あの日
久しぶりにブログを書く。子どもは元気に4才 いたずらざかりだ。忘れてはいけないあの日・・・。3月11日あの日は保育園の参観日だった。ちょうど参観で子どものおやつを試食しようとお母さんグループと子どもグループで分かれてお部屋でいただきますをしたその時横揺れがどんどんひどくなる・・・。九州からお嫁に来て8年あまり さすがに時々の地震には慣れていたから またいつもの?って思っていたがどんどん揺れるいつも暴れる子ども達は純粋にひと固まりになりあたまを伏せてとてもおとなしく指示をまっていた。あまりにゆれがひどくなり先生が四つんばいになりながら お昼寝ぶとんを持ってきて子どもたちにかぶせる。ガラスから守るため。ただごとじゃないと一人のお母さんが子どものかたまりをかばうように手を広げて守り他のお母さん達も一緒に集まりみんなでかばうように守った。他の小さい子どものクラスでは指示を待ちきれないお母さんと子どもが園庭にとびだしていた。どっちが安全なのか解らないがその後住宅街のかわらや壁がたくさん落ちてきていたということは安全な建物の中ではゆれが収まり指示を待つほうが安全かもしれないと思った。しばらくして園長先生のにこやかでゆっくりした口調の指示で園庭に出たが冷静に行動している本心では母親も先生もパニックすぎて子どもは靴を履き替えて出るし(その瞬間も揺れが着たら危ない)点呼なしでばらばらに帰るし。私も子どもの靴を履いて外に出ていた・・・。っていうか 16センチの靴では小さすぎですぐ気付いたけど。あんな状況の中では あれが園としてはベストの対応だったと思う。まさかあんなにも大きな地震が来て園庭の目の前でどこかの家から火が出た煙が上がり・・・。仕事やってる場合じゃないこの子を守るために生きなきゃと思った瞬間だった。その後 すぐの家に帰ったがまさかその後に数キロ下のコンビニやユニクロやガソリンスタンドに津波が来ていたとは本当に驚いた。大津波警報が来ても海岸に来るしか想像していないことだった。たまたま買い物に出かけていたら巻き込まれていたかもしれない。この辺では今までの地震や台風でも騒がない人が多くて地震慣れしていない私は常にびっくりしていた。後で聞いたら津波が来た店ではみんな2階に避難したそう。コンテナがたくさん道路に流れていたり民家の庭に流れ着いたりトラックの上で一夜を過ごした従業員がいたり大変な事態だった。それから1・2週間は食べ物も少ないし水も出ないしガソリンもないし戦後みたいだったと思う。コンビニのパンは入荷と同時に棚に並べる前に売り切れであこがれとなった。まだ電柱はまだ斜めが普通だし液状化が進んで斜めの家も珍しくない。一番心配なのは原発。震災後の原発対応は子ども達の数十年後のがんや白血病のリスクが大きくなる最悪の事態を想定して国や県をあげていろいろやらなけらばならないと思う。いくら子育て支援に力を注いでも、こんな状況では子どもを産み育てたいと思う世の中が程遠い。子どもたちの30年後がどうか健康でありますように・・・。