2006/02/08(水)21:54
ほーるど・おん(36)第八章その1
「また、よね?」
夕方、サラダは私が居てめぐみ君が居ない時間を見計らったかの様にやってきて、そう言った。
「いいけどさあ」
「…何を言いたいのよ」
私は含みのあるその言い方に、少しばかり嫌気を覚えた。
「別にいいんだけどさあ。だけど同じこと繰り返されるのは嫌だよ?」
「同じこと?」
「だって、まえにやっぱり元ヴォーカリストのひと、泊めてたことあったじゃない。ミサキさんが好きならそれはそれでいいと思ったけどさ、だけど出てったじゃない」
そしてこういう時のサラダは、絶対に上がろうとしないのだ。タイル張りの床に立って、向こう側を見渡しては、それ以上立ち入ろうとはしないのだ。
「…そんなこと…」
「判ってる? ミサキさんいつも、おにーさんの後始末しているようなものじゃないの」
「違う…」
「あたしから見たら、そう見えるんだってば!」
私は黙って首を横に振った。違う。違うのだ。ただ、あんな風に、私を頼ってくれるものがあると、私は、その手をどうしても取りたくなるのだ。
求められていることに、どうしようもなく弱い。弱いのだ。
「じゃあ今の…名前忘れたけど、あのひとは、ずっとここに居るの? そうじゃないでしょ?」
「それはそうだけど」
「それはそーよね。理由なんかあたし知らないけれど、逃げてきたヴォーカル君は、立ち直ったら出てくでしょ。出ていかなくちゃならないわよ。だってミサキさんじゃなくてもいいんでしょ」
「でもあたしが兄貴の妹だから」
「じゃあミサキさんじゃなくたっていい訳じゃない。おにーさんの妹、なら」
ぐっ、と私は詰まる。瞬間、自分の声が必要であって、自分でなくてもいいんだ、と言う意味のことを言っためぐみ君の言葉が重なる。
「そういうのって、何か違うよ。それじゃあ、いつまで経っても、ミサキさんはおにーさんの捨てた子を拾って、それにまた捨てられるんじゃない。それじゃあ、良くないよ」
「だけどあたしのことよ」
私は言い返した。
「どうしてそれを、サラダがどうこう言う必要があるの?」
「好きだもの」
さらり、と彼女は言った。
「あたしはミサキさん好きだもの。だからそういう風に、ミサキさんが結局傷つくの見たくないんだもの。それは理由にならない?」
「好き?」
「一緒にいて、楽しいもの。気持ちいいもん。そういうの、好きって言わない? そういうのが好き、だったらあたしの今の一番の『好き』はミサキさんだよ。だからミサキさんが近い先に、落ち込むの判ってて、続けてるのなんて、見たくないよ。それっておかしい?」
は、と私は頭の中がまっ白になるのを感じた。そういう言葉が、彼女から出てくるとは思わなかったのだ。どう答えたものなのか、上手く頭の中で、言葉が出てこなかった。答えるべきなのかどうかも、判らなかった。
しばらく、二人とも玄関先で黙ったままだった。
「…帰るねあたし。別にミサキさんが、それでいいなら、いーんだよ。でも」
でも。サラダは扉を閉めた。
彼女の足音が遠ざかり、隣の部屋の扉を開けるのを確認したら、ずる、と足の力が抜けた。
えーと。
私は言われたことの意味を何度か自分の中で整頓する。でも整頓、という程整頓するものもない。サラダが言っていたのは、一つのことだけなのだ。
私のことが好きだから、私が傷つくのを見たくない。
それは判る。判るのだが。私にどう反応しろ、というのだろう。
くたくた、とそのまま玄関に座り込む。冷静になれ、と自分に命令する。サラダが言っているのは、別にややこしいことではないのだ。友達だから、心配しているのだ。それ以上のことじゃない。ないはずだ。
だけど彼女は私がのよりさんとしばらくそういう仲だったことを知っている。そういう私であることを知っていた上で、あんなことを言うのだろうか。
どうしよう、と思った。
そして、しばらく頭の中がまっ白になった。ぼうっとしたまま、Pタイルのマス目を数えていた。数えているのだが、それが幾つなのか、どうしてもまとまらない。
12を十五回ほど数えた時に、ぴんぽん、とチャイムが鳴った。私ははっとして立ち上がる。のぞき穴から見ると、めぐみ君が立っていた。彼には合い鍵を渡していない。所在なげに立っている彼をそのままにはしておけない。私は鍵を開けた。
「ただいま、帰りました」
ほうっ、と私は自分の表情が緩むのを感じる。彼はここからバイトに通っていた。ずいぶんとその仕事ぶりは熱心で、私から見ても感心するくらいだった。
何か目的がある時、皆仕事の内容になど全く関係なく熱心になる。彼にも何か目的があるのだろう。それはサラダが言うように、いつか私のこの部屋を出ていくことであることは、まず間違いはない。いつまでもここに居ることはできない、と彼もきっと言うのだ。
そして私は置いて行かれる。それは判っている。判っているというのに。
疲れて帰ってきたのに、それでも笑顔を見せようとするこの子に、食事を作ってやったり、一緒にお茶を呑んだり、時には抱きしめたり抱きしめられたりすることから、離れられない。向こうがそれを必要としていることが判るから、余計に、私はそれを利用してしまうのだ。自分の中の、ぽっかりと空いた部分を、それで埋めようとしてしまうのだ。
少なくとも、彼が目の前で必要としているのは、私なのだ。私しか、いないのだ。他の誰でもない。私が兄貴と似た部分があろうが無かろうが、とにかく、私なのだ。私が彼に必要とされているのだ。その目で。その手で。
そこに関係は必要無いのかもしれない。たぶん必要は無い。少なくとも私は必要としていない。抱きしめたり抱きしめられたりすることは欲しいが、それ以上である必要は無い。ただ、それ以上で無いと、何となく落ち着かないから、そうしている時もあるが、…それだけだ。
無くて済むなら、SEXなんて要らない。