炬燵蜜柑倶楽部。

2005/08/28(日)06:35

わるつ(19)第五章その1

NK関係(202)

 俺が自分の部屋に戻ったのはもう昼近くだった。午後からはバイトだ。  あれから俺は彼女の部屋で、うだうだと夜が明けるまで喋っていた。だがさすがにいくつかの駅を歩いた後だったので、急に襲ってきた眠気には勝てなかった。気がついたらすっかりと明るい部屋の中で、俺の上には毛布が掛かっていた。  紗里は自分のベッドの上で、すやすやと眠っていた。地震が来ても起きそうにはなかった。そのくらい彼女の眠りは深いように俺には見えた。  よく考えたら、彼女はいつも生理中はひどくだるくなる体質なのだ。昼間でも眠くて眠くて、仕事中でもまぶたが重くて仕方がないのだという。  それなのに休みの日の夜明けまで起きてつきあってくれたのだ。全くいい奴だ。  起こさずに行こうかな、とも思った。だがそれはまずい。彼女はそういうのは嫌うのだ。横向きで、やや身体を丸めて眠っている彼女の背を俺は軽く揺さぶった。紗里、と名前を呼ぶ。 「…んー…」 「俺、帰るから」 「そぉ…」 「ありがと、な」 「うん…」  半分しか目が開かない状態で、身体を起こすことなど全然できそうにないような感じだったが、彼女はそれでももぞもぞと手を伸ばそうとした。 「何?」 「…鍵…」  彼女の指の方向を見ると、ベッドの端の小さなチェストの上に、確かに鍵が置いてあった。 「掛けとくよ。新聞受けから入れておけばいいか?」 「んー…後で電話する…」 「うん」 「今度食事おごってよ…」 「うん」  俺はうなづくと、光がまぶしいとでも言うようにややうつぶせた彼女の頭をくしゃ、とかき回した。彼女は鬱陶しそうにううん、と声を立てた。俺は苦笑し、彼女の部屋を後にした。  だが鍵を新聞受けに入れた時、俺はふと、自分の部屋のことを思い出した。  そういえば、自分の部屋を飛び出した時に、俺は鍵を…かける間は無かった。  戻ってみると、案の定、鍵は開いていた。だが予想と違っていたのは、その中にまだ客は居たことだった。 「…マキノ」  奴は入り口から見える部屋の真ん中で、両耳にイヤホンをつけて、キーボードに指を走らせていた。その音が大きいのだろうか、扉の開いた音にも、俺が発した声にも気付いた様子はない。  驚いた俺が、ドアノブから手を離したら、扉は音を立てて閉まった。開ける音より閉める音の方が大きい。さすがにそれは響いたらしい。キーボードから手を離し、ぱっと音の方を見た。そして胸の前の線をひっぱり、両耳のイヤホンを外した。 「あ、お帰り」 「…ただいま…居たのか」 「来いって言ったのは、オズさんでしょ。勝手に帰ったと思った?」  思っていた。あの状況では。 「帰るったって、あの時間じゃ、電車も通ってないじゃない」 「でももう…」 「とにかく座ったら?」  言われるままに、はい、と俺はキーボードの前に座り込んだ。  そういえば、うちにはキーボードがあったんだった。今更のように俺は思い出した。ずっと部屋の隅に、ファンの子がくれたエスニック調のベッドカバーでくるんで立てかけておいて、忘れてた。そんなものを見つけだしてくるなんて、よほど暇だったのだろうか。 「…何弾いてたの?」 「***」  さらさら、とその口から意味の判らない数字交じりの単語が流れる。え、と俺は問い返した。 「…まあ練習曲みたいなもんだよ。そうゆうのはだいたいあんまり曲、っていう感じのタイトルはないの」 「へえ」  何となく感心して俺はうなづく。ちら、と俺の方を向くと、奴はイヤホンのプラグをキーボードから外した。途端に奴の手が触れる鍵盤から、きらきらとした音が流れ出した。ピアノに似せた音だ。 「あとはこんなの…」  ヴォリュームを少し落として、奴は指を軽く動かした。 「…ああ。何かCMで聴いたことある」 「ショパンだよ」  くす、と奴は笑った。胃腸薬か何かのCMだったので、そんな曲が使われていたのか、と俺は妙に感心した。 「そう言えばお前、音大志望だったっけ」 「音大?まあね。うん、一応その方の勉強もしてる」  マキノはキーボードを弾く手を止めた。 「一応?」  俺は言葉の端を捕らえて問い返す。 「あのさ、俺ときどき、大切なものがいくつか出てきた時、どっちが大切だか判らなくなるの。だからそういう時には、とりあえずどっちも用意しておいて、もう最後の最後で、成りゆきにまかせることにしてるの」 「成りゆき?」 「…つまり、例えば受験当日にちゃんと俺が受験会場に行くかどうか、とか…」  何じゃそりゃ。 「それって結構大胆じゃないか?」  奴は違うよ、とふらふらと首を横に振る。 「優柔不断なんだ。直前まで決められないんだ。本当に大切なものは特に」 「とりあえず」 「そ。別にしておいて悪いものじゃないしね。もしも俺がバンドだけ、を選んだとしても、カナイは楽器全然だめだし。俺ができて悪いもんじゃないし」 「そうだな」  確かにそうだった。用意周到、とカナイは言ったがそういうところが確かにありそうだった。

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