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アキアキのブログ

2008年12月16日
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カテゴリ:漢詩 日記
           しろやま     にしどうせん         
      城 山   西道僊(仙) (題名・西郷隆盛を詠ずもある)
 
 こぐん ふんとう かこ    やぶ    かえ    いっぴゃく  りてい るいへき  かん
孤軍奮闘  囲みを破って帰る。  一百 の里程 塁壁 の間。

 わ   けん  すで   お   わ   うま  たお   しゅうふう ほね  うず  こきょう  やま
吾が剣は既に折れ吾が馬は斃る。 秋風  骨 を埋む故郷の山。

      詩文説明
孤立して援軍もない軍勢で奮い戦い、諸方の敵を破り重囲を脱して、辛うじて血路を開き、幾山河を超え、故郷の鹿児島に辿り着くことが出来た。それは百里もあろうかと思われる。西郷軍にとっては、遠い遠い道のりであった。その間、到るところに敵の砦があって脱出するのは、敗軍の薩軍にとっては並大抵のことではなかった。やっと帰ってはきたが、既に重なる戦いで、我が剣は既に折れぼろぼろである、数多くの馬も倒れ死んでしまった。もはやこれまでである。今は吹き渡る秋風の中で、我が懐かしい故郷の城山で、この骨を埋めるのである。

(この詩は作者が西南の役が起こった時、深く共鳴していたが、隆盛が戦いに敗れ、城山で自刃したことを聞き嘆いて、弔う意をこめて作った詩と云われてます。「我が剣は既に折れ、吾が馬は斃る」は崇拝している西郷南洲になり変っての句である)

 西道僊(仙の字ともある)

号は寛斎。熊本県天草郡御領村に生まれ、幼児より気概にあふれ士気旺盛にして読書を好み14才で「蒙求集詠」を著した。豊後の帆足万里に師事、数学の道に挺身、のち熊本の家業の漢方医を継ぎ儒者としても世に知られている、長崎で開業。九州鎮撫総督兼長崎県令に一般庶民の姓氏を加えるように献言し、また水が乏しかった長崎に水道工事を完成させた。長崎区会議長・衛生委員会幹事長・医師会副会長など務め、大正2年7月2日78歳没す。

城山 
           私学校銃弾址               私学校跡現在は大学 

城山 
 
おはんらにやった命掲示板   私学校跡         鶴丸城跡
(「おはんらにやった命」西郷さんは私学生達に言った言葉)

城山
  銅像のうしろは城山                               城山の西郷さん銅像

城山 
南州洞窟記念碑     最後の戦いの場所城山の洞窟前      
                    右写真は城山記念洞窟立て看板
 
城山 
洞窟は並んで2つあります。西郷さんが立てこもった洞窟は地元の人から聞いたのですが右側の方らしいです。どちらも奥がなく無理して入ったとしても4~5人位での小さな洞窟でした。
右の洞窟をアップで撮りたかったのですが上手く撮れず左側の洞窟を撮って画質調整して明るくしています。 洞窟は並んで2つあります。西郷さんが立てこもった洞窟は地元の人から聞いたのですが右側の方らしいです。どちらも奥がなく無理して入ったとしても4~5人位での小さな洞窟でした。右の洞窟をアップで撮りたかったのですが上手く撮れず左側の洞窟を撮って画質調整で明るくしています。 
城山
   西郷隆盛終焉の地        西南戦争銃弾跡地説明と看板
洞窟を出て打って出たのち、銃弾を受け「もうここらでよか」の言葉を残し、別府晋介の介錯により自決した。

【南洲は乱をなす気持ちは毛頭なかったし、その心情を一番よく理解せられていたのは明治天皇である。明治16年旨を吉井友実に伝えてその遺族の近情を問わせられ、22年2月11日の憲法発布にあたり、その罪を赦して正三位を追贈され35年6月3日嗣子寅太郎を華族に列し侯爵を授けられた。作者は一世の英傑維新第一の功臣たる南洲の悲惨な最期に満腔の感情をよせたものである「日本漢詩下(新釈漢文大系)」】

【西郷隆盛は生きていた】
なんと、西郷隆盛はシベリヤに渡りロシアいた。という本も有ります。首のない体を見て西郷と決め付けたという替え玉説。このことは平成20年11月25日のテレビQ19:00~21:55迄「新設!?日本ミステリー女の欲が歴史を変えたSP 」の中で文献を基に放映されました。
びっくり!もう一度見たいです。録画するべきでした。







最終更新日  2009年01月16日 18時18分50秒
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