祇王の故居を過グ
ぎおう こきょ す ひらのごがく 妓王の故居を過ぐ 平野 五岳 なん もち おんか きそ ひと ぜんじょう い よ はる 何ぞ須いん恩華を競うを 一たび禅場に入りて世と賖かなりなら しょうよう せいてい まど あ おな ふ せいし ふさ あや倣わず昭陽の成帝を 蠱わすに 敢えて同じ不せんや西子の夫差を誤るに かじん まつろおお ぶつ き めいぎ ぜんしん らっか 佳人の末路多くは仏に帰し 名妓の前身 これ落下 ぶしゅうへんぺんいま ところ ただみ いぞう けさ つ 舞袖翩翩 今いずれの処ぞ 唯看る遺像の袈裟を着くるを 詩文説明同じ白拍子の間でどうして1人の男の寵を競わねばならないのか。一思いに出家してこの世から逃れるしかない。漢の成帝を惑わせた趙飛燕・昭儀の真似などできようか。また越の美女西施が呉王夫差をたぶらかして妃の後釜に座ったのと同じようなことはしたくない。佳人の末路は仏門に帰することが多い。名妓の前世は果敢なく散りゆく桜の花なのか。軽やかに袖翻すあの舞姿は何処に失せたのか。ただ目の前に看るのは袈裟をまとった亡き人の面影だけである。1,祇王寺 (京都嵯峨野) 2,祇王寺庭園 3,妓女 1,平清盛像 2,祇王木像 3,妓女木像 4,平野五岳1、漢の成帝と趙飛燕姉妹 (1,2、共に[クイーンズ後宮の乱(中国語ラマ)] 2、趙飛燕の舞姿 3,西施※祇王・仏御前白拍子の祇王は「平家にあらずんば人にあらず」と驕り高ぶる権力者、清盛の寵愛を受けて妓女・母刀自と共に平穏に暮らしていたが、ある日、仏御前という白拍子が清盛を訪ねてきて清盛の前で舞いたいと願うが清盛は逢おうとしない。祇王の取り成しで清盛の前で舞うことを許され舞うことになった。すっかり仏御前の舞いに魅了された清盛はこの若い仏御前を迎え入れ、祇王を追い出してしまった。ある日、仏御前が時間を持て余すのを見て仏御前を慰めようと権力ずくで祇王を呼び出し仏御前の前で舞わせた。立場が変わった祇王は屈辱に耐えかね、自害したい気持ちを抑え、出家して母、妹と共に嵯峨野に隠れる。その庵に頭を丸めた仏御前が訪ねてきて清盛に執成してくれた恩と自分も何時かは同じ運命をたどるのではないかと察し、非を詫び許しを請い、受け入れてもらって4人は仲良く仏門での生活を送った。※超飛燕姉妹(姉:飛燕(宜主) ・妹:昭儀(合徳)名は宜主、身のこなしが軽い処から(飛燕)の名を与えられた。やがて皇帝の目に留まり、宮廷に迎えられ、その美貌からやがて姉が皇后へ・妹は昭儀となっていくが、姉妹は皇子出産を狙い宮女達との権力争いを繰り広げるが、皇后の地位を狙う傅瑤(定陶王后)に翻弄され共に自殺に追いやられた生涯であった。※唐代に李白は楊貴妃の美貌をこの趙飛燕に例えたことから宮廷を追われた。西施(施夷光)西子ともいう)。中国春秋時代、臥薪嘗胆の熾烈を極めた呉越の戦いで、越王勾践の臣范蠡は呉を滅ぼすための策として西施を呉に贈る。夫差は西施の美貌に夢中になり弱体化して越に滅ぼされた。後、西施は范蠡と共に斉へ去っていった。(児島高徳が後醍醐天皇を助けに行き桜の幹に『天勾践を空しゅうすること勿れ 時に范蠡無きにしも非ず』と書いたことで有名)作者 平野 五岳(ひらの ごがく) 1809年3月26日(文化6)年~1893年3月3日(明治26)年 豊後国日田郡幕府領渡里村(現日田市)生まれる。江戸時代後期の画僧。名は岳、字は五岳。号に竹邨方外史、古竹園主、古竹老衲など。正念寺に生まれ、のち、専念寺の養子となり同寺を継ぐ。儒学を広瀬淡窓に学び、田能村竹田に画に学んだ。やがて独自の画風を確立していく。享年85歳。