EiliPrivate~思索の森…奇蹟を求めて~

2019/03/31(日)16:34

『広瀬さんの手記を読んで~思考停止に関して』

思索(337)

p149~p170 p203.彼の生死をかけた貴重な分析でもあり、とはいえそのまま受け入れるわけにもいかない繊細で深遠なテーマしかも、ここには、豊田亨君の存在が大きく関与していた….平成も残すところ1か月という時期に、最も重いテーマを投げつけられてしまった…...第三章第二節.まず、論点としてマインド・コントロール下の心理状況についての分析があり、Bさん=つまり、豊田君の弁護団が用いた弁護方針に疑義を提示するという、大胆な内容になっている。この背景には両者の弁護方針に食い違いもあり、3人同時に法廷で裁かれるという異常さもあり、広瀬さんは豊田君の弁明の仕方を、じっくりと「批判」しているのである。.彼の沈黙はの姿勢は、彼の誠意の弁明に沿うものはなかったのか、広瀬さんの精神を追い込んでいったのかもしれない。亨君の沈黙に耐えられなかったのは、僕だけではなかった…当事者である広瀬さんは気が狂わんばかりだったのかとも思う….僕は、この章は胸騒ぎをおこさず読み通すことはできなかった。.これは、豊田弁護団への批判という形をとりながら、亨君本人へ向けられたもので、広瀬さんにとって、「彼にしかわかってもらえない」切実な訴えだったのだ。そしておそらく、彼は、亨君に裏切られた…とまで感じていたかのような内容だった。.そして、それは、本来であれば、教祖が背負い、弁明していかなければいけない事を…広瀬さんは、それを背負い、私は教祖のヴァジラヤーナの教義の意義を深く理解し、同意し、違和感なく受け止めていた…つまり、救済だったのだ…との認識を示すことで、真実の解明を志すというものだった….それをする機会を奪ったのだ…とまで手厳しく追及する。.彼のこの血のにじむ回心を嘉浩君も嘉浩君流のやり方で示すわけだが、彼は部署も任務も違う。亨君は、いわば実行犯としてもステージにおいても同格であるために、広瀬さんにとっては、当時の信者の心情を示す段階において、これほど同様の境遇にあったものはなく、彼がヴァジラヤーナ教義という、凶悪で恐るべき思想の落とし込みについて、自分の心情を吐露した時に、亨君は、思考停止を訴えたことに、腹を立てているのだ….あの静かな面持ちの広瀬さんが、彼の姿勢に我慢ならなくなるのは、おそらくじわじわとだろう…最初の数年しか傍聴に耐えられなかった僕は、この彼の心情の変化を捉えることができなかった。その後、彼にこれほどの重しと、おそらく、亨君には強いやるせなさを感じ…報われない感じまで起こしていたことが予想できる。.それは、ディープすぎるテーマだった。サリン散布の目的、動機に関するものだった.広瀬さんは、ひとつ亨君の事を誤解…買いかぶりすぎている側面がある。僕は、嘉浩君と亨君の弁護側証人として出廷までしている…しかし、接点がそれほどでもなかった広瀬さんのものは…できなかった。.今ここで、当時の広瀬さんの苦しみを解きほぐすことはできない…しかし、これだけは言える…広瀬さんほどではなかったのだ、豊田君は。...89年3月31日に出家し、教祖からヴァジラヤーナの教義をふんだんに聞かされ続けていた広瀬さんと92年93年頃(正確な日を失念してしまった)に出家した彼とでは、その洗脳の度合いが異なる。僕は、亨君が在家時代である91年11月頃に発言した言葉が頭にこびりついている。.「とても、彼ら(先達の出家修行者)のようにはいかないですよ…」「私は、今生は、在家で十分です…」という超控えめな姿だったのだ。在家信者にとって、出家信者の焦燥感は、一種引き気味で、そこまでは埋没できない苦悩を僕も豊田君も感じていた。...その後、嘉浩君や野田成人の強い勧めで、教祖のシークレット・ヨガを受け、そのまま出家してしまった…と聞いている。強烈なオルグで強引だったことは疑いもないだろう….広瀬さんのように、教義を落とし込み、感動し、親も大学の教授たちも入信を勧めるような活動はしておらず、亨君は、内緒…秘かに自分のペースでヨガがやりたかっただけなんだ。だから、ご両親は、彼が宗教やっていたことも出家したこともどこにいっていたのかも最後まで知らなかった….ある時、行方不明の息子が、変わり果てた姿で、TVに出ており、サリン犯となった事を知るのである。.ヴァジラヤーナ教義を、心底落とし込んでいたなどとは、到底考えられないんだ。.あの時、そうヴァジラヤーナ決意がサマナに配布された当時、僕が第九サティアンの麓で、彼と長々と話し合う際に、彼に問い詰めたのは僕だ。「ヴァジラパーニ師長は、これをどう思うのですか?ヴァジラヤーナを…こんな過激なもの信じられますか?」と.その時、彼は彼なりの理解で僕を説得しようと試みるも、それは叶わず、「私にもヴァジラヤーナな教義は、深遠すぎ深く洞察できるものではございません…」との趣旨を述べていた。「時代はカーリ・ユガ、我々の通常の認識で救済できる時代ではなくなってきた」.だから、p159 にあるような疑義、亨君に対しての心情は…救済だからやらなければ…という圧力下において、行為として負けるものの、だが、しかし、心情においては、広瀬さんが感じるほど落とし込めぬ上での犯行だったと僕は思うわけです。。。.その残酷さが、この事件の実行犯に襲い掛かった悲劇だと僕は感じています。...Eili .... . .

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