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伊弉諾尊 【よろしくお願いします。生死が人にも動物にもあり、意識そのものにも、それはあるようです。 宇宙が始まり、それも誕生ですね、いずれ宇宙も死を迎え消えていくとなりますが、 創造そのものが破壊、死と一対であれば、最初から生死があったということです。 統合状態=無とすれば、無からの分化があり、有が生まれたとすれば、統合状態=無は死、なのでしょうか。 人にとって生きている間は、有限の時間であり、死を迎えたとき、大本に帰る、その先が集合意識とすれば、 集合意識は死であり、集合意識でないにしても、その帰る先は、死となりますが、 無=死ではないとすれば、元々、生死はないとなります。経験も思考もせず、情報も集めず、 ただ観察する行為は、遍在する存在の特徴のような気もしますが、死が有を観察する、それが本質なのでしょうか。】 あまねく存在にとって、生と死は切り離すことはできないでしょう。 人は、人であり、例え男と女がいたとしても、片方を死、片方を生とは言わないものです。 男と女、二つがあるのは理由があります。陰陽、光と影、生と死、分かれた瞬間に、 生も死も同じように意味が現れ、生として、また死として、それぞれが意味を成すようになったのです。 片側では、意味を成しません、すなわち存在できないということです。 死とは存在に対し使う言葉、死者は存在ではないとすれば、もはや死者とは言えません。 【伊弉諾殿は、黄泉の国から蘇り、黄泉を治める神となり、人の死後を導くと聞きます。 人が蘇ることは、転生しかありませんが、伊弉冉殿は転生をしたということなのでしょうか。】 黄泉の国は元々あった世ではありません。 わらわが歩く先に、黄泉の国が現れ、世として意味を持ち、故に黄泉を統治することとなったのです。 生と死は、それぞれ住む場所が異なっていた訳では無く、黄泉の国が現れるまでは、生者も死者も一緒に 住むようになっていたのです。住む世界と生死の存在は別の話でしょう? 死者は黄泉の国に歩みながら、生きていた頃を見つめ直します。 反省も、名残惜しい思いもあるでしょう。せいせいしたという者もいるでしょう。 最深部まで辿りつき、漸く、生に反転を始めます。見つめ切れていないのであれば、反転は始まりません。 黄泉ができる前、反転はなく、転生がない世界だったのです。 憂うこと、今、黄泉の国も荒れています。見つめ切れていなくとも、反転が始まってしまいます。 それ故、生前の思いを抱いたまま、転生をしてしまうのです。 死者は、生そのものを見つめ続け、死を受け入れることが無くなります。 それが続けば、黄泉の国は無くなってしまいます。 死者は蘇ることはなくなり、生の世に生きる者は、やがていなくなってしまいます。 生が死を見つめないからなのです。 男と女が相手を見つめ、違いを知ると同時に、己を知ること、よくいうでしょう、鏡と。 人が人を知ることで、生死を理解します。死の世界は、死を理解したか、確かめる場所なのです。 死を理解したのであれば、生に戻ります。その繰り返しが転生なのです。 黄泉の国がない、他国もあるのです。 神々がおらず、人の転生もない国、この日本の理屈の世界は、どこでも通用するものではありません。 宇宙からの転生により、人の数は賄われていきます。 人が生死を限りなく見つめる故に、黄泉がいつまでも続き、日本があるのです。 【ありがとうございます】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014年11月08日 14時51分43秒
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