告知のとき…
今日は、きっかけは特になかったのに、主人の告知のときの事が頭をぐるぐる…涙が止まらない。亡くなった瞬間の事は記憶が曖昧で、時間の前後がめちゃくちゃなのだが、告知の瞬間の事は、以外としっかり覚えている。-----------------そのとき---------主人の学校の近くの病院を離れ、全身の精密検査のために入院した病院。始めて入院してから、すでに3ヶ月近くたち、ますます、弱った様子。痛みで座っていられない状態。たぶん、一番痛かった頃。。。(普通の痛み止めでは効かなくなっていた)一ヶ月以上、検査にかかり(消去法で原因追及と言う、実に時間のかかる検査だった)、あげくに、いきなり告知。医者からの告知は、まず、主人には内緒で私と義両親に対し一回。そして主人を含めて四人に対し一回。一度目は、義母の手を握りしめていないとたっていられなくて、、、でも、義母は私の手を離した後、義父に抱えられてしまい、私は、一人で耐えるしかなかった。仕方のない事。二度目は、主人が震える手で私の手を握りしめて、痛かった。すごく震えていた。でも、とりみださず、ひたすら、静か。「はい」としか言わない.何も質問もしない。どう思い返しても、答えは、伝えられていた状況の「最悪」にあたる事だった。余命一ヶ月。主人は、「できるかぎりをつくす(手術や投薬…そうすると余命は縮まる可能性がかなり高かった)」か、「なるべく長く生きるか」の選択をしいられた。私は、「死ぬ」なんて考えられなかったから、「できるかぎりをつくす」を選択した。そして、可能性は少なくとも(かぎりなく0であったとしても)生き残る道を選択した。義両親は、「なるべく長く生きる」を選択した。主人もそれを選択した。どれが正しいとも言えない。「多数決」と主人は言ったが、私は、主人が選ぶならそれに従う決意だったし、彼は、はじめからそう決めていた。結局、彼の道。そうして、積極的治療の道はなくなり、緩和治療の道のみが残った。そこへ行く人たちは、当初の私たちは認めたくはなかったが、やっぱり「死」への道のみだった。でも、それでも、私と子供たち3人は、復活するものと思っていたし、今は厳しくとも、いつかは家に帰ると思っていた。-----------今思い返しても、胸が苦しい。こんな苦しい事を、記録する必要があるかどうかも疑問。コレを見たら、子供たちも苦しむかもしれない。でも、パパは、結局、「少しでも長く子供たちと一緒にいたい」と言っていた事を伝えたい。泣きながら言っていた事を、知って欲しい。-------------------------------------------只一つだけ、がんの苦しみは想像以上の様。しかし、パパは,痛み、苦しみがひどくなる前に、緩和治療を施し、だから、テレビで見るほどには苦しんではいなかったよ。確かに、少しはいたがっていたけど、決して弱音は,はかなかったから…----------------------------------------もっともっとこの先の事も書きたいが、、、またの機会に、、、