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テーマ:愛しき人へ(903)
カテゴリ:歴史
久しぶりに、津波の映像を繰り返し見ているうちに… このような悪夢の光景を、生じる数十年も前から僕は夢の中で見ていたことを思い出した。 なすすべがない圧倒的無力感の感覚 よく言われているが、僕が小学生当時盛んに流行っていた例の「ノストラダムスの予言」による終末観の影響だった。 そこに原因の全てがあるわけではないと想うが、僕はあの頃から、「大人の世界に移行したい」とは想わなくなったていた。 そして漠然と、僕は33までしか生きられない…と信じるようになったのだ。 2000年が来るとは、「僕は想っていなかった」のだ。 この死生観は、無意識の中に仕舞いこまれ、普段からそのことばかりを気にしていたわけではなかった。 しかし、無意識の奥底で確実に蝕んでおり、まさに青年期にそのヴィジョンが復活していた。 この近未来の救いがたい光景の表現は、僕の人生をその後ことごとく粉砕していたし、今なお僕はその残骸の中にいるのだろう。 そして今年になって、僕が口火を切った、オウム事件の総括は…この時期が当時に重なっているからなのだと想う。 2012年アセンション問題を、世間ではどのように受け止めているのか、だいたい想像はできる。 しかし、あの2012年の問題が囁き始めた頃、その受け止めた世代が僕が食らった小学生くらいの時期のものであったのならば、既にこの世の行く末に対し、通常の未来像は思い描くなっているのではないかと想うのだ。 このアセンションでは2012年をむしろ「待ち望む」待望論があるが、この待望論の前提に、それまでの秩序の清算を受け入れる思想があることは見落とせない。 ところで、現実には2012年を待たずして、昨年の今日…それ以前には2004年の12月26日に起きたスマトラ沖の大津波を、大きなカタルシスとして体験してしまっている。僕達は、その光景が、聖書の「ノアの洪水」さながらであった事を思い知り、その時たとえ無宗教の人間であっても、聖書の中に描写された「証明不能の物語」が現実に起されうることを、改めて認識するに至った。 そしてきな臭い雰囲気を感じるのだ。そして「宗教を営むもの」達が、どのようにこの光景を受け止めるか、誰でも容易に想像できるし、それどころか、宗教神話に語られていた「古臭い」テーマさえも復活して問いかけてきているかのように錯覚する。 ■被災直後の心境に最も近い旋律は、「Bach - Sarabande in D minor」 Bach - Sarabande in D minor - Anne-Sophie Mutter この曲は、哀しげで切なく…それでいて「真実を観察しつづけてきた」独りの哲学者の凛とした心境を物語っているような…そんな旋律だ。ここには「絶望」と「慈悲」がある。そして、これを奏でる奏者の「美」が、この「慈悲」をしっかりと受け止めていると感じる。 ■被災後の荒廃とした街中で、親兄弟知人の行方を諦めずに必至に探し出す…旋律、「Bach - Concerto In D Minor BWV 1004」 Julia Fischer - Concerto In D Minor BWV 1004 Eili ... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年03月11日 17時47分17秒
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