うつほに吹く風 第二部(68)第六章その8
翌日の昼頃、御乳つけの君が帰るということで、その贈り物の準備が美しく為された。 尚侍も帰るということで、女御や一宮などに挨拶に向かった。「しばらくの間ご一緒させていただいたので、非常に名残惜しく思います。しばらくこちらに居られたら、とも思うのですが、そうそう家を長くも空けられませんので…」 すると大宮が軽く微笑んだ。「この親子を見ずには居られないでしょうよ。ぜひ近いうちにいらして下さいね」 ええ、と尚侍は答える。実際彼女も、生まれた子からずっと目が離せなかったのだ。「本当にころころと可愛らしい…」「ええ、やはりあなたもそうお思いでしょう?」 女御は思わず手を叩く。そして娘の方をちら、と見る。「それでこのひと達、最近あの可愛らしい子のこと何と二人で呼んでいるのかご存知?」「いえ、それは…」 さすがに夫婦の間の会話のことは、母であっても判りはしない。「可愛い可愛い子犬ちゃん―――犬宮、ですって」「子犬ちゃん」 そう言えばそうかもしれない、と尚侍は思う。あの首の座りよう、ぷくぷくとしつつもしっかりした足、そしてとても可愛い顔。将来が楽しみな手触りの髪。 思わずぷっ、と彼女は吹き出す。「…失礼しました」「いえいえ、私もそれを一宮から聞いた時には笑ってしまいましたのよ。ほら、私の妹達もなかなか不思議な呼ばれようじゃありませんか」 そう言えば、と尚侍は女御の妹達の幼名を思い出す。「あて宮や袖宮やちご宮はともかく、今宮やけす宮っていうのは、ちょっとなかなかどういう意味か判らなくて、不思議な感じがしません?」 考えてみる。確かにそうかもしれない。「ねえ、お母様。私は最初の娘だったから順当な名でしたけど」「…昔のことについて、あれこれ言うものではありません」「でもけす宮ったら、昔からそれでぶーぶー言っているんじゃなくて? どうして自分ばかりああいう名なのか、って」「今宮と気性が似てましたからねえ… できるだけそういうところは消してしまえればとか色々考えたんですけど」「でもまあ、名前なんてものは実はあまり良く無いほうがいいものてもしれませんわ」 女御はふふ、と首を傾ける。「ほら、結局今宮はあの涼さまを婿に迎えた訳だし、けす宮だって」「そうでしょうかね、けす宮は未だに身分を気にしてぶーぶー言ってますよ」「お母様、あの子は本気で嫌ならてこでも動きませんよ。婚儀の晩に逃げ出すくらい軽くやりますって」 さすがにその女御の言葉には尚侍も驚いた。「そ、そういうことがあるのですか?」「そのくらいやりかねない子だ、ということですよ。冗談です」 ふふ、と女御は笑う。「あれでいて、結構変人と言われる方には興味があったようですよ」「それもまた、ちょっとね…」 大宮はそれを聞いて、軽く額を押さえる。「まあ何とかなるのでは? 私も何だかんだ言って、上手くいってますし」「あなたは本当に大君だこと」 ほうっ、と大宮はため息をついた。「本当、ここでお話するのはとても楽しいですから、またできるだけ早く参りたいですわ」 尚侍は漏れそうになる笑いを堪えながら、そう彼女達に告げる。「私も。できればあなたが来る時に宿下がりできれば良いのですけど」 女御と尚侍は苦笑する。お互いそれぞれの夫を持つ身は大変だ、と目と目で伝え合う。「あちらの方に、贈り物を用意させましたから、ぜひ持ち帰って下さいな」「ええ、ありがとうございます」 尚侍は深々と頭を下げた。 彼女への贈り物は、まず正頼から、美しい絹が百匹。 それを携えて、兼雅夫婦が正頼の屋敷を出ようとする。 尚侍のお供には、前駆、兼雅の大将、仲忠中納言に続き、四位五位の人々が入り混じって大勢の者がついて行く。 兼雅が自宅へ着いた時、その行列の最後尾、女房の車はまだ正頼の屋敷の門に居たくらいである。 正頼邸と兼雅邸は遠くは無い。一町程度離れている程度である。 この一行がすっかり兼雅邸に入った後、正頼は馬と鷹を贈り物にした。「これはお供の方にお持ち頂くはずでしたが、お急ぎでいらしたので」 そう文が付けられていた。 また、大宮からは蒔絵の御衣櫃が五掛。 担い棒を渡したその内訳としては、着物に二つ、唐綾の類を入れたものが二つ、そして最後の一つが、えび香と丁字香を入れたものだった。 大宮からは尚侍にこの様な文が付けられている。「宮のお側に出産の時にいらっしゃった折にお目にかかりたく思いましたが、騒ぎばかりが続きましたので… おいで頂いて大変嬉しく思いました。 あの折り、あなた様の御琴を耳にしましたこと、余命も短いと思ってあきらめておりましたのに、行先も延びる様な心地が致しました。 心にしみじみと感じ入るあの音、遙かに遠いと思っていた蓬莱という望ましい所も案外近かったのだと思いました。 この品は下々の方へ上げていただきたいと思いまして」 それを見た尚侍は、あの場で弾いたこともそう悪いことではなかったのだな、と改めて思った。