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2008年11月29日
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カテゴリ:漢詩 日記
          民謡田原坂  (美少年像)
詩吟には、歌謡吟、民謡吟、構成吟、浪曲といろいろと組み合わせて吟じることが出来ます。「西南役陣中作」の吟の前に民謡一番を謡います。

•1、雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂。

•2、右手に血刀左手に手綱、馬上ゆたかな美少年。

•3、山にしかばね川に血流る、肥薩の天地秋寒し。

      西南の役陣中の作
    雨は戦袍を撲ち風沙を捲く。江山十里両三家。
    壮図一蹶窮まり無きの恨み。馬を断橋に立てて落花を看る。
        
作者佐々友房は薩摩軍熊本隊一番小隊長として従軍

雨が激しく降り冷えの厳しい中での激戦であった。政府軍は軍服に靴履き、薩軍は和服の袴、草履履き、雨の浸み込んだ服は動きに不利であり、武器も旧式銃だったといいます。大砲も鹿児島からいくつもの峠を越え、熊本まで運ぶ事は大変で4日かかったといいますが、政府軍は電信網を巡らし早急に情報をつかみ、薩軍が熊本に着く2日前には待ち構えていたようです。田原坂と吉次峠に隊を分け、どちらも大変な激戦で、雨のように降り来る銃弾は、資料館のかち合い弾を見ても想像つきますね。攻防は17日間続いたようです。

民謡田原坂 田原坂公園の看板と美少年像(激戦地)公園では絶え間なく民謡田原坂の歌がながれていました。

民謡田原坂 
田原坂登り口の看板    炎上の熊本城     西南の役の戦い

前々回「兵児の謡」では熊本城を引っこ抜きましたが、今度は「西南役陣中作」の漢詩の承句「江山十里両三家」のように民家の無い処に熊本城を作って燃やしました。熊本城も踏んだり蹴ったりの災難です。薩軍が大砲で熊本城を砲火した写真を作りましたが、実際はどうしたことか、官軍の自焼説らしいとの事です。この時、櫓や、天守閣まで焼失したようです。

民謡田原坂
                  田原坂の戦い錦絵
民謡田原坂
    田原坂古戦場掲示板                 薩摩塚

  政府軍は抜刀隊を編成。後に官軍抜刀隊の功を称え歌が出来ました。
         抜刀隊の歌 (6番まで有)
1、我は官軍吾敵は天地容れざる朝敵ぞ、敵の大将たる者は
   古今無双の英雄でこれに従うつわものは、
   
共に慄悍(ひょうかん)決死の士、鬼神に恥じぬ勇あるも、
   天の許さぬ反逆を起せし者は昔より、栄えしためし有らざるぞ、
    
  敵の亡ぶるそれ迄は、進めや進め諸共に、
      
散るつるぎ(剣)抜きつれて、死する覚悟で進むべし。

2、皇国(みくに)のふう(風)、ともののふは、その身を護る魂の
   
維新このかた廃れたる、大和刀(日本刀)の今更に
   ま
た世に出ずる身のほまれ、敵も味方も諸共に、
   
刃(やいば)の下に死ぬべきぞ、大和魂あるものの、
   
死すべき時は今なるぞ、人に遅れて恥かくな
      
敵の亡ぶるそれまでは、進めや進め諸共に、
      
玉散る剣(つるぎ)抜きつれて、死する覚悟で進むべし

民謡田原坂  左は資料館内の掛軸  中央は大きな楠の前に美少年像 
右は西南役の戦死者、両軍14000人の名前が刻まれてる慰霊塔

此の美少年は、薩軍の勇将村田新八の長男の初陣を謡ったものと云われてます。また、薩軍美少年束野孝之丞戦没墓碑15歳。が植木駅の近くにあります。一帯には慰霊碑が沢山あります。






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最終更新日  2008年11月30日 21時04分21秒
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