ワンダフル・ワールド(11)第4章その2
だがそれはかなり有効だった。耳栓とサングラスは、まず彼女に「刺激が強いところに行くんだ」という無意識の予告となった。 だがつい、サングラスをすると、ついでに髪を耳にかき上げてしまうこともあった。頬に髪があたると、それだけでたまらないかゆみや熱を感じてしまう、というのだ。 それでも。倉瀬はまずいところを見せてしまった、と思った。 ライヴハウスにはまず、刺激を求めて来る者が殆どだろう。なのに「刺激が強いから」とその場で与えられる音や光を半ば否定する様な言動を取るのは。「…しまったなあ」と彼は帰り道、何度もつぶやいた。せっかく「B・F」のメンバーとも仲良くなれた様な気がしたのに。「クラセ、足が遅い」 真っ直ぐ歩いて行くトモミに彼は、はいはい、と重い足をひきずって行ったものだった。 だが彼の予想は外れた。 何とナナはそんなトモミに興味を持ってしまったのである。しかも決してからかい半分ではなかった。「全くあんたらしいったら。それで仲良くなれちゃったなんてねー」 憮然とした倉瀬の表情に、きゃはは、と当時の「カノジョ」は笑い、ファーストフード店のテーブルを思い切り、何度も叩いた。「おい史香…そこで笑うかよ」「いいじゃない。結果オーライ」 付き合って約一年の「カノジョ」である史香は、彼にぽん、と言葉を投げつけた。 彼は周囲にはトモミを自分の妹だ、と紹介していた。名字が違うのは、家庭の事情だ、とはぐらかして。トモミの性質も、彼のその嘘をカバーしていた。一度でも彼女に直接会って話せば、彼女が普通の女の子と何処かずれていることは判る。 何よりも、この二人の間には男女の関係を持つ者特有の空気が無かった。「ところで義高、この間貸した千円、今日こそ返してくれるでしょうね?」「…お前そこでそう来るか」 忘れていた訳ではないが、その話題の次に持ってくるか、と彼は思わずテーブルに突っ伏した。「ったり前じゃなーい! 千円だろうが百円だろうが、あたしが毎日せこせこと稼いだお金よ。一円に笑う者は一円に泣くのよ!」 だが彼女のこの勢いはややキツめながらも心地よかった。彼女はトモミとはまるで反対だ。現実に生きる人間であり、女だった。それは関係の肉体的深さだけではない。「お前、俺の不幸にはほんっとうに同情してくれないのね」「ああ? 甘えてんじゃないの。それよりあたしには、今日のおかずの方が問題!」 彼女は姉と二人暮らしだったが、どちらもまだ新入社員の様なもので、日々は節約の嵐だという。炊事当番、掃除当番など、じゃんけんで決めたり、残業が少ない方がする等、毎日が何処かサバイバルじみているという。「いいよねぇ、あんたのとこ。あのでかいマンション、あれ分譲でしょ? 金持ちっ!」「だけどあれは、トモミがもらったんだって言ったろ。俺には分けてくれなかったって」「でもあんたおにーちゃんじゃないの。住めるだけいーじゃない。ウチなんて、二人で2DKよ! しかも東向き!」 以前日当たりの悪い六畳一間に住んでいた、という過去は彼女には言えなかった。「あー全く。半分分けて欲しいくらいだわ」 彼女と話すことは楽しかった。共通の話題が特別にある訳ではない。日常あった出来事を、こうやって時間がある時に会っては、ぽんぽんと話すだけだ。ただ、無駄な説明が要らない。どんな話題であったにせよ、そこには投げれば投げ返してくる言葉のキャッチボールが存在していた。 自分がそういう「普通の」女の子との会話に飢えていたことに、倉瀬は彼女と出会って、ようやく気付いた位だった。 無論、だからと言ってトモミが嫌になった訳ではない。彼女は彼女、トモミはトモミである。どちらも大切だった。ただ、その大切のベクトルの方向が、全く逆を向いているだけで。 彼は、そう思っていた。あくまで彼は。 「妹」のトモミと「カノジョ」の史香。 守らなくてはならないトモミと、一人で立っている史香。 二人は彼にとって、全く別の対象だった。どちらかが欠けるということなど、思いもよらなかったのだ。