 富士の実家へ到着 & 夕食 ~ 富士の実家でのパパとの最後の食事 (後から分かった事:::この時に遺書を記述) ・19時頃、隣市市立病院へもどる ◎2004年3月23日 ・静岡がんセンター受診 治療方針提示 →積極的治療方法無し 緩和治療のみ ※特記したい事 医者はどうあれ、私たち家族は、緩和治療に寄って、体力の温存&復活をはかり、 癌と自分の力で闘う事を決意した ・緩和治療受け入れ予約 ◎2004年3月29日~6月17日(81日間) ~ 余命一ヶ月を遥かに越え、約3ヶ月 ・静岡がんセンター 緩和病棟 入院 ◎2004年4月9日~10日 ・裾野の自宅へ一泊 ~ パパと最後の裾野での一日 ★緩和病棟での闘いは、また別に記録したい ◎2004年6月17日 午後10時11分 病室にて家族が見守る中 ・パパ解放される ◎今は、、、 ・なんでも、天国でやはり先生業のような事をしているとか。。。 ・持たせたバレーボールとユニホームと靴は戻ってこないから、 天国でもバレーボールをしているのかな ジャンル別一覧
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