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カテゴリ:韓国で見た映画・ドラマ・読書
読書会の2回目。
たった5人の読書会だが、そのうちの一人である日本人女性Hさんが近所に住んでいるので、車に便乗させていただき、ソウルの大学へ。 今日は「四季」の詩人・丸山薫に関する飛田隆夫論文「丸山薫の「郷愁」」と「丸山薫の「物象」」を読んだ。 飛田は丸岡の詩「帆・ランプ・鴎」の理解について、大岡信の解説に一部疑念を呈する。 「帆・ランプ・鴎」を収める『物象詩集』「自序」に、丸山は自分の詩の傾向について「物象への或るもどかしい追求欲とそれへの郷愁の情緒」と述べる。 この「自序」に囚われて、丸山詩の本質を一部見誤っていると見るのである。 すなわち、飛田は、丸岡の詩に「「ものを『見る』こと」についての思索」(大岡)ではなく「「見えないこと」の嘆き」を観る。 丸岡にとって、「もの」=「物象」とはその造形美を称えるためのものではなく、それによって自己の心に造形られる人生の希望や虚無や、生活、人生への愛と失望を述べるためであった、とは丸岡自身が語るとおりである。 つまり、「物象」をとらえることは方便であり、「物象」から醸し出される情緒を歌うことが、この詩人にとって、目的であった、というわけだ。 もとより、『物象詩集』「序」は当時の「四季」同人たちのリルケ理解に影響を受けたものであり、丸山は最もリルケに近い詩人であると同人間で認められていた。そのようなリルケ熱に自らも影響されたところに、丸岡自身の本質からずれた自詩の解説を導き出し、大岡にも及んだ、ということであろう。 以下が「帆・ランプ・鴎」の詩である。 帆の歌 暗い海の空で羽ばたいている鴎の羽は、肩を廻せば肩に触れさうだ。 暗い海の空に啼いてゐる鴎の声は、手を伸ばせば掌に掴めさうだ。 掴めさうで、だが姿の見えないのは、首に吊したランプの瞬いてゐるせゐだらう。 私はランプを吹き消さう。 そして消されたランプの燃殻の上に鴎が来てとまるのを待たう。 ランプの歌 私の眼のとどかない闇深く海面に消えてゐる錨鎖。 私の眼のとどかない闇高くマストに逃げている帆索。 私の光は乏しい。盲目の私の顔を照らしてゐるばかりだ。 私に見えない闇の遠くで私を睨めてゐる鴎が啼いた。 鴎の歌 私の姿は私自身すら見えない。 ましてランプや、ランプに反射してゐる帆に見えようか? だが私からランプや帆ははつきり見える。 凍えて遠く、私は闇を廻るばかりだ。 詩中の「私」とは誰か?「帆の歌」の詩中には「帆」が表れず、「ランプの歌」の詩中には「ランプ」が、「鴎の歌」の詩中には「鴎」が表れない。それは、なぜか? 飛田は「丸山薫は見られるもの(鴎)だけでなく、見るもの(帆・ランプ)をも設定している(設定しえている)。ということは、自己の客観化が試みられているわけで、ここに、丸山薫が、人生における自己喪失の嘆きから、抜け出そうと試みていることを確認できるのである」と結論するが、、、 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.01.18 23:18:05
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