『もののけの森』
ここ数週間は、様々な思索が訪れるが、苦悩も多いけれども間違いなく精神的には充実しており、同時に一つの場所に留まるよりも様々な地に訪れ、滅多に遭うことのない人達との言葉の交流で刺激を受けることが多い。手紙を書いても返事をもらえないような事があるなか、それでも、何らかの反応だけは確かに受信することができ、それをどのように受け止め自分のものにするかは、すべて今の自分の心の成熟度合いだと言える。.僕はここ十年間近く、仕事をしすぎた。仕事に埋没しすぎた。現世で地に足をつけた生活の重要性を認識しながらも、どこかに大切な体験を落とし込む場所が必要だったのだ。今はちょっと仕事ができるような状態ではなく、休みを頂いているが、それは今自分に必要な時だと思っている。これを僕は「逃げ」とは思わない。むしろ7月の体験を通じてなお、何事もなかったかのように普段どおりに日常生活を送ることのほうが、重要な何かを取りこぼしてしまっているかのような感覚が強い。.創造の環境は、熟成させるべき水と空気が適度に揃っていなければならず、その空間でないと形にならないものがある。.先々週は京都嵐山や太秦や山科にずっとおり、先週はずっと蓼科高原に訪れ散策していた。パソコンなどは持ち合わせていなかったので、記事にしてはいないのだが、こうした生活の中での軌跡は間違いなく自分の精神活動や思索に少なからず影響を与えており、何よりも、気分を変えることができずに苦悩していたのだが、蓼科高原に訪れることで、一気に心が洗われていくのを感じることができた。.朝になると、宿泊したペンションの庭先に、シジュウカラやウソ、山鳩などがひまわりの種を求めてやってきていた。チュンチュンとどこからともなくやってくる野鳥の生活に、いろいろ感じるものもあった。.シジュウカラにとって山鳩は、その大きな体に圧倒されそうなものを、彼らは仲良く餌を口にしている。この光景が、どことなく異様なのは、生物界の多くが、自分の縄張りを主張し、体の大きなものは、それだけで威張り、小さな生物を蹴散らし食い物を独り占めすることのほうが多いなかで、鳩だけは、そうした傾向を示さないという事実だった。.他の種を追い出したりしない。そしてそれを知っているから、小鳥たちは、一瞬は山鳩に驚きながらも、また戻ってきて、山鳩の隣で餌を突っつくのである。.昨日一昨日と、白駒の池の苔むした森林の中で森林浴を楽しんでいた。.言葉は必要ない美しさがあった。もののけの森という場所があり、まさに「もののけ姫」の森の舞台でもあるんだけど、むしろ僕はナウシカの腐海を想起してしまった。.....Eili ...