2012/12/31(月)06:52
恋愛モノって実の所恋愛で主人公が成長した振りをして誤魔化しているだけなんじゃないのかと。
深夜アニメで偶にやるアニメの中に、少女漫画を原作としたアニメがやっている事がある。ラノベ・ゲーム原作やらヲタ向けアニメが大半占めるのに、女向けアニメ(若い子向け)は一期あってあるかないか、である。元々深夜アニメはヲタ向けだから少女漫画が其の儘アニメ化するという事はない。女を対象としたアニメは腐向けとなる。男だらけで女一人。紅一点アニメ。なんで女だけが男集団の中で一人なんだか良く判らん。薄桜鬼もそうだったし、BRAVE10もそうだったし、緋色の欠片もそうだった。カイジのように男100%でもいいじゃん。逆にひぐらしやサムゲ荘…じゃなかったさくら荘とかベン・トーも女だらけの中で男一人(でもないが)のパターンが多いなあ。でもこの原型を作ったのって、高橋留美子が悪いんかねえ?腐にも転がるし、ハーレムにも転がる。ラノベはハーレム作品が多いし(これは大半の読者が喪男だらけだからだろう)、その為かアニメ化の需要も多い。男が多いんだからそう言う風潮にもなるんだろう。コスプレは女の文化だとDJ.taiki(王国民)は言った。サイズも女仕様が基本と言う。如何に軽量級で頑張ってもやっぱり挌鬪家は筋肉の塊だから、一般人と較べて服のサイズは合わんのだろう。コスプレする人は女の人が多いよなあ。コミケもそうだし、変身願望が強いからだろう。プリキュアやら魔法少女ものとか、主に女に受けるモノは何十年経っても伝統的ではある。男でプリキュアやセーラームーンが好きなのはどうなのだろうか?変身願望なのか?逆に娘を見守る感覚なのだろうか? ふへー!幼い男かと思ったら、逆だった。喪男はその時だけ『男』になり『父』になる。そういや、アメトーークの子供が可愛い芸人でもプリキュアを観てしまうお父さんで話が纏まってた。 そうそう、少女漫画や腐向け漫画(少女漫画とは違う)に出て来る男ってのは主人公の女よりも成長してる『大人』なんだよなあ。※ここで漫画と書いてるが片仮名のマンガでもあり、アニメやゲームやラノベなどサブカル全般を含む表現媒体の事を指す。そう取らなくても女の方が子供であり幼く見える。頭身の描き方も男は190センチある訳ないのにデカく見える。大きく見える錯覚からだろう。アニメだが『好きっていいなよ。』とか、『君に届け』とか『イタズラなキス』とか、必ず女の方の成長を詰る所に来る。責める。読者(視聴者)に問うている。おおかみこどももそんな感じ。男は成長し切っていて、問われているのは女の方だった。ラノベは主人公の男の成長を促したり詰ったりはしないよなあ。流されるが儘であり、有りの儘を肯定する物ばかり。やっぱりこんな事になってるのはエヴァンゲリオンの所為なのだろうか。碇シンジが成長を止めて引き籠っていて有りの儘を皆で認め合って肯定するので前世紀のアニメはそこで終わってしまった。そしたら監督はそんなものは気持ち悪いだけだと突き放してしまった。 路頭に迷ったヲタ達は只管自己肯定のコンテンツを求めるようになっていってしまった。 NHKにようこそもそれになぞってしまったよなあ。以降、本田透が言うように泣きゲーに奔る人も増え、ラノベが漫ろに広がるようになってしまった。 まほろまてぃっくはエヴァのような過ちを繰り返すまいとした形跡と痕跡が見受けられる。周りが変わって行くのに自分が変わらないでいられる事はない。 本当の幸せは自分が成長してこそ手にする物だと言うようになった。本質は変わる事はないと。自分の進む途を阻んでるのは自分自身だと言う事。ATフィールドは心の壁である事は言われてる事。 自分の信じた道を突き進む事こそ、未来は明るくなる。グレンラガンで変化の兆しが見えて来た。 そこで15年越しの碇シンジは自分しかやる人がいないと悟るようになる。突き進む道を阻んでいたのは大した事のない悩みだった。それを先輩に諭されてしまった。マリって同年代だけどどう見ても婆臭いなあ。 それでも更に14年と時が進むけど、結局この話はやっぱり自分の意図した事とは別に話が進んでいく。何時迄も子供でいるように見えるのは、他ならぬ受け手が成長してるから。ヱヴァQは余り受けが宜しくないらしい。 当時少年だった者はもう大人だよ。今更碇シンジのように成長しない振りをしていられんだろうけど。読者視聴者迄もが成長を拒む奴なんているんかね?引き籠りの応援歌か? 本田透は自殺するくらいなら引きこもれと言う本で、否が応でも人は引き籠ってはいられなくなると言ってる。当たり前で、お金稼がないと食うに困るし。世間の風当たりも厳しくなる。アニメNHKにようこそや奥浩哉のめーてるの気持ちでも引き籠ってる青年が、そうでいられなくなる描写が出て来てしまう。飢えである。めーてるでは親類が死んで誰もいなくなってしまい稼ぎ頭も無くなってしまう所でラーメン屋に漂流してラーメン屋の店主になるというお話で終わる。NHKでは主人公にアドバイスを送るネット住民がやっぱり重症なのだが、金も底を尽きて食い物に困るという状況に陥ってうどん屋のバイトを始める描写で解決する。漫画でも社会復帰するんだけどね。 花沢健吾のルサンチマンは主人公は半引きこもりだが就職していて悩みはモテない事だけ。コミュ障でもなさそうだし。 どうも、恋愛に結びつける所が腑に落ちない。少女漫画だと其処が限界かな?ステータスが恋愛そのものだし。ジャンプでラブコメが流行らないのも読者が幼いからではなく努力勝利友情が根幹だからだろう。でもジャンプは実際は血縁が素晴らしい邪王心眼だから突き放されるが。それでなくても、ラブコメが流行らないのは主人公がヘタレでもないし、女が劣ってる訳でもないし、男がヘタれてたらそれこそギャグ漫画で終わるから。 少女漫画の主人公の女は前述だが周りの人間よりも劣っている事が多い。女子力を上げる事が成長の証なのかね?恋愛をする事で格を上げてるように思える。少女漫画のラブコメってスポーツ漫画なのか? 女子のスポーツ漫画ってあるのかどうか判らんが、需要がないように思える。アニメでお目にかかった事がない。バレーボール漫画やテニス漫画はあったかも知れんが。でもそれは男に取って代わっちゃったよなあ。女はどうも成長を諦めるのが早すぎる。夢を見るのを諦めてしまう。力の差が如実に現れ出して来るのも中学位だしなあ。レディース系の漫画(成人女性向け、と言ってもエロくない一般向け)では働く人やら大学生が主人公の場合があるが(働きマンとかのだめとか)、仕事ではなくてやっぱりこれも恋愛に帰結してしまうよなあ。 恋愛で成長した振りをして誤魔化しているように思える。正直な感想。だって恋愛で成就するなんて殆ど無いでしょ?恋愛した振りして折り合いつけて入籍するでしょ?年収600万は高望みで、現実は300万以下で妥協して現実を見るでしょ?(それでも200万以下は相手にもされません) お見合いは馬鹿にされるけど、合コンだったり出会い系だったり、結婚サイトで漸く身を固めるでしょうに。昔の学生時代の初恋はどこ行ったの? さすが少子化非婚化が進み過ぎてテレビでも漸く選り好みをする女共に対して現実を見ろと説教するようになった。 その点で言えば、北斗の拳はやっぱり良く出来ているなあ。リンがバットの本当の気持ちに気付くんだもん。子供の頃のリンはあんなに気丈だったのに。ケンシロウは高望み。強くていつでも助けに来てくれるが、リン自身の傍にいつも気を掛けて守ってくれた人がいるぞと諭してくれるんだよね。それがヘタレのバット。 北斗の拳の連載当時は貧しさも知らないバブルだったこともあり、着飾る事で男はついて来た、若しくはステータスの高い男について行けると言う風潮だったから、本当の愛に気付くことが中々無かった。武論尊はカンボジアの惨状を目の当たりにした事もあって、危機感を何処かで感じていたのだろう。でも、女は本当に何が一番大切なのか気付くのは北斗の拳が連載し終えて25年以上経つ今でもないのだから悲しい。外面で着飾らないと気付き始めても、内申書至上主義を学生時代過ごして来た彼等は中身を鍛える事で成長出来ると勘違いし始めた。更に失われた10年だこりゃ。鍛え始めても結局は差を付ける事なのだから、底辺にお互い転げ始めるのは必至。 低いスペック同士(男女同士でもあり同性同士でもある)でお互い罵り合っているだけなんだもんなあ。遂には将来の希望や夢をかなぐり捨てて専業主婦願望論迄出て来てしまうのである。逃げてしまった! 男女平等を掲げたフェミニストは何処行った!?フェミニストは死んだのか?女子の待遇が悪いと先進諸国の中では100位以下と最悪だが、これって実は女自身がそれを選んでしまってるんじゃないのか?だから外国からでさえも馬鹿にされた儘なんじゃないのか。幾らフェミが女の待遇が悪いと世界中に触れ回っても、当の女自身が世界から馬鹿にされてるんじゃないのか? 男女平等どころか、何もかも人々は江戸時代の生き方を選んでしまうのだ。嘘偽りの権威主義に安定と言う名の固定階層、互いに影で罵り合う世間、逃げ口上ばかり用意する社会。上からの押し付けも江戸時代に似て来た感じもする。 理想は遠い。 全て遠き理想郷。 アヴァロン!Fateじゃないか。