うつほに吹く風 第二部(28)第三章その4
「…『いっそ忘れてしまえばそれまでなのに、葦原に鳴く音を聴いては恋しさ侘びしさが増すばかりだ』と言いたくなるな。ついでに、昔覚えた手も弾いてはくれまいか」 帝はそう言って、琴の調子を変える。 北の方はそれにも戸惑うことはなく、従来あった手はそれに加えて弾き、誰も弾いたことの無いものは、細かい所まで巧みに弾きこなす。 「胡原」を弾き始めると、仲忠や涼が詩を誦し、行正が唱歌を口にする。 現在の優れた奏者と、過去の優れた俊蔭の手が曲の中で溶け込む。 古いものと新しいものが一つになる。「『胡原』の哀れさは勿論、この音が心凄いまでに聞こえるのは当然であろう。この手こそは、あの胡の国へと行った王昭君が、胡国と自分の国との境で嘆き悲しんだ調べなのだ。皇帝に最も寵愛された正妃であったのに、辺境の武士のものとされることになってしまった心地はどんなものであっただろう…」 その様に、と帝は北の方に呼びかける。「そんな思いに勝る悲しみを込めて、そなたが弾く様子も、また非常に美しい」 困ることを言い出した、と北の方は微妙に集中を削がれる。「どうしてそなたには関守が居るのかな。『胡原』に勝る悲しみの声を上げたくなるよ。そなたは国境を越えた妃に関を通って戻るのを許さない皇帝を、そなたは軽蔑するだろうな」 兼雅が居る今、自分への思いは叶わないのだ、と帝は訴える。 冗談だろう。冗談にしてしまいたい、と彼女は考える。「どんな関守も、帝を拒む訳には参りません」「近衛に居るではないか。固い守りが」 北の方はそれからは黙って弾き続ける。 帝の側でこの音を聴く全ての人々は、男女を問わず、皆残らず涙を流さずにはいられない。 「…さて」 北の方が自分の手を全て出し終わった時、帝は口を開いた。「何を今夜の禄にしたものかな。この手にはどんな禄も足りないと思うが」 ちら、と彼女の息子と涼が並んでいる方に視線をやる。「そう、涼と仲忠への以前の琴への禄もまだやっていなかったな。八月になったら、左大将に催促するがいい。もういい加減、その時期だろう」 ああ、と北の方は思う。息子に女一宮を降嫁させるという話は彼女も聞いていた。 だが様々なことが次々に重なり、なかなかそれは形にならずにここまでやってきてしまった。 それがとうとう。 母としては嬉しい限りだった。「そなたには本当に、何を贈ろう… そうだな、私なぞどうだろう? そなたの息子は禄として私の娘を得たのだから」 ご冗談を、と口の中だけでその言葉を転がす。 帝はやがて、御座所の御前にある日給の簡―――殿上の札を取り、さらさらと何やら書き付ける。「そなたを尚侍に致そう」 北の方は驚く。 帝は彼女のその様子には構わず、その旨を記し、上に歌を詠む。「―――目の前の枝から起こる風/琴の音は実に上達したものだな――― この琴の音が非常に素晴らしかったので」 帝は上達部の方に、署名する様に、とそれを渡す。 まず左大臣がそれを見て首を傾げる。「一体誰だろう。まるで私には判らない」 だが帝の手であることは間違いない。彼は「左大臣従二位源朝臣季明」と署名すると、その傍らにこう書き付けた。「―――風/琴の音は皆さんと同様に誠にあわれと思いましたが、どなたの筋でしょうか――― どうも合点のいかない宣旨でございますな」 そして右大臣に回す。彼もまた首を傾げる。「不思議だな。こんな素晴らしい音を出して尚侍になる様なひとはここしばらく絶えて無かったが… もしや琴を弾くあの清原の一族のあのひとだろうか」 そう推測して「右大臣二位藤原朝臣忠雅」と書き付け、歌を詠む。「―――武隈のはなわの松の親子を並べて秋風が吹く様に、北の方/親も仲忠/子も揃って琴を弾いてくれればいいのだが―――」 左大将が次に受け取る。 正頼が見ている所を皆のぞき込み、これはどうしたことだ、と右大臣に問いかける。「いや、私にも判らないのだが、或いは仲忠の母君ではないかと思いついたので。皆はそう思わないか?」「成る程、それは考えつかなかったですな。それにしてもよく思いつきになりましたな」 そう行って正頼は「大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使源朝臣正頼」と書き付けて歌を詠む。「―――はなわの松風が寒ので、成る程それで小松の蔭が涼しいのですね。母君のお陰で彼も上手なのでしょう―――」 次は右大将―――兼雅だった。 それを見た彼は非常に複雑な気分になった。「おかしい… 一体何があったというのだ… 全くもって私にはわからん…」 すると中から何処か浮かれた帝の声がする。「判らなくとも良いぞ。署名を早く」